1-30 広まる噂

 教室へと続く廊下を歩きながら、日々也は小さくあくびを漏らす。目つきが普段よりも若干悪く見えるのは寝不足が原因なのであろう。

 ここハクミライトは仮にも超がつくほどの名門校であり、小中高一貫教育かつ、一学年につき最低20クラスはあるようなマンモス校であるため、その分とてつもなく膨大な敷地を有している。そこに効率や機能性よりも面白さや雰囲気を重視する理事長の方針が合わさることで、場所によって木造だったり、石造りだったりと様々な建築様式が見られる異様な造りとなっていた。現在、日々也たちが歩いている辺りの床はリノリウムのような素材でできており、ぼんやりとした頭で歩いていると元の世界の学校にいるような錯覚を覚えてしまう。

 頭を振って眠気とともにそんな妄想じみた考えを振り払う日々也の数歩後ろには、当然ながらリリアがついてきているのだが、その姿は未だにうつむいたままだ。

 とはいえ、理由は昨夜とは違っている。


(恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!!)


 顔と言わず、耳と言わず、何だったら首元まで真っ赤に染め上げたリリアは頭の中で同じ言葉を何度も何度も繰り返していた。体中が熱いなんてもんじゃない。もしかしたら、全身が茹で上げられたタコみたいになってるんじゃないかとさえ思えてくる程の羞恥に身もだえる。

 原因は昨夜から続く一連の出来事だ。あのまま日々也に慰められ続けていたリリアは最終的に泣き疲れて眠り込んでしまい、目が覚めたのはすっかり空が明るくなった後だった。同い年の少年にまるで小さな子どものように扱われ、泣きじゃくるところを見せてしまっただけでも恥ずかしいのに、寝顔をしっかりと見られた可能性まであるというのは思春期まっただ中の女の子としてはちょっとつらい。

 さらにそれだけでは飽き足らず、夕ご飯を食べ損ねたせいで起き抜けに腹の虫の音を聞かれるという失態を犯してしまっていた。ついでに言えば、涙で濡れた顔と髪の毛もなかなかに酷い状態だったことが付け加えられる。

 つまりはもう、何か色々といっぱいいっぱいだった。

 しかし、それはそれとして少なからず心が軽くなっているのもまた事実ではある。

 抱えていた重荷が全て解消されたわけではない。だとしても、リリアにとってはそれだけで十分すぎるほどだった。与えられたものの大きさを思えば、今味わっているこの恥ずかしさもその対価として甘んじて受け入れられる。


「お前、何で起きてからずっと下向いてるんだ?」


「き、気にしないでください………」


 それでも、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。日々也がその辺りの機微を意識していないことも若干のむかつきポイントだった。


「それにしても、今朝はやけに騒がしくないか?」


「え?」


 日々也の言葉にリリアは周囲を見回してみる。確かに、言われてみれば何だか妙に騒々しい。

 いや、自由時間中の校舎内が話し声で満ちているのはいつものことなのだが、何だかその毛色が普段とは異なっているような気がする。それに、通り過ぎる生徒たちの中には自分たちの方を伺いながら小声で話している者も見える。


「今日って何かありましたっけ?」


「抜き打ちテストとか持ち物検査だったりしてな」


「そ、それはちょっと困るんですけど………」


 そう言って自らの荷物をかばうように抱きかかえるリリアは、まさかコイツ余計な物でも持ち込んでいるんじゃないだろうなとさらに険しい表情を作る日々也に睨みつけられ、さっと視線をそらす。もちろん、やましいことがあるわけではなく、ただ単に先ほどの感情がぶり返してきただけだ。

 目が合わせられない、恥ずかしい。だから、できればあまりじろじろ見ないでほしい。

 だが、そんなリリアの願いとは裏腹に日々也はなおも猜疑の視線を送り続ける。


「ヒビヤ! リリア! こんなところにおったんか!」


「リュシィ?」


「リュシィさん?」


 流石にそろそろいたたまれなくなってきたリリアが根を上げそうになった時、日々也たちに話しかけてきたのは何やら切羽詰まった様子のリュシィだった。二人を探してあちこち走り回ったのか、肩で息をしている。


「やっと見つけたで……。お前らに話が……………何でリリア顔真っ赤なん?」


「な、何でもないです………」


 リュシィに自身の異変を指摘され、我慢できずにリリアは鞄で顔を隠す。本当にもう勘弁してもらえないだろうか。

 とりあえず、不思議そうに首をかしげていた日々也のことは後でしばいておこうと少女は密かに決意した。


「まぁ、ええわ。それより、ちょいこっち来てんか?」


 そう言って手招きをしたリュシィはよほど急いでいるのか、返答も聞かずに歩き出してしまう。どうしたものかと残された二人は視線を交わし、何はともあれ話とやらを聞いてみようとどちらともなく後を追う。

 日々也たちがついてきていることを確認するためにリュシィは一度振り返ったきり、どんどん人気のない方へと向かっていく。しばらくして、登校時間にはほとんど使われることのない階段の踊り場までやってくると、近くに誰もいないことを確かめてから深刻そうな表情で二人へと向き直り、


「落ち着いて聞いてや。今な、二人の良うない噂が流れとるみたいなんや」


「よくない噂って……何だよ?」


 突然の脈絡がない言葉に、日々也は怪訝そうな顔をする。流石に話をかいつまみすぎたかと、リュシィはしばし考え、整理した内容を口にしていく。


「実はやな、昨日の晩にまた一人生徒が襲われたそうなんや。それも、ホオズキと同じ場所でや」


「え………」


 何の前触れもなく告げられた情報に驚きの声を漏らしたのはリリアだった。

 理事長、カムラ・アルベルンはリリアが知る中で最も優れた魔法使いだ。普段はふざけた振る舞いが目立つが、その実力は紛れもない本物であり、国王に認められて国お抱えの魔法使いに任命されるという話が持ち上がったことさえある。

 そんな傑物が直々に事件の解決にあたると明言した以上、この件に関してはもう心配はないと思っていた。だが、現実問題として、また新たな犠牲者が出てしまっている。その事実がリリアには信じられなかった。

 そもそも、初日とは違って普段よりも多くの教師たちが見回りに動員され、厳戒態勢が敷かれていたはずだ。下手人は一体どうやって警備の目をくぐり抜けたというのだろうか。

 いや、それ以上に重要なのは―――――、


「その襲われた生徒っていうのは、誰なんですか?」


「………イラクサらしい」


「そう、ですか……」


 その名を聞き、不謹慎だとは思いつつもリリアはほんの少しだけ安堵する。襲われたという人物が大切な友人、ミィヤやユノたちでないことは素直に喜ばしい。

 だが、同時に気に掛かることもあった。


「どうして、イラクサさんは夜中に学校にいたんでしょう?」


「さぁなぁ」


 思わずといった様子でリュシィが頭をかく。

 イラクサも不審者がいたことは当然知っていたはずだ。にもかかわらず、わざわざ真夜中に校舎内を、それも友人が前日に襲われた場所をうろついていた理由が分からない。

 しかもたった一人で、だ。仮に忘れ物を取りに来ていたのだとしても、誰も誘わないなどと不用心なことをするというのは考えられないだろう。


「そんなことよりも、や。問題は襲われたんがイラクサやっちゅうとこや」


 パチンと手を叩き、リュシィは答えの出ない疑問を棚上げにして論点を切り替えていく。


「それの何が問題だっていうんだ? 僕たちには関係ないだろ。いや、そりゃあ、犯人が捕まってないのは問題なんだろうけどな」


「それが、お前らにとっては関係大ありなんや」


 ことの重大さが分かっていない日々也たちにリュシィはため息交じりで返し、「ええか?」と人差し指を立てる。


「まず、おとといはホオズキが襲われた。昨日はイラクサや。二人の名前を聞いて何か気づかへんか?」


「何かっていわれてもな」


「えっと、ホオズキさんもイラクサさんもアカネさんのお友達……ですよね。もしかして……………」


「せや。多分やけど、犯人は無差別やのうて、アカネと取り巻きを狙っとるんやと思う。あいつらのこと嫌っとる奴はぎょうさんおるからな」


 被害に遭った二人の共通点から自らの推論を語るリュシィ。それは案外、的を射ているように感じられた。

 アカネもホオズキもイラクサも、自分たちが富裕層であることを鼻にかけた態度が目立つ典型的な性格の悪い貴族だ。どこかで誰かの恨みを買っていたとしても何ら不思議ではない。事実、リュシィの言うように生徒の中で彼女たちに好意的な感情を持っている者はほぼ皆無だ。

 何より、犯行の理由が怨恨であるのならば、それはあの三人を快く思っていない人物が多い学校内の人間、つまり内部犯の可能性が高いということになる。もしそうなのだとしたら、ホオズキが襲われた日の晩に日々也たちが校舎内にいたという情報があまりにも早く知れ渡った理由にも説明がつく。

 学校の関係者であれば怪しまれることなく自然に情報を流すことも容易であろう。


「そんで、こっからが本題なんやけどな。実は今、ホオズキとイラクサを襲ったんはお前らなんちゃうかって話が出とるんや」


「はぁ!?」


「ど、どうしてですか!?」


 思いもよらなかった謂われのない噂の内容を聞かされ、日々也とリリアの二人は同時に声を荒げる。リュシィは両手を挙げてそれをなだめると、


「昨日の昼にアカネらと喧嘩しとったやろ。どうもそのせいで変に勘ぐっとる奴らがおるみたいなんや」


「ちょっと待てよ。ホオズキが襲われたのはその前の夜だぞ。そもそも喧嘩に関したって、ホオズキの件があったから向こうが勝手に突っかかってきただけだ」


「そらそうやけど、そんな細かい事情は知らへん奴がほとんどや。せいぜいお前らとアカネらとの間でなんやいざこざがあった、程度やろうな」


 どこの誰かは知らないがずいぶんとはた迷惑なことだと、日々也は盛大に舌打ちをする。しかし、考えてみれば何ら不思議なことではないのかもしれない。当事者でもなければ誰と誰が、いつ、どこで、どういった理由で喧嘩をしたのかなど詳しく知りはしないだろう。日々也自身、そういった覚えはいくらでもある。

 ただ、今回はそれが悪い方に働いていることが問題だ。


「ほんで聞いときたいんやけど、昨日の夜は何しとった?」


「リュシィさん、私たちのことを疑ってるんですか!?」


「んな訳あるかいな。アリバイとかがあるんやったら誤解を解くんも楽やと思っただけや。それで? 実際どうなんや?」


「残念だけど、昨日は寮に帰った後、ずっと二人でいたな」


「さよか………」


 ショックを受けた様子のリリアにリュシィもばつが悪くなったのか慌てて弁明するも、返ってきた答えには渋い顔をするしかなかった。

 しかし、いつまでも肩を落としてはいられない。何かいい方法はないかと三人は頭をひねる。

 荒々しい足音が彼らの耳に届いたのはそんな時だった。


「見つけたわよ、アンタたち!!」


「ア、アカネさん……!?」


 音の方向へと目を向ける暇もなく、近づいてきたアカネがリリアの胸ぐらに掴みかかる。壁際に押しつけられ、苦しそうな声を上げているのも意に介さず、そのまま締め上げる腕に力を込めていく。


「おい、何やってるんだよ!!」


「ちょっ、止めんかお前!!」


 日々也とリュシィは咄嗟にリリアからアカネを引き剥がすが、その目には明らかな敵意が宿っていた。

 流石に友人二人が襲われたことが堪えているのか、何を言われても日々也たちを小馬鹿にした態度を崩さなかった昨日とは違って、ずいぶんと感情的になっているらしい。


「聞いたわよ。やっぱり、アンタたちが………」


「……………昨日も言いましたけど、私も、もちろんヒビヤさんだって関係ありません。言いがかりはやめてください!」


 軽く咳き込みながらも、鋭い視線を向けるアカネに毅然と反論をするリリア。謂われのない誹謗中傷に怒りの感情が湧いているのは、誰から見ても明らかだった。それも、未だに溜飲が下がりきっていない相手だ。また昨日のような事態になるのではないかと日々也の胸中に一抹の不安がよぎる。

 だが、それは杞憂だった。


「証明するものなんてありません。けど、ホオズキさんについても、イラクサさんについても、私たちは何もしてません。だから、これ以上私たちを疑うのはやめてください」


「アンタみたいな拾われ子の言うことなんて、信じられるわけ……………」


「信じてください」


 有無を言わせないリリアの言葉にアカネは息をのんだ。強い意志を持ってそらすことなく真っ直ぐに自分を見つめる瞳に身震いさえしてくる。少し挑発されただけで取り乱していた昨日とはまるで違うその様子に困惑を隠せない。

 そして、その変化に驚いているのはリリアも同じだった。

 確かに、アカネに対して怒ってはいる。だが、それだけだ。心の中に湧いてくる激情とは裏腹に不思議と頭は冷えていた。

 もう、『拾われ子』などという蔑称に心がかき乱されるようなことはない。自分は決して独りではないのだと、言ってもらえたのだから。

 そうして、どれほどの間お互いに睨み合っていただろうか。緊迫した空気の中、その場にいる誰もが口をきけずに立ち尽くしていると、不意に穏やかな声がかけられた。


「君たち、そこで何をしているんですか?」


 全員がその呼びかけに振り返る。視線の先に立っていたのは、柔らかな笑顔を浮かべたアレウムだった。口調こそいつもと変わりないが、一方で日々也たち、いや、より正確にはアカネが問題を起こさないように油断なく目を光らせているのが見て取れる。

 アカネは投げかけられた問いには答えず、水を差されたとでも言いたげに舌打ちをすると、無言のままもう一度だけリリアを睨みつけてから足早に去って行った。

 それを見届けつつ、アレウムは残った三人の元へと歩み寄ると、


「皆さん、大丈夫でしたか?」


「いやー、アレウム先生おおきに。一時はどうなることかと思うたわ」


「いえいえ、構いませんよ。ところで、ルーヴェルさん。オオゾラ君。何やら妙な噂が流れているようですが………」


「あ、はい、そうなんです。私たちもたった今、リュシィさんからその話を聞かされて、どうしようか考えてたところなんですけど………」


 アレウムの言葉にリリアが肩を落とす。教師であるアレウムまで知っているとなると、噂は生徒たちの間だけにとどまらず、既に学校中で広まっていることだろう。

 その事実に暗い顔を見せるリリアに対し、アレウムは顎に手を当て、しばし思考を巡らせる。そして、


「そうですね。お二人とも、今日は学校を休んではどうでしょう?」


「教師がそんなこと言ってもいいんですか?」


「本来ならあまりよくはありませんが、今の状況で出席してもつらいだけでしょうからね。理事長には私からお伝えしておきますから、出席日数については心配いりませんよ。ただし、部屋でサボったりせず、きちんと自習をしておくこと。いいですね?」


 日々也の指摘に苦笑しながら答えると、腕時計をチラリと見やる。時計盤はホームルーム開始数分前を示していた。


「では、私はこれで。アルティカ君、行きましょうか」


「はーい。リリア、ヒビヤ、またなー。噂のこと、あんまり気にしたらアカンでー」


「あっ、ちょ、ちょっと待ってください、先生!」


 リュシィとともに教室へと向かおうとするアレウムをリリアが呼び止める。「何か?」と小首をかしげるその顔をリリアは心配そうに覗き込むと、


「あの、先生、何だか顔色がよくないみたいですけど、どこか具合でも悪いんですか?」


 唐突にかけられる労りの言葉。それを受けて、アレウムは目をしばたたかせていた。その表情はよくよく見れば確かに幾ばくかの疲労の色が滲んでいる。

 だが、当の本人は気づいていなかったのか、それとも気づいた上で普段通りに振る舞っていたつもりだったのか、まるで予想もしていなかった一言を聞かされたように呆然と立ち尽くしていた。


「えっと、先生?」


「……………あ、あぁ、きっと、昨日も校内の見回りをしていたので少しばかり疲れが出たのでしょう。今日の見回りが終われば、明日からはしばらく休めますので問題はありませんよ。心配してくださってありがとうございます」


 そう言ってお辞儀をすると、アレウムはリュシィを引き連れて今度こそその場を後にする。いやに反応が鈍かったことが気にはなったが、平気だと口にされた以上、リリアも追求できずに遠ざかる背を見送ることしかできなかった。

 仕方なく共に残されたルームメイトへと目を向けると、日々也もまた見つめ返しており、視線だけで「どうする?」と問いかけている。


「とりあえず、帰りますか?」


「……そうするか」


 広まった噂は自分たちではどうすることもできないだろう。とりあえず今は担任の厚意に甘えるべきかと、二人は登校早々、帰路につくのだった。

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