第24話 泡沫の夢



 簡素な拝殿の内はよく清められていた。小さな火鉢があり、火を熾せば暖が取れそうだと、薄ぼんやりとした思考で判断した。戸を閉め切ると寒さは幾分かましになった。

 戸口付近ではあるが、貴之は仰向きに横たえられた。雪乃を見ると、青ざめた顔で唇を微かに震わせていた。震えながら書いた止血の符と痛み止めの符を押し当てる。


「貴之」


 歯の根が合わないような、か細い囁き声で貴之の名を呼んだ。震えながらハンカチで貴之の汗を拭う。雪乃の所作で、汗が滲んでいることを知った。


(変だな、寒いのにな)


 思考は霞が掛かったようにぼんやりとしている。それでも何故か、雪乃の姿をしかと捉えられた。

 ああ……と、ようやく理由に気づいた。魂が遊離しかけているのだ。気づくと急に力が抜けてきた。


「たっ、貴之!」


 雪乃も貴之の状態を察したか、悲鳴を上げて貴之の手を取った。目に涙を浮かべて、体を震わせる。


「いやっ、嫌だ、バカ貴之! 逝くな……逝かないで……」


 搾り出すような声とともに、涙がはらはらと降ってきた。耐えるように涼やかな瞳を閉じて、けぶるような長い睫毛を震わせ、さらに、か細い肩をも震わせた。

 貴之の胸は、引き絞られるように痛んだ。


(そんなに泣かないで。そんなに震えないで。術者と生まれ育ったから、逝くことに後悔は――完全にないわけじゃないけど、いいんだよ。こんなこともあるって、覚悟していた。僕は、キミが無事で嬉しいのだから。だから、泣かないで)


 貴之は腕を上げようとした。だが、指一本すらも動かすことはままならなかった。ふと内心で、自嘲の笑みが漏れた。


(ああ、でも、キミの涙を拭ってあげられないのは残念)


 雪乃が何事か言っているようだが、雪乃の姿も声も感じられなくなりつつある。


(雪乃ちゃん……ごめんね、雪乃。ずっと、守ってあげたかった)


 そっと雪乃に詫びながら、脳裏に雪乃の姿を思い浮かべた。

 人は死ぬ直前に人生を振り返るのだという。一つずつ記憶の奔流を過去へと遡る。

 過去の出来事が、次々に消えては現れていった。振り返ると、苦いものがじわりと浮かんできて、胸の奥が疼く。

 雪乃への思い以外にも後悔することは多いと、貴之は己の心の奥に潜んでいたものを垣間見た。

 泰雪のことも、悔いることの一つだ。ずっと心の隅で、自分は力ずくでも泰雪を止めるべきだったのではないかと思っている。

 紀一のように、建前上も主従という柵があるわけではない。友人として一定以上は踏み込むなと注意すべきだったのではと、思えてならなかった。

 いくつも過去を振り返り、見えたのは記憶の源流。

 雲を割り、月が顔を出す。星は煌めき、先ほどまで続いた細雪の余韻が大気に残り、雪が月光に打たれて静かに白く輝いた。


(懐かしい……庭から里を見るのが好きだったな)


 貴之の実家は山の山頂付近に居を構え、山の頂上には御櫓が安置されていた。麓には一族が七十名ほどいる集落があり、集落を含めて結界が張ってあった。

 外界とは最低限の交流しかしておらず、何事もなければ一生の大部分を結界の中で、そこそこ平和に暮らしていたはずだった。

 厳格だった父と優しかった母の姿に、貴之は二人より先に逝くことを詫びた。

 貴之にはもう一人の家族がいた。睦夜という名の歳の離れた弟がいた。兄になったのは嬉しかったし、弟も可愛く思っていた。

 なのに、母の愛情が弟に傾けられているようで、貴之はそれが面白くなかった。少しずつ、それこそ埃が溜まるように暗い感情が少しずつ積もっていたことに、幼かった貴之は気づかなかった。

 初春に生まれた弟も秋ごろには寝返りも打てるようになっていた。記憶の中の睦夜は、幼い貴之の前で、すやすやと眠っていた。


「母上はむっちゃんのことばっかり……。嫌い。むっちゃんなんか、いらない。大嫌い」


 弟が生まれて初めて不満を、ちょっとした不満を口にした。貴之にすれば、ただそれだけだった。

 だが、弟の命を奪うには十分だった。今でこそ雪姫たち四体に力を分けているが、当時はまだ分身たる式神もおらず、あふれる霊力を完全に制御しきれていなかった。

 月姫は、生来の陽の気が強すぎる貴之に合わせて陰の気に傾けるために創った。月姫により正常な陰陽バランスを保たせ、やっと感情的になることも減ったのだ。

 異変を感じた両親がすぐに駆けつけ、貴之は監禁されることになった。母に東へ行けと言われるまでの一年間、ずっと離れで暮らすことになった。連れて行かれる直前、止められなかったと泣いていた母の横顔が忘れられない。

 一年後、母に命じられるままに一族の結界を破壊して逃げた。里を出る折、未練で後ろを垣間見た貴之の視界の端に、父の式神が舞うのを見た。

 懐郷の記憶のあと、不思議なことに、今まで遡っていた記憶の奔流を、今度は順番に辿っていく。そして――。

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