第10話 婚約者
日差しは温かい。小春日和というにはまだ早い時候であるが、例年になく強い水気に今年の冬の寒さを思わせるため、季節が暦よりも進んでいるように思えた。
硝子戸から差し込む日差しで廊下から伝わる陽気が眠気を誘う。しかし、やってしまわなければいけない課題があった。
雪乃は早くに五年制へ切り替わった高等女学校に通っていた。しかも女学校の中でも比較的富裕層の子女が通う学校である。
外国語は英語が必須で、第二外国語もドイツ語・
(紀一の嘘つき!)
習い始めたばかりだとはいえ、まったく容易だとはおもえない。辞書を引きながら訳を筆記帳に書いていくが、遅々として進まない。いっそ紀一に丸無げしてしまいたいが、寸でのところで堪えていた。
家人総出で祓修を行っている最中、個人的な理由で迷惑をかけるわけにはいかない。神無月の直系であり、当主代行としての矜持が甘えそうになるのを堪えさせていた。
頭痛がするが、我がままを言って通い始めた女学校の課題だ。あと二ページ程度なのだから今日中にやりきって他の課題に取り掛かりたい。
雪乃は欠席中なのだが、特別に課題の提出でもって学業の単位を認めてもらっている。課題には真剣に取り組まなければ、退学させられてしまう。第一「きちんと真面目に課題に取り組む」というのが、通いはじめるまえの泰雪との約束だった。
昨年からあまり通えていないが、少ないながらも友達がいる。今まで得られなかった〝外の者〟との交流は雪乃の心を弾ませた。本で読んだ世界を体験できるということはここまで心を満たすのかと感じ入ってしまう。
昨今の家を取り巻く状況を鑑みると、今だけの猶予期間――外国語でモラトリアムという――を与えられているのは幸福なのか、雪乃の子供じみた我がままなのか。
頭痛を堪えつつ、辞書を引きながら訳文を書いていたが、ふと廊下に気配を感じた。
「雪乃さま、失礼いたします。よろしゅうございますか」
廊下からおっとりとした声がかけられる。「真紀子か」と呟くと返事があった。茶でも持ってきたのだろうかと思いつつ「入れ」と端的に許しを与える。す、と障子が開くと真紀子は「課題中に申し訳ありません」と頭を下げた。
「泰雪さまがお呼びでございます。お部屋に行かれませ」
「兄さまが?」
泰雪は雪乃が課題をしていることは知っているはずだ。知っていて呼びつけるとは何かあったのだろう。真紀子は術者としての能力はあまりないため、修祓には関わっていない。前当主の妻であった泰雪と雪乃の母が亡くなって以降、十年以上にわたって筆頭の妻として、家中の雑事を取り仕切っていた。
「わかった。すぐに参りますとお伝えして」
告げると真紀子は「かしこまりました」と一礼して去っていった。
現在翻訳している一文を書き終え、雪乃は軽く髪を撫で付けて、兄の元へ向かった。
雪乃は足早に硝子張りの内縁を歩いていく。
(今度はどこに瘴気が溜まっているのだろう。規模はどれほどか……)
現状、どこに瘴気が溜まっていてもおかしくはない。どこであろうと、今度こそ一人で上手く祓ってみせる。
雪乃は気合を入れて泰雪の部屋の前にたどり着いた。膝をついて、意識して声を張る。
「兄さま。お呼びにより参りました」
「よく来たね。お入り」
やや硬い兄の声に雪乃はいぶかしむ。いつもなら先ほどと同じ言葉で、慈しむような優しい声がかけられる。
(何があった……)
何か雪乃の想像を絶するような事態が起こっているのだろうか。
「失礼します」と断わり、雪乃は障子を開けた。室内には延べられた床の上に泰雪が身を起こしており、傍らに筆頭の樹と貴之が座っていた。雪乃は泰雪の前に座す。
濃紺の着物に、同色の地に縞の入った袴を纏った
常に変わらない樹の顔から読み取るのは至難の業だ。かといって、普段へらへらしている貴之からも読み取れないのだから、つくづく人の心を読むのは難しい。
しかし、貴之が珍しく神妙な顔をしているのは、泰雪が張り詰めた顔をしているからだろうか。
「兄さま、お話があると聞いておりますが……」
張り詰めた泰雪の様子に、気合が緊張に変わり、雪乃は声が震えないように身を硬くして切り出した。
感情を削ぎ落としたような、泰雪の怜悧な面をいささかも崩すことなく、泰雪は口を開く。
「雪乃。神無月の当主として、おまえの婚約を決めた」
声にならない無声音が喘ぐようにもれた。喉元での音なのに、やけに耳に響く。凍りついたように動かない口に代わって、鼓動が早鐘を打ち、やや汗ばむように熱くなる。
(嘘……何で……誰と……)
予想外の出来事に混乱した思考が考えがまとまらない。
女学校でも「誰それさんに婚約者ができたんですって」とか「誰それさんは十六になったら、お辞めになってご結婚なさるんですって」などと話をしていた。話はふんふんと聞きつつも、世間一般の話は自分には縁遠い話だと漠然と考えていた。自分の身に降りかかることなど想像もしていなかった。
いつもそうだ。いつも、自分の頑是無さ、思慮の浅さで失敗する。
世間では震災後すぐから復興に向かっているとはいえ、霊的には安定には程遠い。不安定だからこそ、きちんとした相手、もしくは優れた術者との婚約をと考えてもおかしくはない。
当主の泰雪は結婚適齢期ではあるが、身体がいつまで持つかわからない。つまり、結婚はともかく、子を成せないだろうと本人も側近たちも考えてもおかしくはない。
そうなれば、神無月には雪乃しかいない。雪乃に婿を取らせて次世へ繋ぐことは必須だ。
わかっているのに心が拒否をする。
「嫌だ」と叫びそうになるのを雪乃は堪える。唇を引き結び、震えそうな手を拳を握った。拳を固めでもしないと取り乱して何を行うか自分でもわからない。
もう二度と、家の方針――泰雪の方針には逆らわないと決めた。
(落ちつけ……心乱さず……術者の基本だ)
拳を握ったまま顔を上げた。まっすぐに泰雪を見据えると、泰雪は整った顔を崩さず、声までも凍てつかせたまま告げた。
「貴之と婚約を結ぶことにした。これは決定だ」
「なっ……何故っ……」
はっと貴之をみると、貴之はぼんやりとした顔で雪乃を見ていた。
(この間抜け面!)
心中で悪態をつきながらも、どうして貴之なのかと、意外な人物に雪乃はうろたえた。覚悟を決めたはずなのに、うろたえてしまう自分がつくづく情けない。
「貴之なのですか。……他に……もう少しまともな者が、いたのではないのですか」
早鐘をうつ鼓動につられて乱れそうになる息を何とか整えつつ、貴之を選んだ理由は何か聞いてみる。きっと「こんな奴は嫌だ!」と叫ぶよりは、神無月の直系として良い選択をしている。
「当家の家人どころか、私の知る限り一番優れた術者だ。お前の婿になるということは、お前に代わって家人を率いる機会もあるということだ。わかるな?」
雪乃が口を開きかけたが「雪乃さま」と淡々とした声が雪乃を制する。
「貴之は男としての性格はいささか難がありますな。頼りないことこの上ありません。しかし、神無月に馴染んでおり、術の腕も立つ。単純で扱いやすい伴侶を迎えるのは、雪乃さまのためでもあります」
どこまでも熱のない声で樹が告げる。
「え……樹さん、本人の前でそこまで言う? 酷くない?」
容赦ない評にやや呆然としつつ、うろたえつつ、落着かない態度で貴之はやんわりと抗議する。
「私から見た評価だ。受け取れ」
さらりと斬り捨てて泰雪に視線を戻す。
「泰雪さま。私が筆頭として、雪乃さまの伴侶に望むのは覚悟です。雪乃さまが病気や懐妊なさったなどの理由で動けないとき、雪乃さまと神無月を守りぬく覚悟があるかどうか、この一点を問いたく存じます」
淡々としながらも声に滲む凄みに、雪乃だけでなく貴之も泰雪も気おされしたように身を正す。
確かに、風邪などの病気や妊娠中は施術に隙ができやすく、呪術的に無防備になりやすい。
「ああ……貴之、覚悟はあるな」
樹に頷いて、念押しのように貴之に問う。
貴之は穏やかな顔で「うん」と頷いた。
「必ず、守るよ」
いつもの騒々しい態度とは違う。年相応というべき態度だ。穏やかな声は祝詞を読み上げた時の、清い空気に似ていると思った。
表情もどこまでも穏やかで、まるで〝バカ貴之〟ではないかのようだ。雪乃は驚きながらも貴之を見つめてしまった。
「……っ」
貴之と目が合った。穏やかな笑みを浮かべてどこまでも厳かに告げる。
「胸に誓うよ」
穏やかだが、気安いような響きも感じられた。
(あ、バカ貴之だ……)
清浄な雰囲気に違和感を覚えないどころか、どこかしっくりきてしまった。やはり目の前の男は貴之なのだと納得した。
「話がまとまりましたな。親交を深めるため……二人で、庭の散歩でもしたらどうですかな」
「庭?! 嫌だぞ、貴之なんかと!」
「庭?! いいね、雪乃ちゃんと!」
樹の提案に、即座に、二人同時に相反する反応を示した。
「ひ、酷いよ、雪乃ちゃん。一応婚約者になるんだよ」
「煩い! それとこれとは別だ。私は態度は変えぬからな」
「ええ~せっかくだから、優しくしてよ~」
「しつこい!」
叱りつけるも貴之は懲りずに間を詰める。雪乃の手を取り――
「なっ、これっ……何をするか!」
強引に立たせた。にこにこと能天気な面を隠すことなく晒してのたまう。
「庭だったらさ、山茶花が咲き始めたよ」
「そうなのか?」
「だから、一緒に行こうよ。気分転換しようよ。課題して疲れているでしょ?」
「そうではあるが……」
だが、他にも課題はある。できるときにやってしまいたい。
しかし、山茶花も見ておきたい。咲き始めの花が綻ぶ様が何とも好きだった。
「では、少しだけならよい」
「やったー! ……じゃあ、行ってくるね、泰雪、樹さん」
「……行ってまいります」
了承してやると貴之は、子供のように喜んだ。
(仕方のない奴だ)
まあいい、気分転換もたまにはいい。
少しだけ軽くなった心のまま、泰雪に挨拶して部屋をあとにした。出る直前に見た泰雪は、いつもの繊細な柔和さを取り戻していた。
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