花闇の帝都に瑞花咲く

菅野美佐

1  帝都に寒花咲く

第1話 大正十二年九月一日


 残暑の強い風が、哄笑するように吹き抜けた。

 家財道具を持って怒涛のごとく逃げてくる人々の流れに逆らって、十三歳の神無月雪乃は南に駆ける。家財道具を荷車に載せて、我先にと逃げてくる人々にもまれながら、南を目指す。

 体当たりされ、転倒して紅の着物を汚し、くくっている長い髪を乱しながら、ひたすら雪乃は駆けた。


(火が、近い……。浅草が燃えている)


 振り仰いで見た空は、一面の鈍色と墨色の煙に覆われ、乱層雲を思わせた。東と南の空は熱した墨のように煌々とした赤色に染めていた。

 南東からの強い風に煽られた紅蓮の炎は、ねじくれあがり、時折まだ勢いのある火生が――鬼火が不気味な花を咲かす様が見てとれた。空に滲むような赤は血痕を散らしたかのような陰惨な色だ。その色の中に悲嘆と憤懣が混じった人の顔を見た。

 横揺れの余震に地が鳴動する度に土地に張り巡らされていた結界は撓み、崩壊していく。背筋に粟粒が立ち、また一つ、二つと妖が放たれていくのを感じていた。

 火の手が上がる。数町先で上がった炎に雪乃の足の力が抜け、その場に座り込む。足は半ば麻痺したように動かない。


(火伏せの神が落ちた。間に合わぬ、一帯が焼ける)


 火伏せの神を祭る神社が燃えていた。

 正確に言うと、火の気が強くなりすぎて見える幻火だ。実際には燃えていない。

 だが、時間の問題だ。土地の験力が震災によって落ちたところに火伏せの祭事に失敗した。つまり、ここの界隈の火伏せは絶望的となった。

 呆けたように暗く上がる幻火を見ていたが、震える手で拳を作り、麻痺した足に渇を入れる。


(しっかりしろ。私がここで諦めたら、兄様がっ……家が燃える。守らねば……私が)


 手を突いて、やっと立ち上がる。立つ行為を忘れているかのように、足に力が入らない。電柱によろよろと寄りかかった。唇を噛み締めて己を叱咤しながら考える。

 雪乃は自宅まで火の手が延びないように、火伏せの術を懸けなければいけない。炎は入谷町付近だろう。一部は線路のすぐ間際まで火が迫っている。火伏せの社が落ちた今、環状線路を越えるのは時間の問題である。


(沿線には、まだ達していない。まだ沿線以西は守れる可能性があるやもしれぬ)


 元々、駅には呪を施しており、駅と駅を繋ぐことで一種の結界を作っていた。目的は、宮城を守るためである。宮城側が作った結界はまだ験力を保っているようであるから、きっとこれを利用すれば家を守れる。

 線路沿いの道に入ると、列車で逃げようとする人々の一団がいた。雪乃は井戸から桶ごと水を拝借し、一団を縫うようにして線路に寄った。


「臨兵闘者皆陣列在前!」


 桶を前に九字を切る。高ぶった霊気が、ふわりと雪乃を中心に渦を描いて舞う。


「オン バザラ タ ラマ キリク ソワカ」


 蓮華印を組み、呪を唱え、宙に「急急如律令」と文字をなぞる。


「源の求むる水を手にとりて放せば九千八海となる。火伏せに結ぶ水くきのあと、北方で南を尅す坎の水なり。天合魂命あめあいたまのみこと、五行大神、彦龍媛龍神に申す」


 鎮火の祭文を唱え、桶の水を一掬い掬って撒き、印を組み替える。


「陽火を鎮むる陰水を以って、陰陽水火を調和せしめたまえ!」


 高ぶった霊気が膨張し、大気をどうと鳴らした。撒いた水が力を持ち、結界の一柱となる。

 雪乃は額から流れた汗を拭って、桶を抱くように持ち上げて南に向って移動する。この先には、近辺住民が避難しているであろう上野公園がある。

 鎮火の術はかなり体力を消耗するらしい。雪乃は今日この切迫した状況下で使ってみて、初めてわかった。


(せめて公園までは保たさなければ……)


 どこまで保つかわからないが、せめて――と雪乃は、祈るような気持ちで定期的に施術しながら公園への道を駆けた。


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