第9話 胸に誓うは、唯一事
ガラス戸から差し込む午後の日差しは、どこか力なく感じられた。それでも、日の差し込む廊下は暖かであった。風が吹いているのか、時折ガラス戸を揺らした。
「うわ、風が出てきたんだ。よかった、早めに仕事が片付いて」
貴之は手に袋を携えて歩いていた足を止めた。袋には仕事帰りに買った今川焼きが数個入っている。泰雪が倒れ、術を使って数日経つが、食が細いので好物の甘いものなら少しは食べる気になるのではと、買ってきたのだった。
「泰雪、入るよ」
「貴之……か。さすがだな、もう終わったのか」
障子を開けて入ると、泰雪は身を起こそうとした。すかさず、貴之は手で制する。
「いいよ、泰雪。まだ寝ててよ」
「土産があるのだろう? 寝たまま食えというのか? また紀一に叱られるではないか。わたしの代わりに、お前が叱られてくれよ」
泰雪は起き上がる代わりに体を横向きにして、からかうような口調で意地悪く言う。
意地悪く口の端を吊り上げた笑みは、雪乃の前では決して見せない。貴之は生真面目な紀一に怒られる光景を想像して「うえ~、堪忍して」と呻いた。
貴之の情けない声に気を良くしたらしい。泰雪はひとしきり品良く笑って「まあいい」と話題を変えてくる。
「町の様子は、どうだった?」
「皆、元気だね。強いよ、とっても。仲見世は今はほとんどバラック小屋だけどね。来年あたりに鉄筋コンクリート造りの、しかも華やかなものにするんだって」
「震災でレンガ造りのものは壊れたからな。あの煉瓦も味があって美しかったが、鉄筋は鉄筋の華がありそうだな」
「だね」
今日の貴之の割り当ては上野近辺であったので、浅草に足を伸ばした。気の淀みを祓いつつ、両国、浅草と歩いた。さらに物のついでと浅草の馴染みの店に寄ってきたのだ。
甘味と、あの土地が貴之と泰雪を結び付けたと、つくづく貴之は思う。祭りの屋台の飴や菓子目当てに家を抜け出した泰雪と、東へひたすら向かっていた貴之が初めて出会った場所なのだ。今でも、つい足が向いてしまう。
「今日は雪乃ちゃんは、学校に課題を取りに行くついでに散策って言ってたけど、大丈夫かな? ちゃんと合格を貰えたのかな?」
課題の合否はともかく、すでに帰宅しているのは雪姫から聞いて知っているのだが、いかにも心配げに言った。対する泰雪は、きっぱりとした口調で答える。
「うちの妹は努力家だ。試験だって、それなりによい点を取っている」
目を細めて「一部、苦手なものがあるようだがな」と小さく笑みを漏らす。
「それでも……だ。あれは、よくやっている。学校に行きたいと言い出したときには、同年代の普通の娘とやっていけるのかと危ぶんだが、楽しんでいるようで、何よりだ」
「そうそう。女学生仕様の雪乃ちゃんは雪乃ちゃんで、至極いいねえ。可愛いねえ。ぜひ学校仕様の雪乃ちゃんとお話したいものだねえ」
雪乃が通う女学校は、今どき珍しいといわれる袴着用を義務付けている。
数年前から一部で導入された、英吉利イギリスの水兵の服を模したといわれるセーラー服が全国に広まり、今ではそちらを着る学校が多いのだ。肩幅よりも襟が小さく、襟の下端が胸の高さよりも少し上で、襟のラインが直線で紺色のセーラー服に、同系のスカーフに車襞のプリーツスカートといった様相である。よく街中で数人で連れ立って歩いているのを目にする。
セーラー服も、なかなかよいものだ。とはいえ、古式ゆかしい袴姿の女学生は、楚々として、見ていて心弾むものがある。だが一度くらいはセーラー姿の雪乃も見てみたいものだと貴之は常々思っている。
「……で、きいっちゃんは神田だったよね。面白い話が聞けるといいね」
「紀一のことだから、また小難しげな本でも買ってくるのだろうな」
神田から程近くに紀一の馴染みの古書店があり、難しい本をよく買ってくる。この前は、仏蘭西かどこかの学者の本の原著を手に入れてきており、時折は辞書を引きながら読んでいたのを覚えている。
「あれは、昔から本が好きだったからな。一度、思い立って読み始めたら、梃子でも動かん」
笑みを湛えつつ、ゆっくりと起き上がる。貴之はそっと背に手を添えてやった。泰雪が起き上がったので、今川焼きを二人で食べることにする。
「そうだ、雪姫。お茶を持ってきて」
声を掛けると雪姫は音もなく現れ、「ぅむ」と頷いて姿を消す。台所に行けば誰かいるだろう。能力のないものには姿が見えないが、真紀子か賄いの婆がいれば、茶は淹れてもらえる。
泰雪は今川焼きを手にしたまま、目線を落とし、しばし思案顔でいた。が、目線はそのままで、ぽつり訊いた。
「なあ、おまえ、雪乃が好きか」
「うん。大好き。あとね、泰雪もきいっちゃんも大好きだよ」
心からの言葉を満面の笑みでもって伝えると、むくれたような、ばつの悪そうな顔をした。
(照れてる……)
付き合いの長さでよくわかる。こういう表情は、兄妹で可笑しいくらいによく似ていた。
「一人の女としてか」
「当然」と即答する。
妹として見た記憶は一切ない。雪乃のような愛らしい妹がいて、泰雪に向けるような眼差しを向けてくれるならば、目に入れても痛くないとばかりに過保護に育てただろう。それはもう、泰雪が雪乃に対するが如くに。
「そうか」と頷いて、泰雪はしばし黙っていた。ややあって、ためらいがちに口を開く。
「それは、どの程度のものとして思っている? 具体的なことは考えているのか?」
「えっ、許してくれるの? 結婚!」
嬉々として漏らした本音に、泰雪は無言の拳でもって応じる。
「条件付で、吝かではないがな」
やや視線を落として、ポツリと付け足した。兄として、当主としての葛藤を泰雪の端整な横顔から感じた。
貴之には泰雪の葛藤を、きっと十全には理解してやれない。生まれ育った立場が違うのだ。それは致し方ないと貴之は思う。
だが、友人として、少しでも苦痛を和らげてやりたいと、口元に笑みを浮かべる。貴之は努めて柔らかな口調で言った。
「僕の母上はね、星が読める人なんだ」
『一人の女と会う。東の地で出会う、その女は、貴方の人生に欠かせぬものとなろう。だから東へ行きなさい』
母の強い顔を、十一年が経った今でも鮮やかに覚えている。
母は森羅万象の流れを、星を通して読み取る力を持っていた。よく星を読んでいたのを覚えている。
「だから、十一年前に初めて会った瞬間「あ、この子だ」って思ったよ。何より雪乃ちゃん、お人形さんみたいにころころ可愛かったから、大事にしようって思った。……で、どうやったら大事にできるかなーって考えて、お嫁さんにしようって思ったのが一番古い記憶かな。……あ、今は雪乃ちゃんの性格もろもろ、わかった上で大好きなんだよ。だから、安心してね」
「そう……か……そなたのご母堂は、星見であられたか……」
囁くような声に、泰雪の複雑な感情が見て取れた。
四歳当時の雪乃は、本当に人形のようだった。人形ではない証に、愛らしい声でよく喋り、よく笑った。雪乃を模した割には雪姫たちは、外見はともかく、ずいぶんと無口になってしまった。
(本当、なんでだろう? 前日夜から潔斎してたから、お腹へってたんだよね)
空腹で集中力にムラがでたらしいのも一因だろう。当時の己の力の不安定さを感じて、少々落ち込む。
「しかし……」
冷たい言葉が氷の礫となって貴之を小突いたため、意識が現実に返り、少し身構えた。貴之の内心を察したのか、貴之を見る泰雪の視線は極めて冷ややかだった。
怜悧な顔は本当に雪乃とよく似ているが、気の込め方が――迫力が大違いだ。冷たく睨みつけても可愛い雪乃に対して、泰雪の気は、友人であっても正直なところ怖い。
「やはり、あれが四つのときから恋うておったか。道理で宮がああだというのに、姫が幼いころのあれそっくりなのは、そういう理由か」
声色の冷たさに身を硬くしていたが、折よく雪姫が茶をもらって帰ってきた。
「うう~……目が怖いよ、泰雪」
「やすゆき」
怯む貴之とは対称に雪姫は泰然としている。表情の乏しい面をいささかも揺らすことなく、泰雪の元に行き茶を差し出す。
「ありがとう、姫。いいこだね」
慈しむように優しい声で褒め、雪姫の頭を撫でる。雪姫は「ぅむっ」とだけ応じた。淡々とした反応だが、心なしか嬉しそうに頭を撫でられている。主である貴之へ茶を差し出すことをすっかり忘れている様子だ。
雪乃が泰雪を慕うが如く雪姫は泰雪を好いていた。妙なところで模倣した人物に似ている。御しきれない力だったので、出来が不安定なのは仕方ない。
泰雪は泰雪で雪乃に対するが如く優しいので、雪姫が懐いただけとも考えられる。いずれにしても、主としては複雑だ。
「それで……参考までに聞いておくが、あれのどこを好いているんだ」
問われて貴之は雪乃の姿を脳裏に浮かべた。
意志の強い眼差しは、黒目がちで愛らしさを感じる。白い肌、艶やかな髪、整った眉、薄く色づいた唇、華奢な体、気は強いが意外な……と順番に考え、貴之は結論を出す。
「う~ん、そうだねえ。お顔も好きだし、気の強いところも好きだし……って考えたら、全部が好きだと思ったよ」
てらいなく、きっぱりと言った。てらう必要など一切ない。十年程ここで暮らして、雪乃の気の強さや弱さ、甘さや愚かさを見てきた。それでも雪乃がいいのだから、誰に何を言われても揺るがない。
「思えば、節操という言葉を知るお前ではなかったな」
泰雪は何というかと思えば、やれやれと溜息をつかれてしまった。
「あれ? そこで、そういう方向へ行っちゃうの? ここは僕の想いの深さに感じ入る場面だよ、泰雪」
「そうか? だが、どうでもよい」
心底どうでもよさそうに言われて、貴之は「ううー」とうなだれた。誰に何を言われても雪乃を思う気持ちは揺らがない。
とはいえ、友人にこうまでさらりと受け流されると、いささか寂しいものがある。泰雪は貴之には目もくれず、膝上に移った雪姫を切なげに見つめながら撫でてやっていた。
ややの間をおいて泰雪は細い声で囁くように「貴之」と呼んだ。
「そばにいてやってくれ。……守ってやってくれ。あれは、人が思うほど強くない」
泰雪は雪姫をゆっくりと撫でながら淡々と語った。泰雪の声音は、平静でありながらも、切実な思いが滲んでいた。
「おまえにしか頼めんよ」
うつむいた泰雪の表情は窺えない。滲んでいた思いが溢れるような静謐な声に貴之は何もいえず、ただ黙って抱きしめる。雪姫も泰雪に抱きついた。
「大丈夫だよ、雪乃ちゃんは僕が守る。そのために、いっぱい修行して雪姫たちを創った。……だから、心配ない。心配ないよ、泰雪」
最後は言い聞かせるように繰り返して、囁くように言った。
貴之の言葉に安堵したのか泰雪は顔を上げる。繊細な面持ちを刹那ふっと揺らしたが、すぐに表情をやや硬くして、眉を寄せていた。
「ちなみに、適齢期が来るまでは、手を付けるな。切り捨てるぞ」
拗ねたような気難しげな風体で冷たく言い放つ。
「ははは。わかってまーす。流石に男女の機微もわかってないような子には手は出せないよ」
というより、貴之を多少なりとも想ってくれているならともかく、眼中にも無いような現状で、そのような振る舞いは不可能だ。
そこまで考えて、非常に悲しくなった。反対に泰雪は「よろしい」と満足げに応じて付け足す。一拍の間を置いて、穏やかな声音で囁くように貴之の名を呼んだ。
「雪乃を……頼むな」
静かな面で泰雪は貴之を見て念を押すように繰り返した。貴之を見据える眼差しに、倒れる前の筋の通った強さを持っていた当時の泰雪の姿が重なった。
貴之は泰雪の真摯な眼差しを受け止めて、気を引き締める。喉を突いて出そうになった言葉を飲み込んで、貴之は別のことを、祝詞を唱える前のような厳かな心地で言う。
「ずっと……胸に誓うは、唯一事」
言い切って、にっと笑う。
「まったく、気弱なこと言ってないで早く元気になってよ。また皆で散歩にでも行こう」
つかの間そのまま視線を合わせたままであったが、雪姫が袖を引っ張る。
「きいち」
紀一が来たことを告げた。それを合図に、距離を元いた位置へ戻す。雪姫は貴之の膝の上に座った。
時間的に紀一が薬湯を持ってくるのだろう。
紀一と泰雪が、薬湯を飲め、飲まないと攻防を繰り広げるだろうことが予想されて、貴之は内心でひっそりと苦笑した。
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