第16話 髪結い
雪乃は自室の障子を開け放つ。近頃の空気は、冬の凍てつくような鋭い気配を感じさせる。雪が降り、ここ数日で本格的に冷え込んできたようだ。
(今年は厳冬であるな。後で
今日は
粋を意識して、少し大人っぽく、でも可愛らしさは残しつつ――が本日の趣向である。それなのに、上に羽織るのが格子模様の半纏では格好がつかない。格好を保つために、多少の寒さは我慢する。
だが、やはり寒くて我慢がならず、家人を呼ぼうとしたとき、いつもの騒々しい足音が聞こえた。
「ゆーきのちゃーん」
寒いのに薄墨の紬に色付縞の袴だけの姿で、無駄に元気に飛びついてくるが、身を翻して避けた。――が、貴之は着地すると、すかさず雪乃の傍に寄ってくる。
「離れぬか、バカ貴之」
「ゆーきのちゃん。今日も奇麗な御髪をお持ちだねえ」
人の言うことを聞いていないのか、雪乃の髪を弄ぶ。しばらく髪を弄んでいたが、唐突にするりと真朱の結い紐が解かれた。解き放たれた髪が、さらりと揺れた。
貴之は「うーん、お可愛いらしい」と目を細めて幸せそうに見つめた。褒められても一向に嬉しくない。
雪乃は精一杯むっと睨みつけて「何をするか、バカ貴之」と苛立ちに任せて怒鳴った。対して貴之は不思議そうにのたまう。
「あれ? 知らないかな? 真紀子さんに聞いたんだけどね、古来より旅に出る前に恋人同士や夫婦でお互いの無事を祈って、愛用品を交換していたんだよ。真紀子さんもね、樹さんがお役目で出るときは、いっつもしてるんだって」
二人は紀一の両親であり、雪乃や貴之にとっては育ての親である。齢十をすぎた頃から神無月で暮らす貴之にとっては、郷里の父母を思わせるのか、実子の紀一よりも懐き、事あるごとに傍へ寄り話をしていた。
特に真紀子に対しては、何かと心を砕いて気に掛けている。それゆえ、慣わしごとを真紀子から聞き知っていても、少しもおかしくはない。また仲睦まじい樹夫妻のことだ、古めかしい故事とはいえ、縁起を担いで実際に行っていても、おかしくはない。
だが、雪乃は無言で殴りつけた。
「むっ無言っ……」
頬を押さえた貴之は感嘆の呟きを漏らす。雪乃は怒りのあまり言葉が上手く出せない。
「このっ……黙れこの、バカ貴之めが!」
誰が恋人だと怒鳴りつけてやりたいのに、もどかしくも言葉が出ない。
(単なる婚約者のくせに!)
「怒らないでよ。僕の手ぬぐいあげるから」
「いらぬ! 紐を返せ! 髪を括らぬと落ち着かぬ!」
長く艶やかな髪は好きだが、動くたびにさらさらと揺れると気が散る。祓いのときに邪魔である。
「別の紐で括ってよ。僕が括ってあげるからさ」
そういう問題ではなかったが、貴之に強引に鏡の前に座らされる。亡き母が使っていたという三面の座鏡だ。手彫りの牡丹が美しい代物で、七歳で譲り受けて以来、愛用していた。
貴之は迷わず引き出しを開け、櫛と紐を取り出した。丁寧な手つきで雪乃の髪を梳る。
鏡越しに見る貴之の顔は上機嫌であった。いとおしむように触れながら、梳きとかしていく。触れられる指から感じられる穏やかで暖かな気は心地いい。霊香が感じられ、周囲の冷たい空気まで緩まりそうな暖かさを感じる。だが、同時に雪乃は、居心地の悪さも感じていた。
(落ち着かぬ。……バカ貴之め、兄様にだって数えるほどしかないのに)
幼いころに幾度か梳かしてもらったが、近年はしてもらったことはない。年頃の娘である雪乃の髪に、気安く触れる貴之に戸惑いを覚えた。
「もうよい。早う括れ」
「もうちょっとだけ……ね。それはそうと、雪乃ちゃんは組紐好きだね。リボンを結んだりしないの? 絹とかレースとか……
男のわりには詳しいなと思いながら、雪乃はそっけなく応じる。
「洋物は好かぬ」
「似合うと思うけどなあ。スカートなんかもかわいいと思うけど」
「足元がすーすーして落ち着かぬ」
数えるほどしか着たことはないが、足元が丸見えなのが気恥ずかしかった。ただ、百貨店などで働く女性の洋装をみると着てみたいと思うことがある。洋傘は洒落ているので好きで、いくつか購入したことがあるが、貴之に説明するのはなぜだか気恥ずかしい。
「貴様は……洋装が好きなのか?」
「ん? いや、そういうわけじゃないよ。ただ、雪乃ちゃんは何を着ても似合うだろうから、洋装姿も可愛らしいかなって思っただけだよ」
さらりと不思議そうに言われて、雪乃は居心地の悪さに耐え切れずにそっぽを向く。
「ふん……早う括れ」
貴之は「うーん、名残惜しい」と言いつつ、梔子色の組紐で髪を結った。
「とってもよく似合うよ、雪乃ちゃん」
上機嫌の貴之に「ふん、安い世辞だ」と返していた折、廊下に気配を感じた。
「よろしいでしょうか」
廊下から丁寧に声を掛けられ、雪乃は「入れ」と端的に許可した。
「失礼します」と紀一は障子を開けて、折り目正しく礼をして入室した。赤褐色の紬に無地袴、袷の羽織姿だった。心なしか、二人ともいつもよりいいものを着ているようだ。
「どうした? 何かあった?」
紀一は日頃「二十歳にもなる男が、年頃の娘の部屋に気安く入室するものではない」と言って、滅多に雪乃部屋には入らない。
「出立前に、ご挨拶にあがりました」
予想外の答えに雪乃は目を見開いた。そういえば、貴之も旅が何とかと言っていたと思い出す。
見れば貴之は紀一の言葉に何度か頷き、「お仕事してくるよ~」と軽い調子で笑った。
「どこぞへまいる」
「本日中に筆頭より詳しい話がありますでしょうが、わたしと貴之は遠野へまいります」
「遠野にか……?」
呟き、どういった土地なのか思い起こす。
「地脈の調査か……あそこはうちの管轄であったな」
「左様で」
遠野といえば、五行でいう水の気――水気の根幹地だ。裏の中での管轄は神無月ということになっているが、実際に管理しているのは土着の術士たちだ。土着の術士は土地神を祀り、地脈の正常な流れを守っている。
偉そうに言えば、基本的に管理は土着の術士に任せているということである。とはいえ、裏一門で各地の地脈だのを常に把握していなければならないので、土着の術士との付き合いも当主の重要な務めである。
「やはり、火急に調べねばならぬほど悪いのだな?」
「はい。今年の例年にない寒さは、水気の狂うところにあるとの由。他家も困惑している様子です」
五行の水は時候は冬、方角は北、色は黒を表わす。よって水気は当然のことながら北の地に満ちる。水気に満ちた冬や北の地が寒いのは、当然だ。だが今年は、いささか水気が過ぎたようだ。
「震災で弱った土気のために土が剋てず、また今年は甲子であるゆえ、水気は満ち、時候とも相重なって、水気が急激に増長いたしました」
「震災……か」
独りごち、胸に微かな痛みを覚える。きっとこの話題のたびに、胸を疼かせるのだろうと雪乃は心中で軽く自嘲した。
「……ですが、本来なら考えられない量と質の狂い気のため、木気に繋がらず水気ばかりが増長しての狂い雨となり、ところにより凝って雪を生み、この寒さとなりました。また、先日の降雪の日、わたしも水気の高ぶりを感じました。異常な水気が泰雪にも影響を与えたのではないかと」
紀一は横目で貴之を垣間見た。貴之は口元を引き締めて無言で頷いた。
「あの日、雪乃ちゃんと交代してから占ってみたんだ。帝都内の数箇所の竜脈からの水気の異常な流出があった。近くの医院に気分不良で運ばれた人もいたそうだよ」
やや事務的な口調で、貴之は説明した。泰雪の体調が急に悪くなった原因は水気である、と。
雪乃は高ぶりを感じてはいたが、気が過ぎるだけで体調が悪くなることを想像したこともなかった
内心で落ち込む。だが、そこで紀一が話を再開したので、再び話に耳を傾けた。
「信州などの雪深い地域では、狂い雪のために倒壊する家屋もあるとか」
「どこぞの祠でもやられたか」
「はい。諏訪一帯が相当数」
「何と……」
諏訪は金気を司る根幹地だ。昨年の震災で土気が弱っており、金気を生めない――験力が落ちたとあれば、通常は水気を生めず、したがって水気は沈静化する。だが今回の水気は狂い気だ。収まろうにも、放っておけば害になる。
「桐生家におかれましては、次期当主殿をもって対処にあたっておられるとか」
「又従兄弟殿も大変であるな」
小さく笑いが漏れる。室町時代の後期に分家した桐生は水内に居を構えている。近隣には温泉が幾つも湧いているが、温泉以上に土地神を祀る祠が多い。
何十という祠が潰れたのだ。豪雪の中で一通り回るだけでも骨であろうに、回復させてやらねばならない。根気を要求される地味な作業だ。
派手な性質で、地味な仕事が嫌いで、神経質な四つ年長の又従兄弟が思い浮かぶ。又従兄弟の悪戦苦闘ぶりを思い浮かべ、口元がほころんだ。
「して、紀一。幾日ほど留守にする予定だ」
「勉学もかねて、一月余り」
「そうか」
胸の奥が不安とは違う痛みに軋んだ。
東北は未だ閉鎖された土地だ。近代化は進んでいるものの、古くからの因習を断ち切れぬ土地は多い。他所者をひどく厭うのだ。
ほんの五十年ほど前まで、道に迷って立ち入った旅人を「無断で入った」と難癖を付けて無残に殺めることも珍しい話ではなかったと聞く。
現在は、さすがにそこまでの所業はないにしろ、依然として閉鎖的な土地柄だ。現在は必ず土地の長に挨拶に行くのが慣わしになり、神無月の成立以前にも担当となった家の当主は、代々に亘って心砕いたという。
二人が行くのは閉鎖的だが、神無月当主の名代として挨拶を済ませれば、悪いようにはされないだろう。また貴之だけならともかく、紀一もいるのだ。滅多なことはない。
「大変だろうが、バカ貴之の守をようして、恙なく勤めを果たして参るよう、期待している」
「痛み入ります」
折り目正しく、生真面目に頭を下げた紀一の対応に、雪乃は頬を緩ませる。
「そういえば、兄様に挨拶は済ませたの?」
「さっさと行け、との仰せです」
「もう、兄様ったら……」
眉一つ動かさず淡々とした返答に、雪乃は小さく笑んだ。さっさと行って早く帰って来い、ということらしい。
雪乃は紀一との距離を縮めて、膝の上の手に己の手を添えた。紀一は堅苦しい言葉遣いを貫いているが、雪乃にとって紀一はもう一人の兄なのだ。
「紀一。本当に気をつけて行ってくるのだぞ。あちらは元々雪が深いゆえ、何かと不自由と聞く。私はまだ行ったことがないゆえ、あちらの様子は分からぬが……風邪をひいたり、怪我などせぬように。……あと、その……帰ったら、いっぱい土産話を聞かせて」
どうしても心配で、念を押すように気をつけてと言うだけのつもりだったが、上手く纏まらない。最後は強引に纏めて、ごまかすように微笑んだ。
つい最後は甘えた口調になってしまったが、いまさら後悔しても遅い。雪乃の内心に気づいたかは分からないが、紀一は珍しく柔らかに微笑んだ。
「かしこまりました」
いつもの生真面目な受け答えだが、口元だけでなく、口調にも柔らかさを感じさせた。
「うん。……何やら、待ち遠しいな」
「お気が早うございますよ」
嗜める口調の中に、笑みが滲む。
「雪乃ちゃん! 僕にも行ってらっしゃい、気をつけてって言ってよ~寂しいよ~」
貴之が抱きついてくる。頬ずりされそうになるのを必死で抵抗して怒鳴りつける。
「煩い! 早う行ってこい! 紀一に面倒を掛けさせるなよ!」
「ああ! きいっちゃんと扱いが違うっ!」
「当たり前だ、バカ貴之!」
怒鳴ってやると、貴之が離れていく。自発的ではなく、紀一に腕づくで引きずられてのことだったが。
「行くぞ」
「ひーん。まだ名残惜しいよ、きいっちゃん。……そだ! お手紙書くからね! あっちでのこと、いっぱい書くから、待っててね、雪乃ちゃん」
廊下まで引きずって行き、紀一は頭を下げる。つかの間、ちらっと見せた表情は変化に乏しかったが、心なしか険しかった。
「行ってまいります」
「行ってきまーす。じゃあねえ。それを僕だと思ってね」
丁寧な紀一に対して、貴之は軽く言いつつ、藍染めの手ぬぐいを投げる。
「あーれー、優しくして、きいっちゃん」
「気色の悪い声を出すな」
賑々しくやり取りをしながら遠ざかっていく。嵐が去って雪乃は、ほっと一息ついた。反面、どこか寂しい気がした。
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