第14話 悔恨の魂留め
有史以来、日本の最大の呪術師集団として、特定の祭事は全て一つの家系の長が執り行ってきた。
土地の神――
おもねる気などない。祭祀をやってやる必要がどこにある。やりたければ勝手にやれ。
かつて、そんな妄言を言い放った覚えがある。今は後悔して止まない。
雪乃は霊気を送り続けていた貴之に懇願して、霊気を送る役目を交代していた。
(兄様……)
子供のように泣いてしまいたかった。かつての自分のように、嫌なことを嫌だ嫌だといって駄々をこねれる立場ではないし、今は駄々を赦すようなことはしないと己に誓った。唇を引き結び、修練で習った呼吸法で、何とか己を保っていた。
香で清められた空気は静謐だった。外ではしんしんと静かに雪が降っている。雪乃が家路を急いでいた折から、急にひとひらふたひらと降り始めた雪は、無音で庭木を染めている。
静かに染められていく外界の静謐さが、屋内にも浸透していく。雪乃に圧し掛かるように、じわりと。
交代して数時間、泰雪の手を握ってずっと霊気を送り続けていた。交代を申し出た家人を下がらせて、震えそうになる手と身体、折れそうになる心を叱咤しながら気を送っている。泰雪の手を撫でながら、時折「兄様」と呼びかけていた。
呼びかけに応じるように、泰雪はふと目を覚まして、唐突に雪乃に命ずるように強い口調で言った。
「「家の為」という言葉を、決して逃げ道に使うな」
己の道は己で決めろ、ということだ。泰雪は静謐な声で続けた。
「おまえは、わたしのようになってはいけない」
言われた言葉の意味を掴みかねて、雪乃は初めて兄の前で狼狽を晒した。泰雪の手を握った己の手が小刻みに震えた。目を見開いて何も言えずにいる雪乃に泰雪は淡々と伝え続ける。
「最低の当主とは、家や家人どころか、己すらも守れぬ者だ」
家を守れ。家人を守れ。そして、己をも守れ。それが叶わなかった自分のようには決してなるなと泰雪は諭した。
「生きろ。お前は、そうやって生きなさい」
凛とした声だった。静謐な中に体を病む前の澄み切った強さが加わった。言葉を切って、泰雪は笑って念を押した。
「できるね、雪乃」
小刻みに震えていた手が、がたがたと震えた。手だけでなく、体の奥から込み上げてくる衝動に、全身がどうしようもなく震えていた。
そんなこと、聞きたくない、最期みたいな言いかたしないで――と叫びそうになるのを堪えて、震えながら手を握ったまま、雪乃は黙って頭を下げることしかできなかった。
じっと身じろぎもせず雪乃は泰雪の傍らにいた。泰雪は再び半昏睡状態に陥った。周囲はすでに薄墨を流したように暗くなり、部屋には薄い明かりと火鉢が二つ持ち込まれた。
最初、灯りは泰雪に配慮してやや離しておいていたのだが、泰雪の命で、枕元へと移された。また、泰雪の希望で障子は開け放たれている。
淡い柔らかな光であるはずなのに、周囲の夜気に呑まれたのか、陰気なものに感じられた。灯りに照らされた兄の面差しは、異様に白かった。
今年の初雪は、無音で庭木を染め続けている。感情を知らないかのような淡々とした静かな舞であった。
今日、初めて降った雪でなければ、見入っていただろう。静かな気配の占める静謐な部屋で雪乃はちらりとやった目の端で、静かに泣くような雪を見ていた。静謐な空気であるから、目を逸らしていても泰雪の気の流れはよくわかる。
(父様がお亡くなりになったときも、こんな静かな夜だったな)
生来身体が弱く、子供の目にも儚かった父は、床に伏せることが多くなり、今夜のような静謐な空気の中、水に垂らしたインクが攪拌していくように霊気が薄れていったのだ。
雪乃は身を震わせつつも、崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。
(逝かないで兄様……。父様……兄様を連れて行かないで……)
ただ、送った霊気がすぐさま散じるような状態ではない。すぐさま逝きそうだというわけではない。
だが、うっかり気を抜いたら、そのまま泰雪は逝ってしまうのではないか。無性にそう思えて、雪乃は震えながらも己を叱咤激励し、呼気法によって気を整えながら泰雪に霊気を送り続ける。
(にい……さま……。兄様。に……さ、ま。にい……さ……ま)
心中で語りかける声すら掠れてしまう。雪乃の咎なのだから。
我侭で責務を放り出した雪乃への罰なのだ。雪乃は術者として未熟であり、震災の折も役には立たなかっただろう。大禍津日神おおまがつひのかみの返しによって内臓をやられて、のたうちまわったかもしれない。それでも、何もしないでいるよりは数段よかった。
術の本質は、護ることだ。たとえ邪法でも、本来は護るべきものを護るための武器として生まれた。
武器を扱うものを術者という。神無月という術者の直系として守らねばならないのは、何よりも家だ。家を形作る人――仕える家人もまた護るべきものの一つにあたる。
祭祀を行い、怨霊を封じることも当然また護ることである。雪乃にも直系の術者として護りの一端を担う責任が当然ある。泰雪は当主であり、責任は誰より重く、また当人も当然と受け止め、当主としての矜持を持っていた。
(大禍津日が解放されれば、皆が危ない。だから兄様は祭祀に挑んだんだ。……分かってたのに。私は……)
雪乃は泰雪のことだけだった。泰雪が危ないことをするのが嫌だった。ただそれだけで、ずっと拗ねていただけだった。
霊気を送り続けて消耗した身体のしんどさにも、この身の置き所のないような思いにも、胸を潰すような思いにも耐えなければならない。雪乃は顔を上げた。
びくりと身を震わせた。泰雪と目が合ったのだ。いつから見ていたのか、泰雪はしかとした目で、じっと雪乃を見つめていた。
「雪乃」
美しい声だった。倒れる前の精気と気品に満ちた美しい兄の声だった。
「お前に咎はない」
凛とした声であった。耳心地のよい声は雪乃の愛してやまない声音であった。泰雪は一言だけで目を閉じ、顔を真上に向けた。
「に……さま」
再び、堪えがたい震えが来た。体の奥から湧き上がって来る震えに、どうしようもなく震えていた。
(兄様……にいさまっ……)
狂いそうな衝動が雪乃の体を震わせていた。泰雪が倒れて以来、兄の前で弱音など吐いたことはなかった。家人にも、ただ一度の醜態以外は全く同じだ。己を罵る己の声など、誰にも聞かせたことなかった。
でも、兄は知っていた。雪乃の葛藤。雪乃の引け目。すべて知った上で受けとめてくれた。今、とうとう強く優しい兄が逝こうとしている。そんなことは雪乃には耐えられなかった。
「っつ……しんで……しょ……てん……諸星……
しゃくりあげて上ずり、震い声で
雪乃が唱えるのは泰山府君の祭祀に用いる祭文――泰山府君の祭文を
本来は祭壇をしつらえ、供物を捧げて都状を読み上げ……といった手順を踏まえるのだが、余裕もない。震えで印も結べないため、記憶にある都状を唱える。
泰山府君は陰陽道の最高神霊で宇宙の生成、森羅万象を司る神として安倍晴明の時代より位置づけられてきている。泰山府君をもって延命長寿の祈願をする呪法である。
「
都状を唱え終え、一礼した。雪乃は、ややあってゆっくりと顔を上げた。萎えた指で泰雪の手を握り締め、泰雪の美しい面差しを束の間見つめてから、惜しみつつ手を離して立ち上がった。
縁に歩み寄ると一層清々とした冷たい空気が肌を刺す。廊下に張られたガラスの向こうでは、本来なら今の時期はあるはずのない白い――だが闇夜においてはどこか陰鬱とした世界が広がっていた。
ガラス戸は陰鬱な世界の冷たさをそのまま伝えているのか、霜がかかったように、うっすら白く冷え切っていた。凍りつきそうな空気にさらされ、冷え切った廊下に一歩出てそっと戸を閉めた。
「術を、使われましたか」
「ああ」
吐息をつくように雪乃は応じた。静謐な世界に溶け込むかのように、いつからいたのか、身じろぎ一つせずに紀一は端座していた。
「覚えていた都状を唱えた。それだけ……」
「左様で」
目を伏せた紀一の精悍な顔を、まじまじと見つめた。雪乃にとっては幼馴染というより、もう一人の兄のような存在の顔を初めてのように、まじまじと見つめた。
衣服にも表情にも一片の乱れもない。いつからいたのかわからないが、静謐な空気そのものの風体で、凍てつく廊下に紀一は控えていたのだ。
「兄様は……御当主は未だ予断を許さぬ。そばにおって、気を送って差し上げて」
「承りました」
「兄様にとっては、幸いであろう」
静寂を崩さぬよう、静かに言う。兄にとっては、きっとよいことだと思う。泰雪にとっては幼馴染であり、ともに育った兄弟であり、同時に親友である紀一が傍にいるのは、きっといいことなのだと雪乃は思う。
さらに、数時間にわたって霊力を行使してきた雪乃の限界は近い。また、泰雪はしばらくは霊気を必要とする。
だが、さりとて無理をして倒れれば迷惑がかかるので、続けられない。紀一が代わるなら、一番いいと己を納得させる。
凍てつく空気にあっても微塵の揺らぎを見せなかった紀一は、上げた眼差しに珍しくわずかな動揺を滲ませていた。
動揺もつかの間、紀一が無言で再び一礼したのを見届けて、雪乃は数歩そっと前に出て、凍てついたガラス戸を静かに開けた。
入り込んだ極寒の冷気を浴び、雪乃の肌は刺さるように痛んだ。踏み石に置いてあった草履を突っかける。
「紀一……私は休む。あとはお願い」
擦り切れたような声で囁きながらも、すでに歩み始める。
「畏まりました」
微かな紀一の礼を背後に聞きつつ、雪乃は陰気な白に染まった凍てつく暗い世界に歩を進めた。
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