第23話 殺生鬼
気を辿り、雪姫が探し当てたのは、町の中にある小さな神社だった。五段ほどの石段があり、小ぶりな鳥居と両脇に鎮座する狛犬があり、手水所が設えてあった。
八間程の間を経て、一般的な横拝殿があり、最奥に小さな本殿が見られた。通常は見られる社務所らしき建物が見られない代わりに、敷地の横手から細い道が伸びている。
おそらく、道を下った先に社務所か神職宅があるのであろう。差異はあれど、極々普通の神社であった。
拝殿の前に、薄紫の着物姿の女がいた。吹く風にも靡くことのない黒髪の女が、賽銭箱の前で佇んでいた。姿としてはごく普通だが、纏う空気は、墨よりも黒いものであった。
「話に聞いたとおりの姿よの」
硬い呟きに、貴之は同じく小声で告げる。
「禍々しさも聞いていたとおりだね。幻惑能力があるみたいだから、とりあえず距離をとっていくよ」
幻惑方法として考えられるものは多いので、一応は距離を置く。現在の距離は、おおよそ八間。
『術士か……久方ぶりの大餌じゃ』
笑うように口元を禍々しく歪めた。ゆらりと周囲に瘴気が立ちこめる。怖気のする顔に、人を餌と言い切る口ぶりが癇に触れ、目を眇めた。
「ナウマクサンマンダ バサラ ダン カン!」
「オン シュチリ キャラロハ ウンケン ソワカ」
雪乃と貴之は同時に呪を唱える。雪乃は三毒を喰らう焔の呪を、貴之は悪鬼折伏の呪を唱えた。
内包する霊気は呪を経て眩い光となり、漆黒の瘴気と衝突し――相殺。霊気と瘴気が互いに滅しあい、散じていく。
「凄まじい瘴気であるな」
雪乃の呟きを、無言を以って肯定する。殺生鬼を観察しながら、妖気の流れを読む。
施術の時には妖気なり霊気なりの気の流れを読み、手段を講じる必要がある。読む力は修練よりも経験によって身につくが、雪乃はまだその域には達していない。
雪乃の動きにも十二分の注意を払いつつ、同時に殺生鬼の妖気と動きを読んでいかなければならない。
「遠距離では難しいね。危険だけど、ある程度まで近づいて、瘴気を切り裂いて直接に本体を叩かなきゃいけない」
貴之は気の流れから決断する。雪乃を危険に晒す確率が高くなるが、いたし方ない。
(雪乃ちゃんは拒否するかもしれないけど、我慢してもらうしかないな)
「出ておいで、雪姫、雪宮」
葛藤は一拍で済ませ、貴之が声を張り上げると、声に呼応して雪姫と雪宮が現れる。雪宮は神社に到着する前に呼び寄せて、潜ませておいた。
「ゆきの」と雪姫は雪乃に傍に駆け寄り、一振りの薙刀に変じた。
雪乃は刹那の躊躇を見せた。が、拒まずに柄を掴む。長さは一般的な七尺程であるが、刃渡りはやや大振りであり、柄は紅の華美な薙刀であった。
「姫は君の武器となり、宮は君の盾になる」
貴之の言葉を肯定して雪宮が一鳴きすると、周囲に溢れそうになっていた瘴気が霧散した。直後、雪宮はすっと雪乃の中に入り込んだ。柔らかな光が雪乃を縁取るように煌めいた。
二体はいずれ雪乃を護る力としたいと〝雪〟の字を冠した名にした。雪宮は護身結界の役割を果たし、雪姫は刃となる。
雪乃は端的に「わかった」と応じ、雪姫を構えて殺生鬼に向き直る。
貴之は右手に気を集中させ、蒼い飾り紐の付いた一振りの太刀を顕現させる。月姫の変じた姿である。
殺生鬼はどこまでも禍々しく顔を歪めて嗤っていた。雪乃は薙刀を中段に構えたまま、殺生鬼との距離を一気につめる。
「はっ!」
刃を振り上げ、斜めに切りおろす。瘴気を切り裂いて下ろした刀を、殺生鬼は腕で受け止めた。
力が拮抗し、きんと金属音に似た音とともに霊気と瘴気がぶつかった。
「バキラヤ ソワカ!」
貴之の放つ真言が瘴気を払い、雪乃を後押しする。拮抗が解け、刃は腕を断つ。
腕は地に落ちる寸前に霧散した。痛みの表情こそ見せなかったが、殺生姫は素早く横に退いた。
雪乃は足を踏みかえ、薙刀を横に振った。だが、殺生姫の肌をわずか掠めたのみにとどまった。
勢いがついて、蹈鞴を踏んだところで、雪乃は戸惑うような怪訝な表情を見せた。
雪乃の様子を気に留めながらも、貴之は好機と見て一気に距離を詰めた。思い切り太刀を振るう。
ふと足元に違和感を覚えた。踏みしめた地に何かの波動――気配を感じた。
時を同じくして、瘴気が鳴動した。護身の真言を唱える暇もなく、貴之と雪乃は波状に広がった瘴気を浴びる。
しかし、雪乃は雪宮の影響で、無事である。不思議そうに目を瞬かせる雪乃を横目に、貴之は毒を喰らう孔雀明王の真言を唱える。
「オン マユラ キランデイ ソワカ!」
併せて太刀を一閃し、瘴気を祓う。目の前の事象に集中した、まさにその瞬間――。
雪乃に向って伸びる黒い気配に気づくのが遅れた。ほんの一呼吸の間、雪乃から気が逸れた。だが、致命的だ。
「雪乃!」
心臓が、冷たい手で掴まれた。叫んで、一瞬の遅れに留めて雪乃を突き飛ばした。
一切の手加減なしで突き飛ばされ、雪乃は物のように吹き飛んだ。どさっと地面に叩きつけられる。
だが、倒れ伏した雪乃を案じる余裕もない。白と黒の斑に塗られた触手が、貴之の左手首を掴んでいた。
怖気がする感触に、真言を唱える間も与えられない。酩酊したような灼熱感と目眩に襲われ、貴之の感覚が途切れた。
ほんの一~二秒ほどの間を置いて、閉ざされた感覚が戻ってくる。戻ったときには左腕に巻きついた触手の感触もない。場の気流の感覚すら、あやふやだ。
強い酒を飲んだ後の灼熱感と酩酊感、更には深酒の翌朝の宿酔感が一度に来たような感触である。
何もかもがあやふやな中、親指に感じる痛みだけが貴之を繋ぎ止めていた。とっさに月姫の刃に指を立てて親指に傷を入れていたのだ。
二度三度と瞬きをして、顔を上げた先にいた人物の姿に、貴之は声もなく瞠目した。
「泰雪……何で……」
掠れた声で呟く。泰雪がいた。好んで着た黒に近い濃藍色の紬を着流して、ほんの数歩先に佇んでいた。
いや、待て。貴之の中の冷静な部分が制止する。
殺生鬼は確か、人を幻惑する能力があったはずだと、記憶が警鐘を鳴らす。一人でろくに立つこともできなくなった泰雪が、こんな場に居合わせるはずがない。この泰雪も幻惑によるものだ。
ところが、叫びたいのに力が入らない。痺れたかの如く体が言うことを聞かなかった。
月姫を握っている感覚だけは、辛うじて痛みのおかげで残っている。一太刀のもとに切り捨てることは可能だ。
おそらく、殺生鬼はこちらが感覚を全て手放し、幻想の世界に浸るまで餌を我慢できる性質なのだと推察した。
少なくとも感覚的には、思うように身体を動かせない貴之を捕えないあたりからの推察であるが、おおむね当たっているだろう。
だが、できない。泰雪の倒れ伏した姿は見たくない。己の手で為すなら、尚更である。
「何で? 戯けたことを言うなぁ、お前は」
おかしげに笑いの混じる声も、手を口元に当てて笑うところも、泰雪の姿そのものだった。
拳を懸命に握り締め、貴之は努力して笑顔を向ける。
「今の君は。一人で立っていられない」
努めて淡々と指摘するが、目の前の〝泰雪〟は毛の先ほども表情を揺るがせない。
「……そんな身体でも、君は外に出たがったり、廊下まで這い出してきたりして、僕や、きいっちゃんを、つくづく困らせているね」
雪乃が学校などで帰ってこない日を狙って、床から出て、壁を伝い歩きして中庭の景色を眺めていたこともあった。
「君は違うよ。第一、本物だったら、雪乃ちゃんを黙って連れ出したら、まずは殴るよ。ほんとに昔っから顔に似合わず短気なんだから。出会った頃から変らない。僕はそんなキミが好きだよ。……だから、そうしないキミは偽者だ」
告げると、あっさり泰雪は消えた。ところが、代わりに現れた十歳程度の少年を見て、貴之の胸に凍てつく鉄槌が振り下ろされた。
鉄槌の余韻に、胸だけでなく身体が震えた。懐かしさと悔恨とが入り混じった感情が、胸の中で渦巻いた。
あまりの鉄槌の冷たさに、心臓の鼓動は引きつれたように動きを鈍くし、首筋を伝った汗は酷く冷たかった。
年相応の背丈に藍色の着物と揃いの袴姿の、人懐っこい風貌の少年であった。目は大きく、溌剌とした眼差しで、口元には笑みを浮かべていた。
泰雪では惑わせないと思ったのか、殺生鬼が次に見せたのは、貴之の少年時代――ではなく、こうあればという願望込みで作成された、弟の睦夜であった。
可愛らしい風貌を、さっと憎しみで彩らせた。細めた目は十歳程度の少年には見えなかった。
「兄上。私は、生きたかった。母上や父上の期待を一身に受けていたくせに、身勝手な行為で血を分けた弟の命を奪った、あなたを決して許さない」
目元がよく似ていると言ったのは、はたして父だったか母だったかは不明瞭だ。とはいえ、なんとなく自分とよく似た顔立ちとなるのだろうな、と思った覚えがある。声も、貴之が覚えている限りの自身の声に近い。
細部まで再現して見せる辺り、芸が細かい。故に人は無防備となり、簡単に精気を奪えるのだ。
分かっていても戸惑うのだから、予備知識がないものが騙されてもおかしくない。殺生鬼とは人間誰しもに存在する、心中の負い目や葛藤などといった人の負の感覚を探り出し、生々しく伝える嫌らしい性質らしい。瘴気は精気を吸った人の悲哀の副産物といったところか。
「ごめんね、むっちゃん。謝っても、許してもらえないんだろうね」
偽者だ。貴之の願望が妖によって具現しただけのものだ。偽者に詫びるのは偽善だ。
貴之の理性は忠告するが、感情が納得していない。理解していても、言わざるを得なかった。今になって胸を打つ鼓動が激くなる。はたはたと涙が頬を伝う。
十歳離れた弟であった。思いがけず兄になったのは、嬉しかった。ぷくぷくと丸い顔をした弟を、可愛く思っていた。
「ええ。術者の家とはいえ、五体満足に生まれて、いろいろな世界に触れて普通に育っていけるはずだった未来を奪ったあなたを、決して許さない。死をもって償え」
睦夜の手には、小さな体には似つかわしくない太刀が握られていた。
「それしか……君に殺されることでしか償えないのかな?」
ポツリと呟いて、生きていれば十二であった弟の幻を見つめた。睦夜が口を開く――
「バカ貴之!」
被さるように、雪乃の叫ぶような声が耳朶を打った。次いで頬に鋭い痛みが走った。
「凄く痛いよ、雪乃ちゃん」
「煩い! 急に動かなくなるからっ……驚いただろう!」
雪乃は怒鳴る。雪乃の半身は泥にまみれていた。着物の袖が擦り切れ、腕を擦りむいたらしい。
女の子の身体に傷をつけてしまった。後で符を作って詫びようと思う半面、泰雪と睦月の幻に遭遇したことで、貴之の心の中には重苦しい情念が渦巻いていた。
まだ幻惑された感触が残っているのか、いささかの目眩感がする。どうにか気を引き締めて周囲を確認すると、雪乃より二間ほど向こうには切り裂かれた殺生鬼が痙攣しているように震えていた。
(雪姫で一閃し、取って返して、すぐに僕を殴ったとして、一分程度は優に掛かる。……やはり、感覚が違うか)
「――っ!」
貴之たちと殺生鬼の中間の地点付近で、気が揺らいだ。雪乃を突き飛ばす。今度は尻餅をついた程度だ。
白黒の斑の触手が貴之の脇腹を――先ほどまで雪乃がいた場所を抉っていた。「っぐ」と呻き、脇からは血を滴らせて、貴之の体が傾く。倒れこむ寸前――
「月姫っ!」
手にしていた太刀を、斑の触手が出現した地点よりも、やや奥へ向かって投げつける。
深く地面に突き立った瞬間、おおんという啼き声に大気が鳴動したかと思うと、地面から一匹の獣が現れた。
胴に太刀を突き立てられ、のたうつ獣の体は、熊のようにずんぐりと大きい。それでも熊ではない証拠に、体毛もなく、鼻は長く、尾は細く長く殺生鬼と繋がっていた。
今まで相手にしていたのは、尾の変じた擬態であった。夢を食らうという獏という獣に似ていると思った。
しかし、悪夢を喰らい良夢と変える獏と違い、これは精気を喰らい悪夢を植えつける、まったく違うものだ。
石畳に倒れこんだ貴之は、己の体から留めどなく血が溢れていくのを知覚していた。
雪乃は「貴之!」と切羽詰った悲鳴を上げる。貴之の傍らで戸惑い、「符を……いや、筆が……ああ……」と、譫言のように声を震わせた。
逡巡していた雪乃は、はっと悟ったような顔つきになった。
「雪宮! 私から出やれ! 貴之の中に戻れ!」
悲鳴のような甲高い声で命じると、雪宮が雪乃の中から出て貴之に移る。宮の霊力で血の流出は止まり、遠のきかけた意識が、ぎりぎりの限界状態で保たれる。
雪乃は霊力を込めて雪姫を投げつけた。悶えていた殺生鬼・本体の足を傷つける。
が、そこまでで、殺生鬼は太刀と薙刀を残して、境内から消えた。封殺したのではなく、逃げられたのだ。
敵が逃亡し、当面の危機が去ったことに安堵した。
「雪姫、月姫! 貴之の中に戻れ!」
雪乃の命に、二体の式神は元の人型に戻る。説明はしていなかったが、式神の使い方を察しているらしい。
(寒いな……)
二体の式神が戻り、霊的には安定しながらも、体に負った傷は深い。貴之の体を水の入った壷と例えると、ひび割れて水が溢れ出したところへ、三体の式神という糊で無理やり割れ目を補強しているにすぎない。雪花交じりの寒風に身体の熱が――体力が奪われつつあるのを自覚した。
雪乃は貴之の腕をとり、体を起こして担ぐ――というよりも、背に辛うじて乗せた。貴之は雪乃と呼ぼうとして声にならなかった。
「くっ……」
雪乃は歯を食いしばって、貴之を引きずりながら拝殿へ向かう。拝殿までわずか数間の距離であるが、何度も背負った貴之の重みに耐えかねて転んだ。手や足を擦りむいたのかもしれないが、雪乃は払うこともせずに拝殿に向かった。
女の子が体に傷を作ってはいけない。自分はいいからと言いたいのに、まるで声にならなかった。
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