1-28 リリアの過去

 あの日のことは今でも覚えている。

 もう10年も前のこと、

 その日はいつもと変わらない、ごく普通の日だった。

 そうなるはずだった。

 そうならなければならなかった。

 けれど、

 そうはならなかった。






「それじゃあ、いってきまーす!」


「いってらっしゃい。気をつけてね」


 台所で夕食の仕込みをしていた母に声をかけ、リリアは外へと駆けだした。今日は待ちに待った友達の誕生日会だ。最近は戦争だなんだと暗い話題ばかりだったために、こうした目出度い行事は自分のことでなくとも素直に嬉しかった。


(まぁ、正直に言えば難しいことはよく分かんないですけど)


 友人の家へと続く道を歩きながら、リリアは一人そんなことを考える。

 自分の暮らしている国が戦争をしていようが、幼い彼女からしてみればそれはどこかの誰かが勝手にやっていることで、自分とは何の関わりもないことだった。思うところがあるとしても、物価が上がっただのなんだので夕食のおかずが一品減ったのが残念だとか、おやつをあまり買ってもらえなくなったことが不満だとか、その程度のものでしかない。

 それくらいの、言ってしまえばちゃちな文句で済んでいるのはひとえに彼女の住むこの町が田舎に属する場所で、あまり戦争の影響を受けていないがためなのだろう。

 とはいえ、不満は不満だ。ずっと続けばストレスもたまる。今回の誕生日会はそんな子どもの様子を見かねた親たちが少しずつお金を持ち寄って開催した企画だった。実際のところ誕生日会というのはほとんど口実で、たまには大切な子どもたちを目一杯楽しませようという趣旨の元に計画されたものだったが、本人たちはそうした親の思いやりなどつゆ知らず、とにかく久しぶりのイベントに数日前からはしゃぎ回っていた。


「あれ?」


 だからだろうか、道すがら鞄の中身を確認していたリリアは友達に渡すはずの誕生日プレゼントが入っていないことに気がついた。どこにやってしまったのだろうかとしばし考え、机の上に置いたままになっていたことを思い出す。

 絶対に忘れないようにと目立つところに置いておいたのに、そのこと自体を忘れてしまったと考えると恥ずかしくて顔が赤くなってしまう。


「………まだ、大丈夫ですよね」


 歩いてきた道を振り返り、誰に聞かせるでもなく呟く。

 誕生日会が始まるまでもう少し時間があるはずだ。今ならばプレゼントを取りに家へ戻ったとしても十分間に合うだろう。そう判断して、彼女はくるりときびすを返す。

 万が一にも遅れないようにと、小走りで走るリリアがどこかの家の塀にさしかかった。

 直後、

 轟音が鳴り響いた。











「……………ぅ、ん」


 一体どのくらい気を失っていたのだろう? 目を覚ましたリリアが瓦礫の下から這い出したときには既に周囲の景色は一変していた。

 見慣れた町並みはどこにもなく、目の前に広がるのは強い衝撃で崩れ吹き飛んだ建物、青空を汚すように立ち上る煙に、そこかしこで倒れたまま動かない人々。彼らの体の下に広がる赤いものはきっと――――――――――。


「な、にが………?」


 訳が、分からなかった。

 気絶している間に誰かに連れ去られたのだろうか? 自分でも気づかないうちにおかしなところにでも足を踏み入れてしまったのだろうか?

 違う。

 そんな都合のいいことではないと、本当は分かっている。しかし、それでもリリアの頭は理解することを拒んでいた。

 認めない。認められない。認めたくない。

 理解してしまったら、認めてしまったら、もう二度と取り返しのつかないことになってしまう。そんな思いに駆られて、少女は必死に現状を否定する。

 その時、ふと頭をよぎったのは両親のことだった。

 そうだ、お父さんとお母さんならきっと何とかしてくれる。どうすればいいのか教えてくれる。助けてくれる。そう考えて、リリアは両親の待つ家へと向かう。体中がズキズキと痛むが、その程度のことを気にしてはいられない。何度も何度も足をふらつかせ、時には力が抜けて倒れ込もうとも、歩き続ける。

 動かなくなった人を避け、瓦礫で塞がった道を迂回し、とにかく前へと歩を進める。その間、リリアが両親の無事を考えることはなかった。何が起こったのかはまだ分からないが、自分だって助かったのだ。両親だって無事でないはずがない。だから、考える必要などないのだ。ただ合流することだけを考えろと自分に言い聞かせ続ける。

 ようやく家の近くにたどり着いたのは、本来ならとっくに到着しているであろう時間を大幅に過ぎた後だった。

 すぐそこの角を曲がればもう家が見えてくる。もう少し、もう少しだと自らを鼓舞し、震える膝に力を込めてゆっくりと、しかし着実に目的地へと近づいていく。

 そして、それを目にしたとき、どうして両親の無事を考えなかったのかをリリアは理解した。

 本当は、その疑念がずっと胸の中にあったのだろう。ただ、それを信じたくなくて、ずっと目を背けていただけだったのだ。


「あ……あぁ………」


 世界が傾く。違う。倒れたのだ。もはや、立ち上がる体力も気力も残っていない。

 少女の眼前に広がるもの。

 それは、ただの瓦礫の山と化したリリアの家だった。


「ああ、あああぁぁ!! ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


 違う。違う、違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!

 こんなのは現実じゃない。許されていいはずがない。これは悪い夢だ、そうに決まっている、そうでなくてはならない。

 なのに、喉が、手足が、体中が、紛れもない現実だと痛みによって証明してくる。


「お、母さん………お父、さん……」


 両親のことを呼びながら、かつて家だったものへと向かって必死に体を引きずるが、腹立たしいほどに上手く動かせない。焦り、悲しみ、怒り。様々な感情が頭と胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って、心だけでなく体まで蝕んでいく。

 爪が割れる。胃の中のものが逆流してくる。頭を殴られているかのように頭痛が続いている。それでも、前に進むことだけはやめなかった。もはや、自分の行動の意味さえ分からない。いや、もしかすると意味などなかったのかもしれない。ただただ、何かにすがりたかったのだろう。そして幼い彼女にとってのそれは、目の前の残骸の内側にあったはずのものだった。


「お母さん……お父さん……。お母さん!! お父さん!!」


 悲痛な叫びとともに、瓦礫の一つに手をかける。だが、一抱えほどもある岩塊を動かすことなどできるはずもなく、その行為はリリアの手のひらを傷つけるだけに終わってしまう。


「ふっ、ぅ、ぐうううぅぅ………」


 皮がむけ、血がにじむ。無駄だと分かっていても、力を込めることをやめられない。やめてしまえば諦めることになる。父と母の命を。自らの全てを。

 そんなのは嫌だ。だから、抗う。

 だだをこねるように、わがままを言うように。

 それを誰にはばかることがあろう? 大切な人の命を諦めるようなことはしたくない。リリアの心の中にあったのはその感情だけだった。

 例え、生きているのがどれほど絶望的だったとしても。

 しかし、非力な、それも心身ともに満身創痍の少女が手を尽くしたとして、一体どれほどのことができるというのか。

 限界は、思ったよりも早く来た。

 ふっ、と手から力が抜ける。バランスを崩した体は重力に従い後方へと引っ張られ、瓦礫がどんどん遠ざかる。そしてそのまま、受け身を取る暇もなく地面へと倒れ伏した。当然、意図した行動ではない。元々、疲弊した体を無理矢理に動かしていたのだ。そんなことが長続きするはずもなかった。

 まるで手足がどこか遠くへでも行ってしまったかのように感覚がない。自分の無力さがおかしくて、荒かった息が次第に「はっ、はっ」という断続的な笑いに変わっていく。

 いや、そうじゃない。

 見上げた空がぐにゃりと歪み、鼻の奥が独特の痛みを訴えた瞬間、それを自覚した。


(あ、だめだ)


 そう思ったのと、涙がこぼれたのは同時だった。

 雫は次から次へとあふれ、流れていく。泣き声をせき止めておくことも、もう不可能だった。リリアの意思とは無関係に、吐き出される息が喉を震わせていく。

 そしてそれは、

 リリアの心の中で、何か大切なものが折れた瞬間だった。











 瓦礫によって四角く切り取られた空を眺める。降りしきる雨は煤でも混じっているのか、いやにずず黒い。

 こんな景色を見るのも、今日で三日目になる。

 リリアは倒壊した家の内側にできた空洞の中で膝を抱えていた。ひとしきり泣きわめいた後、どうしていいのか分からずに呆然と周囲を徘徊していたときに偶然見つけた場所だった。

 普段であれば、いつ崩れるかも分からない、こんな危険な場所に入り込もうなどとは決して思わなかっただろう。だが、今は贅沢を言っていられるときではない。雨風をしのげるだけマシというものだ。それに何より、ここを離れるという選択肢はリリアにはなかった。他に行く当てなどなかったし、この瓦礫の下のどこかに両親が眠っている。そう思うと、どこか別の場所を探す気には到底なれなかった。

 何なら、このまま瓦礫の下敷きになってしまってもいいとさえ考えていた。そうすれば自分も両親のところへ行けるはずだ。むしろ、それを期待してのことだったのかもしれない。もう、生きることにも疲れ始めていた。

 たかだか三日。だが、この三日間はまさしく地獄と呼んで差し支えないものだった。

 少しでも歩けば嫌と言うほどたくさんの死体が目に入り、それらが放つ腐臭に何度吐き気を催したか分からない。わずかに生き残った人たちも幾人か見かけたが、誰も彼もが限られた食料を巡って争い、自らの空腹を満たすために平気で嘘をつき騙し合っていた。女が男を殴り、子どもが大人から食べ物を盗んでいく場面にも出くわした。


「…………………………」


 今までのことを思い出して嫌になる。人の悪い部分を一生分は見た気分だ。それは、まだ6歳の少女が「死んでしまった方が楽になれるのではないか」と世の中に失望するほど醜悪だった。

 では何故、家族を喪い、生きる希望をなくし、全てに絶望したにもかかわらず、今なおこうして生き続けているのか。きっと、たいした理由などない。単に自ら命を絶つ度胸がなかっただけなのだろう。

 あるいは、寝床にしているこの空間が原因なのかもしれない。何の因果か、そこはかつてリリアの部屋であった場所だった。面影などほとんど残っていないが、散らばる小物や本たちがそれを証明してくれている。その中には物心ついたときから書きためている日記帳もあった。今となっては家族とのつながりを確認できる唯一のもの。そんなものを見つけてしまったから、この場所がまだ平和だった頃を想起させるから、なんとなくで生き続けてしまっているに違いない。

 何にせよ、情け無いものだと自分の浅ましさに自嘲の笑いがこぼれてくる。目的もなく、無駄に生きながらえてどうなるというのか。


「……………ごはん」


 とはいえ死ぬことを選べない以上、どうあっても生きていくしかない。そして当然、生きていれば腹も減る。外へ出ることすら億劫だが、空腹が続くのも嫌だった。仕方なく、リリアはのそりとした動きで出口へと向かっていく。しかし、どこに行けば食べ物にありつけるかなど心当たりはない。もし食料が見つからなければ、そのときは泥か木の根でも食べようと考えていた。誰かを騙して飢えをしのぐくらいなら、そちらの方がずっといい。実際、既に何度か経験していたし、忌避感もとうにない。

 そうしてリリアが狭い穴の中を這っていると、ふと、外の様子がおかしいことに気がついた。何やらやけに騒がしい。今までも怒号や悲鳴が聞こえてきてはいたが、それらとは毛色が違っている。耳に届くのは誰かを励ますような力強さを感じさせるものや歓喜の声だ。

 予想外のことに思わず身構える。別に、よからぬことが起こっているわけではないだろう、とは思う。しかし、だとすれば外は一体どういう状況になっているのだろうか?

 何故、あんなにも明るい声が出る? 何故、あんなにも嬉しげにできる?

 外では、あれほど凄惨な光景が広がっているというのに。

 それ以上前に進むことがためらわれ、リリアはゆっくりと後ずさっていく。すぐそこにいるであろう何者か、もしくは何者かたちは少なくとも悪人のようには感じられない。

 だが、


(………信じられない)


 ここ数日の記憶が少女の心に影を落とす。どんなに優しそうな相手であっても、今の状況では簡単に信用してはいけないと痛いほど学んでいた。

 そして、それ以上に怖かったのだ。人間の悪意を見ることが。他人を嫌いになることが。


「……………ッ!」


 目を伏せ、唇をかみしめる。もういい、と諦観に身を委ね、暗い暗い穴の奥へと戻っていく。傷つくことを恐れ、心までをも闇の中に落とし込むように。

 そうして、全てを閉ざしてしまおうとした。

 その時、


「おや? そこに誰かいるのかい?」


「!!」


 びくりと肩が震える。心臓が早鐘のように鼓動を打つ。

 気づかれた。外からは完全に死角になっているにもかかわらず。

 出て行った方がいいのか。それとも、このまま隠れていた方がいいのか。それすらも判断できない。

 頭の中が真っ白になり、その場で固まるリリアをよそに、声の主らしき足音はどんどん近づいてくる。

 そして、頭上の瓦礫がこともなげに持ち上げられた。

 突然増えた光量にリリアはとっさに顔を背ける。ずっと暗がりにいたせいで、ずいぶんとまぶしく思えたが、それが決して目を焼くほどのものではないと分かると、彼女はそっとまぶたを開く。

 その先にいたのは、自らの服が汚れることもいとわず、リリアの無事に心からの安堵と喜びを向ける、穏やかな笑顔を浮かべた一人の男だった。


「やぁ、君はなかなかの恥ずかしがり屋さんみたいだね。………もう、大丈夫だよ」


 そう言うと、男は驚いて上手く言葉が出せないでいるリリアに優しく手を差し伸べる。

 それがハクミライト魔法学園理事長、カムラ・アルベルンとの出会いだった。

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