第8話 きいっちゃん
硝子の引き戸を乱暴にあけ、乱暴に脱いだ履物は踏み石から零れ落ちる。
「泰雪!」
半開きの障子から泰雪の足が見えた。布団から出てきたところを倒れたらしい。
ただ、少し予想と違ったのは、泰雪を抱きかかえ、必死に気を送って泰雪の命を繋ぎとめていてくれた着物袴の精悍な男が存在したことだった。
「きいっちゃん……よかった、気を送っててくれたんだ……」
吐息混じりのうわずった声が漏れた。気を送っていてくれたことで、泰雪を助けられる可能性は高くなった。最悪の想像に萎えかけた気持ちが再び奮い立つ。
「すまん、貴之。私では、これが精一杯だ」
泰雪の身体を抱きかかえ、密着させて気を送り込んでいる。単純そうに見えて気を使う作業を〝きいっちゃん〟こと、紀一きいちは十分にこなしてくれている。
紀一は貴之と泰雪にとって同い年の幼馴染だが、生真面目さ故か、一~二歳は年長に見られることが多い。
背は貴之より少し低いが、それでも平均的な男子よりも高い。武術で鍛えられた体躯は精悍で、目元は切れ長で黙して多くは語らない古風な性質が、妙齢の女の子に人気である。きりりと着た着物袴の出立ちで、常に落ち着いた立つ振る舞いをしている。
だが、今は泰雪の危機に平素の冷静さはなく、声や目元に焦りの色が見てとれた。
「何でそんな水臭いこというかな、きいっちゃんは」
やや呆れて貴之はいう。詫びる必要などない。十年来の幼馴染達を助けるのは当たり前だというのに。
貴之は紀一を安堵させるために、にっと笑って見せる。紀一がほんの少しだけ口元を和らげたのを見届けて、貴之は襟巻きを外し、羽織を脱ぎながら雪姫に命じる。
「雪姫や。決済用の香炉を持ってきて」
貴之の命に雪姫は「ぅむ」と頷き、数十秒で香炉を持ってきた。これから使用する香の準備も抜かりない。
泰雪は既に布団に寝かされている。貴之は布団の前に胡坐をかいて座った。式神の一つである雪宮はすでに泰雪の中におり、雪姫に泰雪の中に入るように命じた。
これまで宮と姫の霊気を使って、極限まで力を使い切った泰雪の霊気を補ってきた。二体は貴之の霊気を核とした式神である。要するに霊気の塊なので、霊気を蓄えて使用する目的でも使える。
霊気がないと、肉体もその機能を維持できずに崩壊してしまう。だから、いざというときのために備えて霊力を蓄える役目もかねている。生家の式神創設目的の一つである。
「臨兵闘者皆陣列在前!」
九字を切り、印を六つ組み換え、祝詞を唱える。
「夫れ清るを天とし濁るを地とす、陰陽交わり萬物を生じ、悉く…………オン シャニ シダニ ソワカ!」
病気の祈祷とは、病毒を法力と神力とで封じ込み、衰弱した者の五体を加持して元気を回復させることをいう。泰雪は病気ではないが、衰弱しきった身体に霊気を注ぎ込むにはよい術である。
貴之は己の霊気を水と心像する。〝水〟をゆっくりと注ぎ込む。たとえ腐水であっても、清水を注ぎ続ければ腐水も次第に清浄たり、腐毒は自然と消失する。貴之は根気強くゆっくりと注いでいった。
ふっと息をついた。整息し、己の気を整えた。力が抜けると同時に額から汗が流れる。危機は脱した。最初は半月も保たなかったが、ここ三ヶ月ほどは一月近く保っている。
(あと何年かかるか分からないけど、必ず……回復させてみせる)
拳をくっと握り締めた。横手から伸びてきた手が――正確にいうと手拭いが貴之の額の汗を拭った。
「ありがとう、きいっちゃん」
「礼など要らん」
そっと拭ってくれたことが嬉しくて頬をほころばせた。しかし、紀一の反応はそっけない。
「もー、きいっちゃん、つれないなあ」
雪乃に言うときのように、おちゃらけた口調で言ってみる。
「要らんものは要らん」と拒否しつつも、紀一は機嫌を損ねた様子もなく、貴之の汗を拭いた。
「今日の祓いは、どことどこだ? おまえの代わりに行くから、教えてくれ」
心が浮き立ったが、貴之は唾を飲み込むと同時に自制する。紀一も疲れているだろうから、貴之としても甘えるわけにはいかない。
「いいよ、きいっちゃんも疲れてるでしょ。今日は近場ばかりだから、大丈夫だよ」
紀一は「ふん」と声を漏らす。得心がいかないというような胡乱げな響きであった。
「己の力量は正確に測れと、教えられたのではなかったのか?」
紀一は責めるわけでもなく、淡々と指摘する。痛いところを指摘されて、貴之は言葉を詰まらせた。
先程の術で心身ともに消費してしまったので、気の流れを読み、適切且つ迅速に術を使うことが求められる実践で、十全の力が発揮できるかと問われると自信が持てない。
「お前は今日は休め、な」
諭すように言われ、貴之は素直に頷いた。紀一の厚意に甘えよう、と。
貴之は頬を緩ませる。今度は我慢ができなかった。緩む頬を抑えようと頬に両手をやるが、まったく効果は期待できない。
「きいっちゃん、優しいね。嬉しくて、なんだか照れちゃうよ」
どこか妙な、くすぐったいような気分で、紀一に「きいっちゃーん」と身体を寄せる。
だが、冷たく「気色悪いぞ」と言われてしまった。それでも貴之が「へへっ」と笑うと、紀一は淡く笑みをこぼす。淡々とした感情表現が、とても好きだった。
「じゃあ、僕が樹さんに……」
「父には……筆頭には私から報告しておく」
貴之が言い終わる前に、紀一に遮られる。
「じゃあ、真紀子さんに……」
「母にも私から報告しておく。茶と饅頭を貰ってきてやるから、茶の間で待っていろ」
再び先んじて言葉を遮られてしまった。
「はーい、お願いします」と呻くようにいうと紀一は頷いて、束の間泰雪に視線を移してから退出した。
遅れて貴之も泰雪に「また来るね」と声を掛け、立ち上がる。脱ぎ散らかした羽織と襟巻きが、いつの間にか片付けてあった。貴之の代わりに紀一が祓いに行くというのなら、代わりに紀一の羽織を持ってきてやろうと思った。
思った瞬間、するりと音もなく貴之の前に蒼い着物の童女が現れた。表情は乏しく、日本人形のように切りそろえた髪を、くくることなく垂らしている。雪姫と同じく、雪乃を模して創った式神、月姫である。携えた扇子を広げ、扇子に文字を浮かべて意思を伝える。
『羽織は、わたしが持って参ります』
月姫は貴之の返事を待つことなく、紀一の羽織を取りにいく。月姫は陰の気に特化させたためか内向的で、あまり人前に姿を見せない。内気な式神にまで気を使われてしまって、主としては少し気落ちする。
やや複雑な気持ちで廊下を歩く。ふと目をやったガラス戸の外、庭木の色薄いもの寂しげな中、紅がはらりと舞った。色の褪せ始めた庭にあってそこだけ鮮やかに色付いていた。
(雪乃ちゃん……)
雪乃が庭に佇ずんでいた。背を向けているため表情は分からないが、ややうつむき加減で、ぴっと張った肩が何かに耐えるような仕草に思えてならなかった。
(泰雪のことを知ったのかな)
泰雪が倒れたことを知ったのだろう。雪乃のか細い背中が一層細く小さく見える。
何もかもを背負いこんだような背中を見つめながら、胸の奥が一塊の鉛を抱え込んだように重苦しくなった。あのか細い背中を抱きしめてしまいたい衝動に駆られて、ガラス戸に手を掛けた。
だが、開けなかった。動悸がするような衝動に任せて雪乃を抱きしめたら、雪乃は貴之を避けるようになるのではないかという思いが、心の中に急速に広がっていった。
己の中の激しい衝動を雪乃に見せたくないと、貴之は数回そっと深呼吸をし、ゆっくりと戸を開けた。
「雪乃ちゃん……泰雪は落ち着いたよ」
緊張で錆びたような声であったが、雪乃には届いたようだ。
「わかった」
ざわめく木々の葉音に掻き消されそうな、掠れた細い声で雪乃は端的に応じた。針のように細い声に胸が疼いた。
「ねえ、真紀子さんが暖かいお茶を入れてくれるって。雪乃ちゃんも来たらいいよ」
声に滲む感情を抑えようと淡々と誘う。決して無理強いはしない。
「うん」
「じゃ、先に行ってるね」
「うん。……ありがと……」
折れそうな小さな返事を聞き届けて、貴之は静かに戸を閉めた。
強い風が木々を、更には雪乃の髪や袖さえも攫って吹き抜けた。風の軌跡そのままに、それらは揺れる。それでも雪乃自身は微塵も動かず、佇んでいた。
束の間雪乃の姿を見届けて、雪乃に心を残しつつも、廊下を渡って茶の間へ歩を進めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます