第25話 幸せに思う



 体が温かい。ぬくもりに微睡みながら目を開けると、傍らに雪乃がいた。雪乃は貴之の手を握って気を送ってくれていたらしい。

 貴之の手とともに握られているハンカチで、貴之の汗を拭ってくれたのだと気づいて、頬が自然とほころんだ。


(ずっと懸命に看病しててくれたんだ……雪乃ちゃんに何かしてもらうの、初めてかも)


 周囲はすでに暗いが、暖かい。暗いのは夜が更けたからであろう。正確にはわからないが、日付が変わったか変わらないかくらいだろう。暖かいのは社殿にあった火鉢に火を熾しているからのようだ。


「ありがとう……雪乃ちゃん……」


 貴之の手を握り、気を集中させていたらしい雪乃は、顔を上げて顔をほころばせた。


「貴之……気がついたのか……」

「ごめん……ね。心配かけちゃったね。もう大丈夫だよ」


 ゆっくりと起き上がる。多大な身体のだるさと痛みがあるが、なんとか堪えて動ける。


「痴れ者っ。怪我をしておるのに……」

「ずっと握っててくれたんでしょ? だから……大丈夫だよ」


 説教しようとしたらしい雪乃の言葉をさえぎって、微笑んでゆっくりと諭すように告げると、雪乃の頬がぱっと赤く染まった。

 次の瞬間には、手を離して視線も外してしまう。いささか名残惜しく思いつつも「あの時ね、雪乃ちゃんが……」と説明しようとすると雪乃が少し身を硬くしたのがわかった。

 雪乃の反応に、痛ましく思う反面、可愛らしくも思い、少し口元が緩んだ。


「すぐに宮たち三人を僕の中に戻してくれたでしょ? おかげで、血止めと痛み止めの符の代わりになってるんだ。だから数日は無理しなければ、祓いもできるようになるよ」


 雪乃がはっと顔を上げた。ひどく幼い印象を受けた。


「そう……か。……いや、あのとき血を止めねばと思ったが、符を作る余裕もなかったし、あやつらはもともと純粋に貴様の気で作られた式であろ? であれば、貴様に戻してやればと思ったのだ。思ったとおりであったのだな。……よかった、大事に至らなくて」


 今度は貴之がはっとする番だった。雪乃の声は本心から安堵しているような、柔らかな声であった。

 それ以上に雪乃の笑顔に釣られ、貴之は微笑む。微笑むと雪乃は、むっとした表情をした。ただし頬は赤い。


「何だ、バカ貴之。急に、その……にやけおってから」

「あ、いや……久々だなって思って。雪乃ちゃんの笑った顔……やっぱり笑顔がいいね。一番かわいい」


 はにかむような清楚な笑みは、貴之が初めて目にするものであった。単なる照れてではなく、愛しむような笑みを向けられたのは初めてで、胸の奥に小さなぬくもりと撫でられたようなくすぐったい感触を感じたていたが、頬には平手が飛んでくる。


「ああもう……この無言の拳も、ひさびさでいいね」


 これも本心だ。ただ、少しだけ惜しいなと感じていたが。


「煩い! そんなにいいなら、いくらでも見舞ってくれるわ、このバカ貴之め」


 言葉通り、何度かぺしぺしと――多分に加減して――殴られたところで後ろから静かな声が掛けられた。


「それまでになさいませ」


 雪乃は声の主と、傍らに佇む連れ――樹親子を睨みつける。


「いつから、そこにいた」

「つい今しがた。雪乃様が目を覚ました貴之と手を取り合って見つめ合い、年相応にお可愛らしく頬を染められたところから、じっくり拝見しておりました」


 二人とも、どこまでも淡々と、報告書を読み上げるように告げる。二人の台詞から察するに、二人は貴之が目を覚ましたあたりからいた、ということだ。


(ぜんぜん、つい今しがたじゃないと思うよ、きいっちゃん)


 心の中でそっと意見を述べる。根が生真面目だというだけだと思っているのだけど、もしかして今のは、からかわれていたのだろうかと貴之は思う。

 樹は雪乃の前に歩み寄り、膝を着く。


「泰雪様の命で、お迎えにあがりました。真紀子に風呂の用意をさせております。帰られましたら、ゆるりとお浸かりください」

「あの、樹……ごめんなさい。迷惑を掛けた」


 歯切れ悪く、相手を見ることもできずにぼそぼそと詫びる。すっかり気落ちしている様子の雪乃に向かって、樹は静かに言う。


「心配はいたしましたが、迷惑を被ったとは思っておりません。下に車を待たせております。さ、お手を」


 雪乃はおずおずと差し出された樹の手をとった。台詞を言いながら、自分の襟巻きを巻いてやった樹のさりげなさに、貴之はいたく感心した。なるほど、こうするのか。


「立てるか、貴之」


 いつもどおりの冷静な声で、紀一は問うてくる。貴之を見下ろす冷静な顔をじっと見つめる。従兄弟である前に、親友でありたいと願う男の顔を、じっと。

 にっと笑って「起こして」と甘えて手を上げると「仕方のない奴だ」と言いながらも手を貸し、肩を貸してくれる。


「ごめんね、心配したでしょ?」

「雪乃様を……な」


 熱のこもらぬ声で、さらりと返される。間近で見た紀一の顔は、いささか疲れが感じられたので言ってみたが、帰ってきた反応はいささか冷たすぎるのではないだろうか。


「あう~僕は?」


 一呼吸分の間をおいて、さらに突っ慳貪つっけんどんな言葉が返ってくる。


「こうして迎えに来て、肩を貸してやる程度にはな」と――。


 だが、紀一らしいと貴之は嬉しくて、つい「きいっちゃーん」と抱きついて、即座に怒られた。


 冷たく言いながらも、貴之とともに歩んでくれる友人がいて――


「まったく……何をしておる」


 雪乃が小走りに走ってきて貴之の袖を取った。


「勘違いするなよ、当主代行として家人のことを思ってやっているのだからな」


 ――守りたいと願う、愛しい少女がいる。帰りを待っていてくれる友人もいる。それは、とても……


「幸せだなあ」

「貴様じゃない、紀一だ」

「ひどい……即答しなくてもいいのに……」


 貴之が嘆く横で、紀一は表情を変えずに「お気遣い、痛み入ります」と生真面目に応じた。

「ほれ」と再び雪乃は手を差し伸べる。差し出される小さな手。差し出した小さな主の強い瞳を、つかの間じっと見つめる。

 母がいなければ何もできなかったあのころの貴之とは違う。守れなかった人もいるけれど、これ以上なくしたくない。


(胸に誓うは、唯一事……)


 そっと、これ以上ないほど優しく、雪乃の手を取ってみた。




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