第18話 帰宅



 白縷はくるに霊力を注ぎ込みながら一針一針縫い進めていく。思うように縫い進め、最後に玉止めを行い、布地をひっくり返すと現れる刺繍に雪乃は満足した。


「うむ。我ながらいい出来だな」


 掌に納まる守袋だ。掌に今乗っているのは薄桃色の愛らしい地に、椿を刺繍されたかわいらしいものだ。雪乃は炬燵の傍らで、午前中からせっせと裁縫にいそしんでいた。


「おまもり」


 傍らで聞こえたぽつりと呟くような声に、雪乃はゆっくりと視線を向けて目を瞬かせた。


「何だ、雪姫。もう帰ったのか?」

「ぅむ」

「あちらはどうだった?」


 今朝、遠野へ赴いた貴之宛てに手紙を託したところだった。すでに昼を回ったところだが、もう帰って来たことに雪乃はいささか驚いた。


「あさ、すみがなくなった。さむい。たかゆき、きいち、ふるえた」

「ふ……それは災難だったな」


 部屋に用意していた火燵の炭が切れて、寒くて震えたと雪姫は言う。二人の様を想像して雪乃は自然と頬が緩んだのを自覚した。


「袢纏か何か着ていなかったのか」

「きた。すきまかぜ、すごい」

「なるほど」


 隙間風がある中炭が切れては敵わないだろう。遠野へ向かって十日ばかり経っているが、水気の狂う今年はさぞ芯から寒からしめるだろう。

 あの男たち二人は袢纏はんてんだろうが手袋だろうが襟巻だろうが、とにかく寒いなら着こむ。そろって恰好など二の次だ。紀一のほうがいささかマシであるが、雪乃に言わせれば、どっちもどっちだ。あんなに着ぶくれるのは自分なら我慢ならない。

 泰雪もあまり着こまない性質だから、男なら必ずしも着ぶくれてもいいものだとは思っていない。

 雪姫は文机においてある、紫地の守袋を手に取る。


「おそろい」

「図案が思いつかなかったんだ」


 無邪気な一言に雪乃は罰がわるく、早口に告げて「ちょうどいい、符と一緒にこちらへ」と雪姫に指示する。雪姫はさっと雪乃の指示に従い、雪乃の元へ持ってくる。「ご苦労」とねぎらうと、何となく嬉しそうに雪姫は雪乃を見つめてくる。

 式神をわざわざ人型にする利点などないだろうと思っていたが、ちょっとした小間使いにするには便利だと、ここ数日で感じていた。

 昨日からせっせと作った守袋は二つある。一つは先日の殺生鬼の被害者の妻のため、もう一つは女学校の学友のために作った。地の色は違うが、どちらも椿の柄を刺繍している。

 夫人用は守袋であるとわかりやすくするために、中に呪符を入れる。

 入れるのは不動明王の身代わり符で、万一事故にあっても不動明王もしくは眷属――矜羯羅童子こんがらどうじ制託迦童子せいたかどうじなど――が身代わりになって救ってくれるという札だ。

 学友用――名を祝子ときこという――は守袋だが、符は刺繍の下に隠し、中には椿のポプリをいれる予定だ。精油を足せば何度も匂いが蘇り邪を祓う。椿を家の境に植えるのは邪を払う木として、家の中に邪なものが入らないようにするための結界として植えるのだ。椿の柄とあわせて守りとする。

 さらに二つ共に、弁財天の法を以て呪を施せば、病苦を消除し、災難厄難を取り除く弁財天の威徳が込められた符となる。


(殺生鬼がいつ現れるともしれぬ。気休めにしかならないだろうが、ないよりはいい)


 強烈な瘴気の一部でも除けばいい。それだけで助けられる可能性は高くなる。

 祝子は昔から物の怪好きがする性質だ。初めて会った時、黒い瘴気やら雑霊などを背負っていて驚いた。こんなに背負っている者がいるとは思っていなかった。しかも、本人はあまり自覚がなかった。

 そんな祝子なので、殺生鬼に遭遇するかもしれない。帝都の結界が無事だった震災前ですら、良くないものを背負っていることが多かった。結界が壊れた今では、守袋だけでは追いつかないことが多く、雪乃は心配で堪らない。良くないものがついていればこっそり祓うようにしているが、学校も休みがちの今ではすぐには対応しきれない。

 今の帝都の空気は祝子のようなものにとっては酒毒に等しいだろう。浸っていくうちに、いつの間にか侵され病んでいく。

 大工の妻は物の怪好きする体質ではないが、大工の瘴気に中てられないように、また残滓のような瘴気に引かれて殺生鬼がやってこないとも限らない。


「雪姫、香炉を準備して。香は弁財天の法に用いると家人に言えばわかる」


(大切な方だ。庇護せねばならぬ者だ。今度こそ、守る)


 雪姫に指示して用意させた香炉を前に気を集中して手を打った。音に乗せて清浄な霊気が波紋のように広る。

 次いで、刀印で九字を切った。


「チニャタサンメイ ビサンメイ ソワカ……バツラカンマヌマツト ソワカ……急急如律令」


 印を組んで弁財天護身咒法の真言を唱えると、不思議な色合いの粉が顕現し、守袋に降り注いだ。



***



 次の日、大工の元へ行き、施術を行う。九字を切り、印を六つ組み換え、祝詞を唱える。


「夫れ清るを天とし濁るを地とす、陰陽交わり萬物を生じ、悉く…………オン シャニ シダニ ソワカ!」


 己の霊気を水と心像し、〝水〟をゆっくりと注ぎ込む。何回にもわけて注ぎ込むことで、ぼろぼろになった龍脈を修復してやる。

 龍脈とは、人体だけでなく土地でも霊力の通り道をいう。霊力が巡らなければ体を保てない。同じように土地にも霊力が巡らなければ崩壊する。自然にある霊力の流れを利用した例も世にはたくさんある。

 かつての為政者は江戸城から伸びる龍脈の先に日光東照宮を建て、鬼門を封じて龍脈の力を江戸の守りに利用した。関東一円に幾重にも張り巡らせた、先人の築き上げた霊的な防御結界は、先年の震災でほぼ灰塵に帰した。

 龍脈が整えばやがて回復するものだが、男の龍脈や土地の龍脈が回復するのは当分先の話だろう。


(いつ見ても酷い。どうやったら、ここまでずたずたにできるのだろうか)


 土地の龍脈は雪乃個人では何ともならない。土地の術者がコツコツと流れを正して回復させてやらねばならない。裏の家が時に土地の術者に手を貸すことある。関東一円の龍脈は目の前の男の龍脈のごとく、ずたずたなのだろう。きっと、修復には五十年以上はかかるのだろう。

 今、雪乃にできるのは目の前の男の龍脈を少しでも正してやることだ。しかし、今まで見たこともないようなほど引き裂かれた龍脈に、雪乃は何とも言えない苦々しい心地で吐息をついた。


(貴之が帰ってくるまでに、もう少しでも良くしてやりたい)


 その方が、貴之の負担が減るだろう。


(い、いやいや……別に貴之のためじゃない。この男のためだ。男の妻のためだ……断じてあのバカ貴之のためじゃない)


 頭に浮かんだ貴之の顔を振り払うように首を振った。



***



(バカ貴之め……)


 あれから二十日あまり、貴之は毎日しつこいほど律儀に文を送ってくる。他愛のない話ばかりだが、出立間際の台詞どおりに手紙を送ってくる。

 ふざけたような内容も見受けられる文だ。それなのに貰えば、なぜか嬉しいと感じてしまう自分が、少し腹立たしかった。

 ふ、と吐息をついた。戸の開かれた座鏡を見て、我に返って作業に戻る。女学校の課題の和装寝衣――いわゆる寝巻きを作っていた。

 同級生は春から夏に浴衣を作ったが、雪乃は家の問題で、ほとんどど授業に出られず、ほぼ同様の課題を今になってやっている。作り方は同じなので、来年は自分で浴衣を、欲を言うと泰雪のを縫ってみたいと、密かに思っている。密かな希望をよそに、雪乃は吐息をついた。


(落ち着かぬ……)


 鏡を覗き込む。普段より一層の光沢を帯びた艶やかな黒髪が揺れた。直後に溜息。

 今日も会合に出たため、雪乃は振袖を着ている。冬場の公式な場での装いとして家人が用意したのは、ぼかしの入った臙脂地に、菊や百合などの上品な花の中央に棕櫚竹が染められた上品な着物に、貝合わせ文様の織り地に花鼓の刺繍が施された帯を合わせている。どちらかというと年配好みの古典柄の振袖であった。

 今日は家人に言いつけて、側髪を少し残して髪を結い上げ、蒔絵の玉簪をつけている。二筋の銀細工の紅葉の下がりは煌めきながらも揺れている。終わって数時間が経つのに雪乃は振袖を脱がなかった。


(思えば、少し地味かな? 帯締めをもう少し華やかにしたら引き立つだろうか? それとも、帯揚げを変えたほうがよいのか……)


 手を止めるたびに、つまらないことを考えている。昨日の昼過ぎに「明日、帰る」と文が来た。泰雪にも紀一から文が来たのだという。

 文を見て以来、ひどく気分が落ち着かない。久々に会う二人に戸惑っているだけだと無理やり納得させてはみた。なのに、心の奥底では全く納得していない。

 昨夜も真紀子に椿油を分けてもらって洗髪し、肌にも塗ってみたりと、自分でも不可解な行動をしている。

 何度目かわからないが、鏡に映った己の姿を眺めて、雪乃は小さく冷笑を浮かべた。


「冴えん顔だな……」


 髪を結い上げているので、見るものはやや大人びた印象を受けるだろう。髪は一層、艶やかさを増している。肌も白く滑らかで吹き出物も出ていない。

 唇にも椿油を塗っているので、普段より艶やかで大人っぽいであろうか。一つ一つ磨いてみたが、映るのは弱弱しい迷い子のようだった。


(会いたい……のか? いや……馴染みの者がおらぬから、ちょっと寂しいだけ……そうに決まっている)


 強く言い聞かせて、作業に戻る。衿をつけたら身ごろ部分までは出来上がり、大分着物らしい姿に仕上がってきている。あとは袖を作ってつければ完成となる。


(久々に学校に行ける)


 口元を緩ませたとき、袖がくっと引っ張られた。


「きたく」


 雪姫の一言に、はっと鏡を覗き込んで、手で髪などを撫でつけて身だしなみを整える。

 立ち上がるや姫の頭を一撫でして、玄関に向った。

 門までの距離がやけに遠いと感じられた。石畳の上を、はしたなくも裾を翻しながら、小走りに駆けた。


「雪乃ちゃん」


 掛けられた声に、雪乃の足が止まった。ためらいつつ顔をあげた途端、頬が一気に熱を帯びる。

 久々に見る貴之は精悍な男性そのもので、とても凛々しかった。普段の人懐っこい少年のような風体は鳴りを潜め、青年らしい真摯な眼差しで雪乃を見つめていた。

 視線を全身に受けて、雪乃の胸は熱く震えた。


「バ……バカ貴之……」


 胸の震えが声を震わせ、漏れた声は掠れていた。

 囁く雪乃に向かって貴之は表情を和らげた。人懐っこい笑顔ではなく――いや、人好きのする笑顔だが、どこか静かな笑みを見せたかと思うと、駆け足に雪乃の元へ来て、戸惑う雪乃を抱きしめる。


「雪乃ちゃーん! 会いたかったぁ」


 離れようにも、貴之の逞しい腕に自由を阻まれ、挙句に大きな手が背や首元に回され、ぴったりとくっついている。

 貴之の腕が自分の細いばかりの体に触れていることを意識した途端、雪乃は気恥ずかしくなり、次いで不安に駆られた。大人の貴之から比べて、自分の体が小さくみすぼらしく感じられたのだ。

 一度でも意識してしまうと、貴之と接した部分だけでなく、触れられてもいない部分までも気をやってしまう。雪乃を抱きしめたまま、貴之は雪乃を見下ろして囁く。


「本当に会いたかった。会って君と話をして、こうして触れたかったよ」


 頬が真っ赤に熱を持ったのを自覚した。胸に熾ったものに、どう対処していいのか分からない。ただ、雪乃はうつむいた。


「ゆ、雪乃ちゃん?」


 貴之は戸惑うように手を離し、雪乃を覗き込んでくる。雪乃は、わけのわからない熱に突き動かされて――ばちんと平手で貴之の頬を打った。


「あうー。痛い」

「煩い! 帰ってきたのなら「ただいま」くらい言わぬか!」


 勢いで怒鳴りつけて、肩で息をしながら、一気呵成いっきかせいに捲し立てる。


(ああもう、私はどうしたというのだ)


 泣きたいような、もっと激しく怒鳴りたいような気分だった。でも、貴之が「うーごめんねぇ」と頬を押さえて呟いたのを見て、いささか胸に渦巻いていたものが治まった。

 貴之は、一旦きっと表情を引き締めたと思うや、ふと反転して緩めた。


「ただいま、雪乃ちゃん」

「ふん……早う兄様に挨拶して来い」


 また気恥ずかしくて目線を逸らす。


「うーい。……きいっちゃん、行こう」


 貴之が促すと、今迄ずっと遠くで見ているだけだった紀一は頷いて、雪乃の近くまで歩いてくる。


「ただいま戻りました。泰雪に詳細を報告するので、雪乃様もどうぞ、いらしてください」

「うむ。……紀一、よう無事で戻った。今日は疲れておろうから、土産話は明日でよい」

「お気遣い、痛み入ります」


 紀一の変らない生真面目な面を見て安堵した。本当は「お帰りなさい、紀一!」と駆け寄って抱きつきたいのだ。

 でも、五つかそこらの幼子ではない。十五にもなったのだから、少しは格好つけなくてはいけない。紀一が生真面目な応対をする横で、貴之がうめく。


「うー、やっぱり、きいっちゃんと扱いが違う~」

「当たり前だ、バカ貴之めが」


 早口に吐き捨ててやるなり、踵を返して紀一の元へ向う。


「えー、きいっちゃんも何とか言ってよ。婚約者の貴之にもっと優しくしてとか」

「わかった。根気強く躾をなさいませ。甘やかしはなりませんと言っておく」

「うう……きいっちゃんもさ、もっと僕に優しくしてよ。お話を聞いてよぉ」

「道中で散々、途轍もなく退屈な貴様の戯言を聞いてやった私に対して、言うか、その台詞を」


 後ろで掛け合い漫才の如く言い合う声を聞きながら、雪乃は口元をほころばせた。


(バカ貴之が、やっと帰ってきた)


 弾む心のまま、雪乃は袖を翻して玄関を上がり、泰雪の部屋に向かった。

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