第17話 バカ貴之のくせに



 びくりと体を震わせて、雪乃は目を開けた。

 自室の文机で書類を読んでいる最中に転寝してしまったらしい。卓上のランプの灯りがひどく目に痛く思えた。ゆっくりと身を起こし、そっと吐息をついた。


「しまった……眠ってしまった」


(強くある。強くあるのだ、私は)


 疲れているのだと雪乃は自覚している。

 当主代行として覚えねばならないこと、しなくてはいけないことは多い。泰雪が病床に就いた折から当主代行として家の仕事をしており、大雑把な事は知っているが、やはり細やかな祭事等に関しては側近に頼るところが多く、雪乃はまだまだ学ぶことは多い。

 当主代行という立場にあって、何か不始末があったときに「子供だから」では許されない。幼いからといって侮られるようなことがあっては代行失格だ。家人にも他家にも示しがつかない。

 それ以上に、泰雪の恥になる。年齢など関係ない。統率力がないということは、それだけで十分に不利なのだから。


(私は、強くある)


 だが今日は体が気だるい。昼間に殺生鬼被害者数名の祓いを行なったのが、思いのほか堪えた。

 貴之と紀一が出て行ったあと、ふと今まで貴之が行なっていた殺生鬼被害者の祓いはどうするのかと思い、泰雪に聞いたところ、数名の術者や知り合いに託しているということだった。

 神無月の術者に託された数名を、雪乃が責任を持って祓うと泰雪に請い、許された。行く先々で不安げな顔をされたが、祓い自体は滞りなかった。

 数人の祓いで体力気力共に消費し、これ以上書類に目を通しても捗るまいと、そろそろ休むことにした。

 室内の灯りを少し落とす。卓上ランプの眩い光に彩られていた室内が落ち着いた色に彩られ、部屋の大半には影を落とす。

 ふとやった視線の先――ちょうど淡い光と暗い闇との間に、今朝方、人の組紐を奪ったあげくに放っていった貴之の手ぬぐいがあった。真紀子に話を聞いたところ、自分で洗っていたが乾かず、真紀子にせがんでアイロンをかけて乾かしてもらったそうだ。

 どれだけ綺麗に洗っていようと、腹立たしくて畳んでやる気にもなれず、手をつけていなかった。

 しばし暗闇に溶け込んだような手ぬぐいを見つめていたが、ややあって緩慢な動作で傍に寄り、貴之の手ぬぐいを掴んだ。

 掴んだのと同じくらい、ゆっくりとした動作で抱きしめてみる。

 初雪が降った次の朝、目が覚めると雪乃は――布団を濡らさないためか――洗いざらしの貴之の着物でくるまれて、布団に寝かされていた。

 雪乃は心身の疲労でいつの間にか意識を手放していた。雪に濡れた着物は脱がされ、長襦袢姿であった。

 昨日と同じものだから、家人を呼んで着替えさせたというわけではない。おそらく貴之が手ぬぐいで丁寧に拭いてくれたのであろう。風邪を引かぬよう配慮したのか、湯湯婆が二つも布団の中に放り込んであった。

 あの〝バカ貴之〟は、どんな顔をして雪乃の体を拭いてくれたかは想像つかない。でも、あの大きな手を思い、胸に熾る熱と朝の凍てついた空気の温度差に震えたのだった。

 些細な出来事だ。なぜ今になって思い出すのか皆目わからない。ただ、胸が痛い。胸が痛くて気ぜわしいのだ。ひどく、ひどく落ち着かない気分にさせられる。


(バカ貴之め……あやつが普段せぬことをするから……。私の調子が狂わされて……これはバカ貴之のせいだ。バカ貴之のくせに……あんな……)


 貴之の大きな手が思い起こされた。あの夜ぎゅっと自分を支えてくれた腕の強さと温もりが思い起こされた。


「バカ貴之の……くせに……」


 急に胸が詰まって、声がかすれてしまう。体が寒くもないのに震えた。

 震えた体の側部に何かがぴたりとくっついた。ちょうど灯りの関係で面差しはよく見えないが、窺える輪郭は、幼い童女の体型だ。

 何か不思議な思いがする。どこかで出会ったような懐かしさがあるのだ。

 気を取られていたとはいえ、接近に気付かなかった。今では気配を感じることはできるが、見た目どおりの人間の仕業ではない。はっと、童女の正体に思い至る。


「式神……か。貴之の」

「ゆきひめ」


 抑揚の乏しい声で淡々と答える。そうだ、名を雪姫というのだった。

 雪乃の側面に抱きついたままの雪姫に質問してみる。


「して、何の用か? 無事に着いたという連絡か? まさか、何かあったのではあるまいな」


 訊きながら、少し不安になった。雪姫は雪乃の心中を察してか察せずか、平然と淡々と問いに答える。


「ぅむ。ぶじ。ゆき、おおい。きかんしゃ、だめ。せんだい、いる。あした、ゆく」


 非常に舌足らずな説明であるが、どうやら無事は無事だが、大雪のため仙台で足止めを食らっていて、明日には出発できるらしい。


「ゆきの」


 雪姫は闇の中に紛れるように雪乃から離れ、和紙の封筒を取り出す。


「おてがみ」


 受け取り、灯りの傍まで膝で歩み寄る。和紙でくるむだけの立文たてぶみだ。表には「雪乃様」と、裏には「貴之」と、非常に美しいで綴られていた。

 平静であった胸の奥がさんざめいた。初雪の夜に感じた温もりが、再び思い起こされる。目尻の下が、熱い。


「バカ貴之めが……」


 吐息とともに吐き出した。胸の痛みは貴之が植え付けたものだ。バカ貴之のせいで苦しみを味わわなくてはならないのは、ひどく腹立たしい。

 気を取り直して振り返ると、雪姫は傍まで寄ってきていた。あどけない面であったが、声音と同じく、感情を窺わせるものはなかった。

 前に見たときは余裕がなく、表情が乏しい童女の式神という認識しかなかったが、改めてじっくり見る。ふと、唐突に思い浮かんだ考えに、恐る恐る問いかける。


「貴様、もしやと思うが、私の幼いころを模して創られたのか?」


 幼いころの雪乃から感情を抜いたら、きっと瓜二つな顔だろうと、ふと思ったのだ。


「ぅむ。ゆきの、おてほん」


 相変わらず抑揚乏しく、泰然と答える。


「なぜ、あのバカ貴之が、私を模して式神を創る必要があるのだ」

「ぅむ。じゅうにで、つくる。しきたり。ゆきひめたち、かずゆききょか、あった。たかゆき、ゆきのすき。ゆきひめつくるとき、ゆきの、おもった」


 舌足らずな説明をまとめると、貴之の生家では十二歳になると式神を創るらしい。貴之の場合、十一つで神無月に来たので、生家では創らず神無月で創ったのだ。

 そういえば昔、貴之が三日ほど祭事場に篭っていたことがある。確か修行と聞いていたので、自分もいずれはするのかと思った覚えがある。

「かずゆき」とは、雪乃の父のことだ。父が知っていた以上、祖父も知っていたであろうし、当然、父の片腕でもあった樹も知っていたに相違ない。

 このぶんだと紀一も知っており、泰雪も知っているのだろう。雪乃としては腹立たしいが。ここで、ふと気付く。


「雪姫そなた、先ほど雪姫たちと申しておったが、他にもいるのか」

「ぅむ」


 少し頭が大きいのだろう、腕を横に突っぱって均衡を保って頷いた。先ほど自分と瓜二つだと思ったが、よく見ると自分のほうが美しいように思われる。いや、そうなのだ。


「ゆきみや、つきひめ。ゆきみや、やすゆき、そば。つきひめ、いない。たかゆき、そば」


 淡々と舌足らずな声で答えた。「つきひめ」は傍にいないが、「ゆきみや」という式神はいるらしい。しかも、泰雪と一緒に。


(もー、兄様ったら。また雪乃を除け者にする。紀一も、紀一だ。もう、兄様にだけ甘いんだから。……いや、一番悪いのは貴之か。あのバカ貴之めっ。帰ってきたら殴ってやる)


 式神に文句を言っても始まらないので、ひたすら我慢する。だが、内心では不満がもやもやと漂う。


「ぶうみい」


 ややもしているうちに、珍妙と称してよいであろう声を聞いた。ややあって視認した姿。丸い体躯を持つ式神をしばし見つめて、


「不細工にもほどがある」

「ぶ、ぶみぃぃぃ」


 と、式神は鳴いた。名状し難い鳴き声を上げた物体は三毛猫だった。

 明確に猫だと言い切る自信はなかったが、猫と思った。確かに毛の色は三毛猫のようだが、そう判断するのを覆すような、普通よりも大きくて丸々とした頭部。体はどう見ても達磨に手足を付け足したようにしか見えない。

 しかも、普通より大きい握り飯のような形の目。口はさほど大きくはなかったが、妙にふっくらとしている。冒涜的な体躯と、何とも名状し難い鳴き声を発するものを猫と呼んでいいのだろうか。


「ぶぅみ、ぶみぶみぃ」


 丸い式神が鳴いた。やはり名状し難い鳴き声だ。これで猫のつもりなのだろうか。

 術者は土地に結界を巡らせる関係で、動物は飼えない。清浄な空気を作り出す結界は、小さな動物にとっては毒なのだ。

 雪乃自身も、動物は近所で犬猫を見た以外は動物園でしか見たことがない。幼い貴之が猫をよく知らなかったとしても、雪乃はバカにできないが、造形が不細工すぎる。もう少し何とかならなかったものか。

 雪宮が一鳴きすると、「ゆきの」と雪姫は雪乃に呼びかける。


「ごないしつさまの、おはらだちは、おさっしいたしますが、たかさまをおせめになりませぬよう。ゆきみや、いう」


「たわけ、これが怒らずにいられるか」などという台詞を口に出すより早く、最大の疑問点を確認するために雪宮の首と思われる箇所を右手で掴み上げる。


「ぶぎゅぅ」


 呻き声を上げるが、雪乃はかまわず端的に問う。


「誰が、誰の内室だ?」

「ぅむ。ゆきの」


 宮が応じるより早く雪姫が、さっと短い指を雪乃に突きつける。


「ほう、私……とな……」

「ごないしつさまは、たかさまのごないしつさまでございます。ゆきみや、いう。たかさま、たかゆき。ゆきみや、よぶ」


 首を締め上げられたままの雪宮が「ぶぎゅ」と頷くのを確認した途端、言いようのない感情が沸き上がってくる。

 あっという間に沸点に達し、一気に噴出した。自然と右手に力が入る。雪乃は静かに立ち上がり、右手を振り上げた。


「出てうせろっ!」


 雪姫に目がけて雪宮を投げつけた。ぶつかり、もんどりうって戸を突き破って廊下へ飛び出る。追い討ちをかけようとすると、丸い図体に似合わず素早く二手に分かれて逃走した。


「痴れ者め。誰が……誰があのような……あのようなバカ貴之の……」


 気を落ち着かせるために否定の言葉を言おうとするも、言葉がなかなか出てこない。


(認めぬ! 私はまだ、認めてはおらぬ)


 開いた障子より入り込んでくる冷たい空気に、脳裏に初雪の夜のことが浮かんだ。

 機会あるごとに、つい思い起こしてしまう自分がいる。なんと愚かしく、無様なことかと自嘲の念とともに、怒りが込み上げてくる。

 弱い自分がひどく腹立たしい。ひどく腹立たしいのだ。雪乃は腹立ちを治めきれないまま、その場に座りなおした。

 嵐が過ぎた部屋には、再び静けさが戻っている。嵐に取り残されたように雪乃がおり、突然のことに放り出された文が、畳の上に所在なさげにあった。

 そっと拾い上げ、文机へと身を寄せた。手に持ったまま、灯りの傍らにやり、宛名書きを見つめる。

 あの軽薄な貴之が、どうやってこんな美しい字をと思うほど整っていた。だが、はまさしく貴之によるもので、貴之の気が確かに感じられる。


「バカ貴之め……」


 胸に熾るもどかしい熱気をどうしようか。

 しばし宛名を見つめていたが、ややあって包みの和紙を、恥らいを覚えつつ丁寧に解く。

 開いていく間にも、指先に感じる温もりに鼓動が早くなるのを感じた。

 中には宛名と同じく美しい字で書かれた「拝啓 雪乃様」から始まる手紙を一読する。

 時間をかけて一言一言、丁寧に、流れるように美しい文字を追った。「追記」として書かれた「お腹出して寝ないようにね」まで丁寧に読んだ。読み終えて、雪乃は頬を膨らませて静かに呟いた。


「子供か、私は。……バカ貴之め」




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