第4話 病床の兄



 兄へ報告に向う途中、薬湯を持った家人を見つけたので、自分が持っていくと下がらせた。こぼさぬよう、だが冷めぬように、雪乃は注意を払いつつ足早に硝子張りの内縁を歩いていく。

 寒露を目前に控えた昨今、急激に冷え始めた大気が寒々しく芯を寒からしめる。とはいえ、南に面した暖かな和室であるから、冷たい空気もいささかの暖を感じることができる。

 雪乃が部屋の間近まで差し掛かったとき、部屋の障子が勢いよく開け放たれる。


「おーい、雪乃ちゃーん」


 身を乗り出し、青丹色の着物の袖を翻して手を振るバカがいる。雪乃は顔を露骨にしかめてしまった。それでも雪乃は、近くまでしずしずと歩いて、貴之を見据えた。


「声が高いぞ、バカ貴之。兄様の御前だ」


 いささかの抗議もこめて少々乱暴に足を止めたために、側髪を残して一つに結った黒髪が、さらりと揺れた。


「十五歳とは思えないくらいお美しくてらっしゃるねえ。紅を差さなくても紅い唇は艶やかで、猩々緋地に愛らしい花をあしらったお着物、黒髪を結う柑子色の結い紐という色鮮やかな組み合わせがよくお映りになるし、妍のこもったお顔も、実にすばらしい」


 どこまで本気なのか、貴之はにこやかに美辞麗句を並べ立てる。だが、そこまで言われると、かえって軽薄で信じがたい。


「これ。頭がまだ濡れておるではないか。ちゃんと拭いてから来ぬか」


 貴之は青丹あおにの着物に紺縦縞の袴姿である。先ほどとは流石に着物を取り替えているが、いつ見ても着物袴姿がだらしなく映る。衿が時々歪んでいる乱れに腹立ちを覚えるときがあるが、直してやる気にはならない。


「じゃあじゃあ、雪乃ちゃん、代わりに頭を拭いてよ」

「たわけ。両の手が塞がっておる」

「お盆を置いてからでもいいのに……つれないなあ、雪乃ちゃんは」


 貴之はぼやくように言ってから、頬をほころばせて、うっとりと呟く。


「ああ、でも、いつか雪乃ちゃんが僕のことを、ぶっ……

「やかましい!」


 頬を張った雪乃は怒鳴る。頬を抑えた貴之は、はうーと涙を浮かべて抗議する。


「ああ、相変わらず激しいね、雪乃ちゃん」

「やかましい!」


 先程のような馬鹿馬鹿しいやり取りに据えかねて雪乃が怒鳴ったとき、室内からやんわりとした、か細い声が掛かる。


「雪乃。女の子がそんな風に大声を出して……。外に聞こえて嫁の貰い手が無くなったら、どうする」


 布団から身を起こして、女性的なまでに繊細で優美な面差しを翳らせて「嫁の貰い手云々」と切なげに言われて、憤懣が萌した。

 だが、雪乃はぐっとこらえて、しれっと言い返す。


「ご心配なく兄様。聞こえて困るような近所は一切おりませぬ」


 雪乃の言いように、説得および説教をあきらめたのか、あやすような甘やかな声で傍らを手で軽く叩いて促す。


「おいで、雪乃」


 雪乃はお盆で貴之とを隔てて座った。畳んであった松煙染じょうえんぞめの墨色の羽織を、泰雪やすゆきの華奢な肩に掛けてあげる。

 子持ち縞の白大島の寝衣に墨色が加わったことで、泰雪の色の白さが一層くっきりと引き立つ。一年前よりさらに華奢となった身体も、一層白くなった肌も、すべて雪乃の咎だと、胸がわずか痛んだ。


「どうした?」

「いえ……何も」


 泰雪の言葉に、思わず上ずりそうになった声を抑えることには成功した。だが、口の端が引きつってしまった。

 泰雪の視線を避けて、視線は自然と下を向いた。どう誤魔化すか逡巡し、唇が戦慄きそうになった。辛うじて堪えて、雪乃は手をついて頭を下げた。


「兄様、雪乃は無事に本日の務めを果たしてまいりました」

「よく頑張ったね」


 褒められて、思うより先に口元をほころばせてしまう。じわじわと嬉しさがこみ上げてきて、噛み締めるように微笑んだ。

 ふと異質な視線を感じて視線をやると、目を細めている貴之と目が合った。反射的に、さっと背けた。


(バカ貴之めっ)


 内心で罵ってやる。


「頼むから、もう少しおとなしくしていなさい。あと三~四年もすれば、男が放っておかないくらいの娘となろう。そのとき、あまりお転婆だと、まとまる話もまとまらないよ」


 母が亡くなって十四年。父が亡くなって五年。ずっと雪乃を守ってくれた兄は、保護者としての責任感がとても強いということは、雪乃も知っている。だが――


「兄様はつまらぬことを言う。私は「気の強い女は嫌だ」などとぬかす奴など、要らぬ。願い下げだ」


 雪乃は十五になる。そろそろ相手を見つける年であるということは自覚している。しかし子供のように諭されてしまい、頬を熱くして吐き捨てると、泰雪は嘆息する。


「大丈夫だよ、泰雪。僕がいるから」


 にこやかに、でもきっぱりと言い切る。どこか自信を感じさせる力強い口調であった。


「いらん。貴様、自室へ帰れ」

「ああっ、雪乃ちゃん」


 清々しいくらいにきっぱりと言い切ってやると、貴之は大仰なほど声を上げる。

眉を顰めて、辛辣な口調で一息に言う。


「煩い。貴様の嫁になるくらいなら、尼にでもなって辛気臭く余生を送ったほうが、遙かにマシだ!」

「ひ、ひどいよ、雪乃ちゃん。尼さんはつつましいってだけで、別に辛気臭いっていうわけじゃ……というか、陰陽師が尼さんになって、どうするの? いいの、それって……」


 陰陽道の直系である雪乃が、尼になるなどという選択が果たして許されるのであろうか。


「黙れ、貴様。出て来る言葉は、それだけか!」


 雪乃は貴之に平手をくらわせて、思いっきり怒鳴る。答は当然「否」だということは貴之にも分かるだろうに、なぜそんなことを言うのか。

 とにかく憤懣を抑えきれない。憤懣を覚える原因に思い当たるが、それには意識をやらないように気を張った。


「だって、雪乃ちゃん、尼さんになりたいって言うんだもん」

「やかましい! 子供か貴様は! なりたいなどとは、一言も言っておらぬだろう! 話を変な風に解釈するでない! 兄様がご心配なさるだろう!」


 怒鳴るだけ怒鳴ってから、唇を噛み締めたくなるのをこらえる。神無月には雪乃しかいないのだから。やりたいとか、やりたくないとかの問題ではない。やる以外ないのだ。


「兄様、私はちゃんと当主代行としての勤めを果たしますので、ご安心ください」


 恭しく頭を下げると、泰雪は美しく微笑んで、雪乃の頭を撫でた。


「安堵したよ、雪乃。そなたがもう少し振る舞いに気をつけてくれると、もっと安堵できる」


 美しい笑顔のまま、さらりとつけたされ、雪乃は二の句が返せない。頭を撫でられたまま、黙り込む。

 泰雪は雪乃を三度ほど撫でてから、思い出したように貴之になおった。


「そういえば、そろそろ祓いに出かける時間ではないのか。今宵の夕餉は、お前の好物と聞くぞ」

「え? ……あ、本当だ。急がなきゃ、ご飯が冷めちゃうよ」


 貴之が腰を浮かしかけたとき、泰雪は雪乃に声を掛けた。


「おまえも行っておいで」

「なぜ、私が……」


 ――こんな奴と、と眉を顰めて、呻くように不満を吐露しそうになった。辛うじて、寸前で留める。

 黙り込んで、せめてと不服な眼差しを作って兄に向ける。


「貴之は、当家の家人よりも抜きん出た力を持つ。その者の施術から学ぶこともあろう」


 雪乃が何か抗議を言おうと口を開きかけた。ところが、それよりも早く、泰雪は、はっきりと命じた。


「当主命令だ。おまえは今のうちに、一つでも経験を積まねばならぬ」


 今までの雪乃への甘やかな声音と打って変わって、情を感じさせない声音で、ぴしりと決めつけた。

胸が引きつれるように痛んだ。言葉もなく雪乃は唇を噛み締めて、ややうつむいた。


(私が学ばねばならないことは多い。経験を積むことは目下の急務。なれば、他人の施術を見ておくことも必要)


 単純に持って生まれた力量だけでなく、実務では術の精度が求められる。雪乃は精度を高めていかなければならないと言い聞かせた。

 ややあって、どうにか心の整理が付いた雪乃は、こくりと頷く。そんな雪乃の態度を確認し、泰雪はやっと口調を和らげる。


「今日は冷える。羽織を持っておいで」

「わかりました、御当主」


 泰雪に折り目正しく言ってから向き直り、貴之をまっすぐ見た。

 しばらく待つように言ったところが、


「いつまでも待ってるよ、雪乃ちゃん」


 笑顔で言われ、またまた眉を歪めてしまった。それでも、何も言わずに退室した。


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