3  初雪は静謐に降り

第13話 託された


 貴之が雪乃を案内したのはごく普通の一軒家だった。だが、敷地内の空気は雪乃の目から見ても清浄だった。


(貴之の奴め、余暇の度に留守にしておったのは、このためであったか)


 最近、仕事がない日も外出していた。別段これといって変った様子もなかったので、雪乃としては何も言う気はなかった。

 出迎えた被害者の婦人は、いかにも一般の善良な和装の婦人であった。

 だが、この家は一般の家の持つ雰囲気ではない。おそらく清めの術を数回は施術しているはずだ。

 おそらく三十路程度の年齢で、落ち着いた芥子色の銘仙を着た婦人は疲労の色が濃かった。だが貴之の来訪を非常に喜んでおり、疲労の色がやや薄れた様子だった。婦人が慎ましく手を付いて退出したのを見て、雪乃は口を開いた。


「家そのものは清浄だというに、被害者だけはこのように酷い有様とは……」


 婦人の前では自重していたが、小さく嘆息するように呟いた。目元がひくつきそうになるのをなんとか堪えていたが、見るに耐えず、やや目線を逸らしてしまう。

 男のすぐ前に貴之がおり、さらに後ろに控えるように座っているので、目を逸らせば男の惨状は見ないで済む。

 四畳半の部屋に延べられた布団に臥床している男は三十半ばだというが、白髪が混じる髪は男を五十路にも見せた。頬は痩け、目には深い隈を縁取らせていた。顔面に恐怖を貼り付け、硬直したままで臥床していた。凝った瘴気が中に溜まっているのが感じられる。


「殺生鬼に出くわしたのは、おそらく七日前。この人は大工でね、元々同僚と深酒をしては、夜も帰ってこないことがあったらしい。けれど、二日も帰ってこなくて、心配して探したら、船着場の陰で震えていたところを見つけたそうだよ」


 潔斎用の香を焚きながら、貴之は声を抑えて語る。口調は淡白であったが、目元に苦渋が滲んでいた。


「最初は酷く怯え、暴れたそうだ。医者も手がつけられなくて、僕のところに話が来たのが、四日前。話が来て、すぐに訪れて、今日で二回目。本当は、間で来たかったんだけどね」


(今日で二回目? 清浄な結界を一度で作ったのか……)


 性格からは想像がつかない、緻密に組まれた結界を一度で貴之は作ったという。土地がどんなものだったかによるが、緻密な結界を築くには、数回に分けて施術を行なうのが一般的な常識だと記憶している。


(やはり、貴之の施術は凄まじい……)


 雪乃は己との力の差を感じて、膝の上の手をきゅっと握り締めた。


「じゃあ、始めるよ。……雪乃ちゃん、人に巣食った瘴気を祓う場合の作法は、どうするか、知ってる?」


 向き直って唐突に問われて、雪乃は修練での記憶を辿りながら答えようとした。

 そのとき、音もなく気配が部屋の中に入ってきた。障子を開けることなく、すり抜けるように紅の着物を着た童女が入ってきた。


(式神? 貴之の?)


 三歳か四歳程度と思われる丸く幼い体躯は愛らしさを感じさせたが、感情を感じさせない淡白な面であった。表情の乏しい面に既視感を覚えた。


「雪姫や、家で何があったの?」


 貴之は式神に向けるものではないような、優しい声色で尋ねる。


「やすゆき、きけん」


 雪姫の声は舌足らずだった。だが、十分だった。

 雪乃は意味を把握するのに一拍の間を要したが、泰雪の状態が危ないということだけは理解した。全身が戦慄き、いやな感触に胸を掴まれる。逃れようと心臓がのたうつように鼓動を打った。


「兄様が……」


 掠れた声が、ほろりと口からこぼれた。震災の日に限界まで霊力を使って以来、今まで何度も危ないことはあった。最近は上手く行っていたと思っていただけに、雪乃は最悪の想像に身を震わせた。愕然としている雪乃とは違い、貴之は毅然と命令を下す。


「帰って家人に伝えて。略式で潔斎を済ませて気を送って、僕は十分で戻ると」


 家まで半里ほどの距離だ。雪乃では二十分かかるだろう道のりも、貴之の足ならば半分で戻れるだろう。雪姫は頷き、ちらと雪乃を見て、音もなく立ち去った。


(兄様を失うのは耐えられぬ。……でも、家まで二十分もかかる……私が今できることは何? 何をすればいい……まるで思い浮かばぬ……何で、こんなに役立たず……)


 頭の中を考えが錯綜し、纏まらない。目の前の男に、白い浄衣を赤く染めて昏倒した泰雪の姿を、つい重ねてしまう。

 同時に思う。震災の日、倒れた泰雪の前で、震えも零れ落ちる涙も止められず、さりとて泰雪に触れることすらできなくて、ただ泣きながら震えていた自分から成長できていないと。


「雪乃ちゃん」


 強い声で名を呼ばれた。いつの間にか正面にいた貴之に両肩を掴まれた。突然のことだったが、驚きよりも包むように触れた大きな手の暖かさと強さに、心がつまされた。


「僕は泰雪を助けに行く。雪乃ちゃんは、この人をお願い。できるね?」


 力強い、耳心地のいい声が胸を打った。心の中の澱を拭ってくれた。不思議と勇気付けられる貴之の真摯な眼差しを見て、雪乃は頷いた。


「やれる。任せておけ。だからっ……兄様を頼む。……お願い」


 雪乃は託すしかない。そのことは途轍もなく口惜しい。とはいえ、相手が貴之だということに不安は感じない。

 雪乃の返事を聞くや、貴之は即座に立ち上がった。障子を開けたところで、ばったり婦人と出くわす。


「申し訳ない。わたしは急用につき、祓いはこちらの娘に任せます。また後日、必ず参りますので、本日は失礼させていただく」


 早口で捲し立てるや、呆気にとられている婦人の返事も待たずに草履を突っかけ、走っていった。

 あとに残された婦人は、はっと我に返ったようで、こんな娘がとばかりに雪乃を不安げに見つめた。

 雪乃は身を正し、口元を吊り上げて澄ました笑みを作った。大の男である貴之ならともかく、己の半分ほどの年齢の小娘が請け負うというのだから、婦人の懸念も無理もない。


「ご安心を。わたくしにも、いささか心得がございます。……では、施術に移りたいので、戸を閉めていただいてもよろしいでしょうか。人様の前で披露するほどのものではございませぬ故に。どうかご理解をいただきとうございます」


 雪乃が作り声で口上を述べ、指を突いて丁寧に頭を下げると、婦人も慌てたように膝を突いて「よろしくお願いいたします」と頭を下げた。

 婦人が障子を閉めると、雪乃は男に向き直り、九字を切って呪を唱えた。

 己の霊気を水とし、男という壷に注ぎ、溜まった瘴気という腐水を追い出し、清浄な水で満たしてやる。


急急きゅうきゅう如律令にょりつりょう以漸悉令滅いぜんしつれいめつ


 注ぎ終わって雪乃は「成就」と締めた。どっと疲れがのしかかって来た。荒れる息を整え、ハンカチで額や首筋に浮いた汗を拭いた。

 身を整えてから、婦人に施術の終了と、毎日欠かさず香を焚くように説明し、貴之が残していった香を渡した。

 婦人は何度も礼を言い、受け取った。茶を勧める婦人を丁重に断り、肩掛けを羽織り、身なりを整える。雑誌と、忘れていった貴之の羽織を抱えて丁寧に退出した。

 家を出て、曲がり角を曲がったところで、雪乃は走り出した。

 はらり、と静かに雪が降り始めた。


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