1-29 涙の理由

「その後、理事長さんに引き取られた私はこの学園でずっと暮らしてきたんです」


 コーヒーが入ったカップの縁をなでながら、リリアは手の中のそれに、ふうっと息を吹きかける。飲むにはまだ熱いが、伝わってくる暖かさは幾分か心を落ち着かせてくれた。おかげで、想像していたよりもしっかりと話すことができたと思う。気を利かせて淹れてくれた日々也には感謝しかなかった。


「あの時の爆発が敵国の発明した新しい魔法だって知ったのは、それからしばらくしてからでしたね」


 黒い液体を見つめながら、ポツリとそう付け足す。

 努めて感情を乗せずに言ったつもりだったが、対面に座る少年は果たしてどんな表情をしているのだろうか。

 何となく、顔を上げて確認することはためらわれた。


「お前は……………」


 そのとき、今まで黙って話を聞いていた日々也が口を開いた。


「お前は、その、相手の国の人を恨んだりはしなかったのか?」


 ある意味、月並みでお約束な質問。ようやく言葉にできたのはそれだけだった。

 無理もない。日々也にとって戦争など、それこそテレビの中だけの話でしかなく、対岸の火事どころかまさしく異世界の出来事だ。とてもではないが、かけるべき言葉など見つかるわけもない。

 理解できたのは、リリアの『嘘嫌い』が当時の経験から来ているのだろうということくらいだ

 だからこそ、返ってきた答えは日々也にとって意外なものだった。


「………そうですね。恨んではいない、と思います」


 もう一度、リリアはコーヒーへと息を吹きかける。その姿に日々也が自分へと視線を投げかけていることに気づいた様子はない。


「もちろん、どうしてあんな目に遭わなきゃいけなかったんだって思いますし、多分、一生許せないと思います。でも、たくさん人を殺したのは私の国も一緒ですから」


「……それは、お前の責任じゃないだろ」


「それでも、です」


 そろそろいいかとカップを傾け、その中身を一口含む。

 口内に広がった思いのほか苦い風味を無理矢理に飲み下し、リリアは静かに瞑目する。


「あの魔法の一件で、私のいた国は降伏を決めました。相手の国がしたことが正しかったとは思いませんけど、戦争が早く終わる要因になったのは事実です。もし、あのまま続いていれば、きっともっと大勢の人が不幸になっていた。だから、許すことはできないけど、恨むこともしないって決めたんです。……………そうじゃなきゃ、やってられないじゃないですか」


 血を吐くように告げられる言葉。果たして、その考えに至るまでにどれほどの年月と葛藤を経たのか。

 目の前で小さく膝を抱える少女の胸中を、本当の意味で理解することはできないのだろうと日々也は思う。

 日々也自身、両親を過去に喪ってはいる。だがそれでも、まだ彼には妹がいた。お互いに支え合える存在すらいない本当の孤独というものは、未だに味わったことがない。


(召喚魔法は相性のいい者が召喚される……か)


 ふと思い出したのは、以前ユノが語っていた召喚魔法の話。

 彼女によれば、召喚魔法で呼び出されるのは相性のいい者。つまりは良好な関係を築きやすい、馬が合うような相手と言うことではなかったか。もし家族を亡くしたという共通点からそう判断されたのだとすれば、とんだ皮肉だと眉根にしわが寄る。


「どちらかというと、私が嫌いになったのは魔法の方でしたね」


「ここに通ってるのにか?」


 日々也の気持ちを知ってか知らずか、リリアもまた魔法への嫌悪感を口にした。そして、不思議そうな問いかけに力なく笑い、


「仕方ないじゃないですか。理事長さんのお世話になる以外、私に選択肢なんてなかったんですから。縁もゆかりもない子どもの後見人になってくれるようなお人好しなんて、あの人くらいのものですよ」


 リリアの言葉に少なからずとげが混ざる。カップを包む両手に力を込めるが、今度はささくれだった心を上手く静めることができなかった。


「それに私の願いを叶えるには、もう魔法に頼るしかなかったですしね」


 それでも、リリアは湧き上がる苛立ちを無理矢理に押さえつけ、続きを語る。そもそも、これは自分で決めて自分で話し始めたことだ。いくら自らにとってデリケートな部分であろうと、日々也にあたるというのは八つ当たりも甚だしいことこの上ない。


「ヒビヤさん。私がどうして召喚魔法を覚えようと思ったのか、分かりますか?」


「………さぁな」


 返ってきた日々也の答えはぶっきらぼうなものだったが、今はそのいつもと変わらぬ態度がありがたかった。

 ゆっくりと息を吸い、そして吐く。冷静にならなければならない。ここからが本当に伝えたいこと、話さなければいけないことなのだから。


「……………家族に、憧れてたんです」


「どういう意味だ?」


「そのままの意味ですよ」


 曖昧に語るリリアは、まるで日々也を焦らすようにコーヒーを喉の奥へと流し込んでいく。その視線は未だに手元から離れない。


「寂しかったんです……ずっと、ずっと。お父さんとお母さんが死んじゃったあの日から、どうしようもないくらいに。あぁ、別に交友関係に不満があったわけじゃないんですよ? ミィヤちゃんたちは大切な友達だって思ってますし、一緒にいてすごく楽しいって感じます。………でも、みんなと別れて誰もいない部屋に戻るのがつらかった。朝起きて、『おはよう』って言ってくれる人がいないのが悲しかった。どんなに楽しいことや嬉しいことがあってもその気持ちがなくならなくて、一生独りぼっちなんじゃないかって怖かった。だから私は、両親の代わりを求めて嫌いな魔法に手を出したんです」


 決して早い口調ではなかった。けれど、その端々から感じ取れる凄絶なまでの孤独が日々也に口を挟むことを躊躇させる。

 今にして思えば、ミィヤがリリアのことを見守ってほしいと言っていたのはこういうことなのだろう。あの猫少女がどこまで事情を把握していたのかは知らないが、全くもってとんでもないことを気軽に頼んできたものだ。荷が勝ちすぎているどころの話ではない。

 何よりも問題なのは―――――、


「僕は、お前の両親の代わりになんてなれないぞ」


「………分かってると思ってたんですけどね、そんなこと」


 突きつけられた冷たい現実に、それでもリリアは首肯で応える。

 そう、意味がないことなど最初から分かっていたはずなのだ。代わりなんて立てられるわけがないのだと。

 その程度で満たされるくらいなら、こんなにも苦しんでなどいないのだから。


「でも、本当は分かってるつもりになってただけだったんでしょうね。酷い話でしょう? 苦しくて、苦しくて、苦しくて、どうしても諦めきれずにちっちゃな希望にすがって嫌いな魔法の勉強を頑張って……………その結果がこれですよ。結局、私がしたのはヒビヤさんに迷惑をかけただけ。誰も幸せになってない。一体、私の努力って何だったんでしょうね?」


 リリアは自らの行動を自嘲気味に評し、三度カップを傾ける。

 気がつけばコーヒーの残りはずいぶんと減っており、わずかな量がカップの底で揺らめくだけとなっていた。だが、いつまで経ってもリリアがそれに口をつける様子はなく、ただじっと自分の呼吸に合わせて波立つ水面を見つめ続けている。

 日々也にはその理由が何となく分かっていた。

 飲み干そうとするなら、顔を上げなくてはならない。きっとリリアはそれが嫌なのだろう。

 かつて、同じような少女の姿を幾度となく見てきた。

 大好きな両親が突然いなくなり、悲しみに暮れる少女の姿。

 寂しさを必死に押さえ込もうとする少女の姿。

 そして、泣き顔を見せまいとうつむいたままの少女の姿。

 それは忘れもしない、誰よりも大切な妹がかつて見せた姿だ。

 もう二度と見ることはないだろうと思っていた光景に日々也の胸がざわつき始める。例えようのないむず痒さがたまらなく気持ち悪い。


「………一つだけ、聞いてもいいか?」


「何ですか?」


「どうして、今の話をしようと思ったんだ?」


 嫌な感覚を振り払おうと日々也が投げかけた問いに、リリアの指先がかすかに動く。ほんの一瞬、躊躇うそぶりを見せたが、すぐさま諦めたようにため息を一つつき、


「本当はすごく迷いましたよ。でも、そんなの不公平じゃないですか。私はヒビヤさんにたくさん、たくさん迷惑をかけて、アカネさんとの喧嘩にだって巻き込んだのに、その理由をずっと黙ってるなんて……卑怯です」


 正直にそう語るリリアの体は弱々しく震えていた。嘘を厭う彼女は自らの過ちであろうと、いや、自らの過ちであるからこそ、向き合うことがどれほど苦痛だったとしても、その事実を黙するなどという不義は許せないのだろう。

 それは確かに美徳であるのかもしれないが、日々也にはとても生きづらいものに思えた。


(何というか、本当に不器用な奴だな………)


 日々也は改めてリリアへと目を向ける。この世界に連れてきた張本人。自身に多くの苦労を強いる元凶。はっきり言えば、そんな奴相手に何かをしてやる義理などどこにもない。

 だと言うのに、この居心地の悪さは一体何なのか。

 考えるまでもない。認めることはこの上なく癪だが、リリアの召喚魔法が選んだ相手はまさしく彼女にとって最適だったということだろう。

 ほんの一瞬だとしても、妹の、明日香の姿を重ねてしまったのだ。ならば、この胸のつかえを取る方法は一つしかない。

 無造作に立ち上がった日々也は未だに顔を上げる様子のないリリアの横まで移動すると、そのままどかりとベットへ腰を下ろす。

 丁度、リリアの頭が日々也の膝辺りにくる位置だ。それに加えて、垂れ下がった髪のせいで伺えはしないが、きっと今頃は横目で見ながら怪訝な表情をしているに違いない。

 それを無視して日々也は腕を持ち上げる。

 そして、


「ぅえっ!? ちょっと! ヒビヤさん、何を………」


「いいから、少し黙ってろ」


 突然頭の上に置かれた手のひらに、リリアが驚きの声を上げた。だが、当の日々也はまるで気にせず、ゆっくりとなで続けている。


「わ、私、別に、こんなことしてほしいわけじゃ………」


「構ってほしいようにしか見えなかったけどな」


「…………………………」


「それとな、迷惑をかけただのなんだのは、とっくに決着がついた話だろ。自分からわざわざ蒸し返すなよ」


「で、でも………」


「でもじゃない」


 かすかな怒気を含んだ日々也の声はリリアに反論を許さない。言葉の続きは宙に消え、躊躇いがちに口を閉じたリリアはそのままされるがままとなった。その間も日々也の手は止まらず、慰めるように動き続ける。


「あと、あれだ。僕はお前の両親の代わりにはなれないし、いつかは元の世界にも帰らなきゃいけない。これは絶対だ。……でもな、せめてその時までは一緒にいてやるくらいはできる」


「………ヒビヤさん?」


 予想もしていなかった一言に、目だけを動かして日々也を見上げたリリアの瞳に映るのは、普段通りのなんともつまらなそうな顔。感情の読み取りづらい仏頂面だった。

 しかし、そこに嫌々なでているといった雰囲気は感じられない。


「昨日、お前は自分のことをもっと頼れって言ってたけどな、お前ももっと周りを頼っていいんじゃないか? ミィヤたちだって、多分、同じことを言うと思うぞ」


 名前を呼ばれたことに気づいているのかいないのか、リリアのつぶやきを無視して、日々也は穏やかな口調で言い聞かせるように言葉を紡ぐ。それはとても優しくて、暖かくて、まるで頭に触れる指先から伝わるようにリリアの心を満たしていく。

 思えば、こうして誰かに頭をなでてもらうなどいつぶりだろうか。普段なら恥ずかしさから払いのけていたかもしれない手も、今は不思議と悪い気がしない。それどころか、酷く懐かしい感覚が胸の奥からこみ上げてきていた。


「わ、私……私は……………」


 そのことに戸惑い、言葉に詰まる。ともすれば、今の状況こそリリアの望んでいたものであったのかもしれないが、それに身を委ねてしまっていいのかが分からない。座っているにもかかわらず、まるで足下がぐらついているような不安感が踏み出すことを躊躇わせる。

 嬉しくて切ない郷愁にも似た感情にリリアが素直に従えないのは、きっと恐れているからだろう。今以上に迷惑をかけることを。それによって嫌われてしまうことを。拒絶されてしまうことを。

 手を伸ばして手に入れたものがなくなってしまうことがたまらなく怖い。例えいらぬ心配だとしても、一度味わった失う恐怖が拭えない。

 そんな自らの望みと不安の間で揺れ動くリリアに対し、日々也は、ふっと頬を緩ませ、


「あんまり心配するなよ。お前は、独りなんかじゃないんだからな」


 どこまでも、どこまでも、労り、慈しむような声音だった。

 途端、リリアの目頭にじわりと熱いものが滲んだ。僅かに向けていた顔をとっさに背け、ぎゅっと、膝を抱える腕に力を込める。それでも、あふれ出した気持ちは抑えられず、涙となってぼろぼろとこぼれだした。

 奇しくも10年前のあの日と同じ、全てをなくした瞬間のように雫が頬を濡らしていく。だが、明確に違っていることがある。それは、涙と一緒に流れていくように空っぽになったあの時とは逆に、心が満たされていることだ。


「ヒビ、ヤ……さん…ごめっ、なさい………もう、少し……もう少し……だけ………この、ままで……」


 声を震わせ、つっかえながらも素直な思いを口にするリリアに日々也は何も答えない。ただ、休むことなく動き続ける手だけが静かに少女の願いを受け入れる。

 その事実に、安堵のため息とも、安心の吐息ともつかない声が漏れた。

 あぁ、この気持ちに従っていいのだと。少なくとも今は、この優しさに寄りかかってもいいのだと。

 静かに目を閉じ、触れる手の大きさを感じながら、夜は少しずつ更けていく。

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