第2話  旧鈴木子爵邸



 関東大震災から一年と少し後、雪乃は依頼で同じ道を小走りに急いでいた。鮮やかな茜色の着物の裾を翻して走る。細い路地を幾つか抜けた先に目的地はあった。


「ここ……かな?」


 雪乃は呟きながら握り締めていた依頼状を広げて確認する。

 依頼状には「旧鈴木子爵邸。震災で子爵死去し、遺族が六月処分予定だったが霊障出現。瘴気雑霊が住まっており、徐霊しても数日で復活のこと。竜門の一つと推察。早急な地鎮の必要あり」と書かれてあった。場所もここで間違いないようだ。

 元は白塗りのペンキが美しい、幅七間ほどの西洋館だったのだろう。今は瘴気で薄ぼんやりと覆われている。それでも、張り出した半円のバルコニーで家族の楽しいひと時を送っていたのがしのばれた。

 門扉をくぐると、黴臭さに似た瘴気が鼻についた。構わず雪乃は前に進み、正面口に立つ。建具は木製だが建具枠は石製の太いアーチ状の額縁が廻らされている。

 扉に手を掛けて躊躇に指先が固まった。鍵は開いており、押せば開くことは知っている。

 緊張しているのだと自覚する。同じ道をたどったためか、脳裏に震災の日のことが思い浮かんだ。不安と自責と後悔に覆われた棘が、ちくりと胸に突き刺さる。じわりと広がって心がおびえるように震えた。

 雪乃はくっと唇を噛みしめて顔を上げた。ふっと意識的に息を吐き出し、扉を押し開けた。

 扉を開けると、埃と瘴気が澱のように溜まって、一層どんよりと淀んだ空間であった。

 外よりも濃い、纏わりつくような匂いに雪乃は反射的に袖で口を押さえた。かなり妖気が活性化しているようだ

 気を集中させると、普段は外に流れている霊気がうっすらと輝く盾となって雪乃を覆う。通常の状態で纏っている霊気でも、雪乃の力なら、それ相応の防御となる。だが、気を集中させれば防護の精度は増す。

 雪乃は澱の中で蠢く数々の餓鬼、雑霊の類を見渡し、気を集中して一拍打った。音は波動となり、場の空気をいささか清浄に近づける。手のひらと端の指は重ねたまま中の三本の指をずらした印――孔雀明王くじゃくみょうおう印を作り、真言を唱えた。


「オン マユラ キランデイ ソワカ!」


 内包する霊気が呪によって放たれ、周囲の瘴気や雑霊は、霜に熱湯を掛けるがごとく消え失せた。


(さして広くもない屋敷だ。小一時間もかかるまい)


 雪乃はそう公算をつけ、瘴気の濃い部分を探って次の間に移った。戸を開けて部屋を見わたした瞬間、雪乃は息を呑んだ。

 目の前に少女が微笑んでいた。まだ若干の幼さが残る面差し。凛とした双眸に、美しい花弁のように艶やかに色づいた唇。

 濡れ羽とたとえるにふさわしい、切り揃えられた長い髪が雪のように白い肌に沿うように流れていた。纏う着物は鮮やかな茜色で、波に花の丸が描かれた愛らしいものだった。ちらりと見えた髪を結う紐は紫である。

 人に見せれば大抵「身体も小柄で、華奢な人形のような作り物めいた愛らしさと美しさがある」と評す姿は、雪乃自身の姿そのものであった。

 鏡に映したかのような姿に、雪乃は口の端を引きつらせた。


「西洋鏡の付喪神つくもがみか……こんなものまでおるのか」


 やや、げんなりと呟いた。雪乃そっくりの姿が瘴気・雑霊・煩悩鬼に溢れた部屋で笑って佇んでいる光景は、正直なところ、えらく気分が悪い。


「まとめて片付けてやる」


 雪乃は気を取り直して、いや、少々開き直って印を組み、気を集中させた。

 真言と共に気を解き放つ。己の霊気が波動となり、瘴気を一掃していく手ごたえを感じたとき、巻き上げた埃を頭から被り、雪乃は悲鳴を上げた。

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