第15話 初雪は静謐に降り
しん、しん、と無音で降る雪の中を、赤紅の京友禅の袖をわずか揺らして、雪乃は当ても無く庭を歩き続けていた。
夜も更けたにもかかわらず、凍てつくような空気の中、一人ぽつねんと庭を歩いていた。一歩進むたびに積もる雪に足跡を残した。立冬を迎えない頃に降るはずも無い雪――狂い雪は、ひとひらふたひらと静かに舞い降りている。
(兄様……)
ぱさり。と、やや控えめな音がした。樹木の枝葉に積もった雪が滑り落ちた音だ。暗香漂ったわけではないが、雪乃は伏せていた視線を上げた。そのまま更に上げて、雪催いの空を見つめた。
虚ろな闇から切々と舞い降りる雪を見つめる。静謐な雪は雪乃の頬に静かにおちた。
庭に整然と並べられた灯篭の穏やかな光がなぜか暖かく感じられる。だが灯篭へ目をやると、闇に慣れた目には決して強くないはずの光も、眩しく感じられた。
(兄様)
雪乃は胸の奥に刺さった棘の痛みに耐え切れずに、胸元を引き絞るように掴んだ。泰雪との思い出が走馬灯のごとく蘇ってきたのだ。会話が、笑顔が、温もりが、周りの色や匂いまで浮かんでは消え、また巡る。
(兄様。兄……様……)
胸が抉られるように痛んだ。身をよじりたくなる衝動に身を硬くした。
(紀一がいる。……だから、兄様は大丈夫)
紀一がそばに控えていてくれたのに気づいて逃げるように任せてきた。霊力、気力共に消耗している雪乃では、満足に霊気を送ることもできない。
つまり、また泰雪を守れなかったということではないだろうか。今回は紀一がいてくれたから、なんとかなったようなものなのだから。
兄は咎はないと断言してくれた。でも雪乃の未熟のために泰雪は苦しんでいる。この現状を咎と言わずして、なんと表現するのだ。泰雪がなんと言おうと、雪乃は自分が許せなかった。弱い自分を、守られる自分を。
(強くあらねば……強くさえあれば……兄様だって助けられて、側近にだって迷惑を掛けなくてすむのだから)
後悔し、己を叱咤する間も途切れることなく、淡々と音も無く、雪はひとひらふたひらと舞い降りてくる。全て凍りついたように動かぬ中で、ひっそりと世界を静かに白く染めていった。
「風邪ひいちゃうよ」
静かな世界の中、穏やかに静寂を破って、雪乃の背後から言葉が掛けられる。
「大事無い」
「こんなに積もってるのに?」
軽く笑いの混じった声とともに、雪乃の身体に積もった雪を払い、雪乃を後ろから抱きしめた。
「うわー、冷たい。このまま僕の身体で暖めてあげるねー」
能天気な口調は静謐な場には似つかわしくない。いつもなら怒鳴るところを、振り払うこともせず、雪乃は努めて静かに拒否する。
「要らん。貴様こそ風邪ひかぬうちに帰れ」
「僕、風邪引いたこと無いから大丈夫だよー」
「バカ貴之は風邪を引かぬ……か」
能天気な声に雪乃は小さく笑って、揶揄する。「はうー、ひどいー」と嘆く情けない声に、つい再び小さく笑ってしまう。
が、すぐに口元から笑みを消して囁いた。
「もうよいから、帰れ」
感情を押し殺して呟いた。今は一人で、熱のない静謐な世界にいたかった。だが貴之は拒否するように雪乃を抱く腕に力をこめてきた。軽い身じろぎすら許さぬ強い力に、〝バカ貴之〟との差異を感じて静かに声を掛ける。
「バカ貴之?」
「ごめん」
やや間を置いて貴之は応じた。無音で降る雪の中にあってもかそけき声で、搾り出すような声だった。
貴之のこんな切ない声を聞いたのは、初めてだった。いつもへらへらと笑っていた男の声を、初めて聞いた気がする。先ほどの侘びが何を指しての侘びなのか、ややの間を置いて思い至る。
(私と同じ……?)
一年前の震災の日のこと、今日のこと。貴之はいつも泰雪の間近にいてくれたのだ。雪乃よりはよほど術に長ける貴之が、その実、内心では忸怩たる思いを抱いていても、少しも不思議ではない。
(こいつなりに、思うていたのだな)
「何を言っている。貴様は詫びねばならぬようなことは一切しておらぬであろう」
ぴしりと言い放つと、貴之は身じろいだ。
「したよ。僕は……」
戸惑いの混じる弱弱しい声で言いかけた貴之の声を「煩い」と遮った。
「男の言い訳など聞かぬ。貴様がいたから……兄様は生きてこられた」
震災の祈祷により倒れた泰雪に気を送り、一命を取り留めさせたのは貴之だった。家人はみな倒れ、雪乃は何もできずに震えていた。今日だって雪乃は間に合わず、貴之の式神による知らせにより、貴之が対処したおかげで、一命を取り留めている。
「貴様のおかげでっ……兄様と仲直り……できた」
語尾は消え入るように小さくなってしまう。
家の方針に――泰雪の意思を不服と雪乃は泰雪と口もきかなかった。震災以後、病臥した泰雪を気遣えば優しい微笑を浮かべて、麗しい目元を細めて大丈夫だと答える。泰雪に祓いの成果を報告すれば、泰雪は雪乃を気遣って、雪乃は子供扱いするなと怒りつつも、嬉しくて。家の手伝いを本格的に始めて、失敗をしながらも毎日、泰雪と、家人と過ごしてきた。
貴之がいなければ、震災の日に激震とともに引き裂かれた夢の話でしかなかった。同時にこれからも、と希望を持つことができる。不安で不安でたまらないのだとしても、可能性は零ではない。
「ありがとう、貴之。兄様を助けて……くれて……」
上ずりかける声を抑えながら雪乃は言った。喉が痛んで声が掠れる。だが、ここで醜態をさらして取り乱すなど、断固してはならない。
「雪乃ちゃん……」
搾り出すような声をして、たくましい体躯を身震いさせる。貴之は苦しいくらいに抱きしめた。腕の強さに貴之の思いを改めて思う。泰雪をとても大切に思ってくれたのが、とても嬉しい。
でも、掛ける言葉をうまく整理できなくて、同時にまだ声がうまく出ない。何か言う代わりに、胸の前で交差させた貴之の腕に己の手を添える。
掴んだ貴之の腕はたくましくて、でも冷たくて。なんだか〝バカ貴之〟の腕らしくないと雪乃は感じた。なんとなく可笑しいような、情けないような、妙な気持ちになった。
「それに……な」
ほのかな温もりを持っていた腕を、ぱちんと叩く。
「お前は兄様のそばにいてくれる。同時に兄様もそれを良しとしている。だから、いい」
「そうだね……。泰雪は僕の初めての友達だから、ずっとつきあっていきたい。……それこそ、しわしわのお爺ちゃんになってもね」
静かに言って、いつくしむように雪乃に頬を寄せてくる。
貴之は無言だ。雪乃も無言でいた。再び訪れた静寂を破るのを恐れるかのように、二人は揃って口を閉じていた。貴之の温もりを背に感じながら、無音で降る雪を見つめる。
はらはらと心細げに降る初雪の与える冷たさがあるから、背の温もりが心地よいのだろう。
静かな雪の舞を壊さないように、そっと告げる。
「私は、お前がいてくれて、よかったと思う」
かすれた声が耳元で聞こえた。きっと雪乃の名を呼ぼうとしてくれたのだろうと、なんとなく思う。
「これ以上は言わぬし、聞かぬ。よいな」
返事のように強く抱きすくめたあと、雪乃の髪にそっと口付けた。
不意に体が震えた。どうしようもなく胸が震えた。頬が熱い。
貴之の突然の行為による体の変化に戸惑いを覚えて、反射的に貴之に何か言おうとする。でも、何も言えない。顔を上げようとしても、上げられない。
戸惑い、心乱れた顔を貴之に見られるのは、なぜだかとても気恥ずかしい。うつむいたまま、そのような事態に追い込んでくれた貴之を、心中で罵ることしかできなかった。
(バカ貴之め……)
貴之の腕に力が込められた。だが、すぐに緩められ、しだいに離れていく。
心臓が怯えたように高鳴る。とっさに貴之の着物の袖を掴んで、掴んだところで我に返る。
何故、掴んでしまったのだろう。今すぐ離せば、冗談で済ませられる。
だが、手は一向に離そうとはしない。今更のように貴之の着物を握る手が、体が震え始める。胸が引き絞られるように軋む。
(私は、どうしたというのだ……)
雪乃が内心で激しく戸惑っているうちに、貴之は先ほどのように雪乃を抱く。体を離していた間に冷えはじめていた背に、再び温もりを感じる。
「むー。それにしても、今日は疲れたねぇ、雪乃ちゃん。僕は半里を全力疾走して、その後に祈祷したしさあ、雪乃ちゃんはご飯も食べずに、ずーっと霊気を送り続けていたね」
いつもの能天気な口調だった。いつもどおりだっただけに、憤懣が萌した。
貴之の意図は掴めない。だが、凍てついた静寂の中で、妙に場違いな明るい口調が嫌だった。
(ずっと……数時間ずーっと霊力を送っても、兄様は安定しなかった。また、助けられなかった)
未熟な己を振り返ってしまう。己の不甲斐なさに憤り、さらに貴之にあざ笑われているような気がした。ちゃらけた口調に憤懣を掻き立てられてしまう。
「なら、早う寝ろ」
苛立ちで震えた声で吐き捨て、袖を掴んだ手を離す。なぜ貴之の袖などを掴んでしまったのか不可解だった。
(バカ貴之め、もう知らぬ。大嫌い)
雪乃の内心など露知らぬだろう貴之は、聞き取りにくいほどささやかな声で呟いた。
「うん。じゃあ、寝ようかな」
貴之は耳元で囁く。
「だからね、僕は何も聞こえないんだよ」
震えた。
今日で何度目かわからないが、体が震えたのだ。唐突に胸に熾った熱のためか、胸の奥に凝った何かが不意に溶けた。
貴之はしっかとした声で――だが静寂を壊さない穏やかな強さの声で囁いた。
「雪乃ちゃん、頑張ったね。泰雪は絶対に助かるよ。……二人で、頑張ろうね」
溶けた瞬間、つきあげてきた衝動が不意に溢れて、頬に一筋つーと伝って流れる。
雪乃はとっさに下を向き顔を隠し、口元を押さえて、漏れそうになった嗚咽を堰き止める。
「っ……バカ……之、……め」
歯を食いしばって震える声で罵るも、貴之は何の反応も見せない。
(痴れ者め、寝た振りなぞしおって……バカ貴之のくせに。バカ貴之のくせに、気を使いおって)
身じろぎ、うつむいて震えを止められない雪乃に貴之は頬を寄せる。
「バカ貴之」と雪乃は、やっとの思いで言葉を紡ぐ。
「強くある。私は……強くあるぞ、貴之」
震えに声帯が上手く動かず、声が途切れた。無音で白く染まった世界は音を拒み、全てが凍りついたように動かぬ静寂が場を占めていた。雪乃は静謐に冷えた空気を軽く吸い、吸った分だけ吐き出した。
「必ず」
誓いとともに吐き出す。強くあって、必ず泰雪を助けてみせる。
貴之は身じろぎ、頬をすり寄せて、雪乃の髪に再びの口付けを落とした。
「……っ……」
雪乃はゆっくりと冷えた手で顔を覆い、貴之の温もりに包まれながら、時折ふっと声を漏らしつつも、無音で白く染まっていく静寂の世界にしばし身を置いた。
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