1-18 内緒の気持ち

 リリアは自分の置かれている状況にただただ困惑していた。

 目の前には赤い肉塊。そして、手には一本の刃物が握られている。

 血が滴りそうなほどに新鮮なこれを今から切り裂かねばならないのだが、そんなことは生まれてこのかたした試しがない。

 あまり時間をかけていられないのも理解してはいるが、戸惑いを隠すことはできず、はた目にもどうしていいのか分からず動揺していることが見て取れる。


「おい、早くしろよ」


 棒立ちしたまま固まっているリリアに横合いから少し不機嫌そうな声がかけられた。相変わらず仏頂面をした日々也のものだ。

 リリアと同じく右手に刃物を持っているが、その動きには一切の躊躇がなく、慣れた手つきで眼前の物を切り刻んでいく。

 覚悟を決めなくてはいけない。

 リリアは生唾を飲み込むと、ゆっくりと深呼吸をして心を落ち着かせる。そして、目の前の物体に突き立てるために改めて刃物をしっかり握り直し、腕を振り上げ………………、


「だーかーらー、そうじゃないって言ってるだろ。包丁と食材の持ち方はだな……」


「ひゃあぁっ!?」


 ようとして、代わりに悲鳴が上がった。

 何度教えても料理どころか包丁の握り方すら覚えられないリリアに業を煮やした日々也が後ろから両手を握ったからだ。

 突然のことに驚き、掴まれた手を振りほどこうとリリアが暴れだす。


「わっ!? わわわ!? ヒ、ヒビヤさん!? 急に何するんですか!? は、放して! 放してください!!」


「うおっ!? ま、待て!! 落ち着け!! 腕下ろせ、包丁置け! 刺さる! 包丁が刺さる!!」


 そのまま、しばらくは取っ組み合いを続けていた二人だったが、リリアの頭にげんこつが落ちるまでに、そう時間はかからなかった。

 リリアが殴られた場所を押さえながら台所の床にへたり込み、日々也も無駄に体力を使ってしまったために、壁に背中を預けてその場に腰を下ろす。


「うぅ~。な、なにも思いっきり殴らなくてもいいじゃないですかぁ」


「刃物を持った状態で暴れるお前が悪い」


「ヒビヤさんがいきなり手を握ってくるからですよ!」


「あ~、それについては謝る。明日香に料理を教えてたときの癖でつい、な。それより、授業で調理実習くらいあっただろ? 何で包丁すらまともに扱えないんだよ?」


「あったんですけど、危ないからってまともに触らせてもらえなかったんですよ」


 そう言って、不満そうにリリアが頬を膨らませる。しかし、それはきっと正しい判断だっただろうと日々也は思う。何せ、ついさっきリリアに包丁を渡したところ、逆手で持ったり両手で持とうとしたりして一悶着あったほどなのだ。

 授業という限られた時間の中で料理を作りながらではまともに教えられるはずがない。もし手伝わせていようものなら指先を少し切ってしまった、では済まなかったかもしれない。


「だからってここまでとはなぁ……明日香だってもうちょっとマシだったぞ」


「そ、そういう人だっているんですよ。それより、昨日も言ってましたけど、ヒビヤさんって妹さんがいるんですよね。どんな人なんですか?」


「ん~、どんな人…か」


 リリアの質問に日々也は天井を見上げて、しばしの間、黙考する。


「そうだな、真面目でいい妹だよ。気立てもよければ器量もいい。最近は料理の腕も上達してきたし、それに勉強も得意で気さくで気が利いてて、誰にでも分け隔てなく接するから人気者だけど、ちょっと、ぽわんとしてると言うか気の抜けてる所があるって言うか、まぁ、それもまた可愛くはあるんだがやっぱり兄としては悪い虫が寄ってくるんじゃないかと気が気じゃなくてだな……」


「わ、分かりました! 分かりましたからもういいですヒビヤさん!!」


 軽い気持ちで聞いた途端、出会ってから一度も見せたことがないくらいの生き生きとした表情で自分の妹のことを語りだした日々也をリリアは必死の思いで制止した。

 そんなリリアの言葉に日々也は残念そうにしながら、


「なんだ、もういいのか? あと少なくとも三十分は言いたいことがあったんだけどな。………遠慮しなくてもいいんだぞ?」


「いえ、もう本当に勘弁してください。夕食前なのにお腹いっぱいですよ」


 きっと放っておいたら三十分どころかいつまでも際限なく話し続けるに違いない。冗談交じりに日々也の提案を丁重にお断りしつつ、リリアは人差し指を立てて忠告する。


「それから。妹さんが大切なのは分かりますけど、あんまりその話ばっかりしてるとみんなからシスコンって呼ばれちゃいますよ?」


「周りからなんて言われようと関係ないだろ。僕はただ妹が大事だって事実を言ってるだけなんだからな」


「……え、ええっと、ほ、本当に妹さんのことが好きなんですね。ヒビヤさんは」


 さも当然のことのように答える日々也に流石のリリアも若干引いてしまう。

 だが、日々也はそんなリリアを気にも留めずに立ち上がると、まな板の上の食材に向き直った。


「そりゃあ、まぁ、僕にとってはたった一人の家族だからな。そんなことより、さっさと続き始めるぞ」


「………え?」


 そして、そんな重い身の上話をさらりと言ってのけた。

 突然のカミングアウトにリリアの口から思わず間の抜けた声がこぼれる。


「え? じゃない。夕飯食べたくないのか?」


「い、いえ、そっちじゃなくてですね……」


「じゃあ、何だって言うんだよ?」


「だ、だから、あのですね……ええと、あの…うぅ?」


 色々と言いたいことはあったが、どこからつっこめばいいのか分からず変なうめき声だけが出た。本来なら気の利いた一言でもかけるべき場面だというのに日々也の見当違いな発言のせいで頭がこんがらがって、騒ぎ立てている自分の方がおかしいのかとさえ思えてくる。


「その、たった一人の家族っていうのは………ご両親…とかは……?」


「あぁ、そのことか」


 それでも、なんとか疑問を言葉にする。それに対する日々也の態度はあまりにも淡泊なものだった。


「父さんも母さんもいない。5年前に事故にあってな」


 まるで、何でもないことのように言ってのける。そこには特にこれといった感情はこもっていない。

 哀愁も哀悼もなく、今日の天気の話をするのと同じで事実を伝えるだけのセリフだった。


「辛く…ないんですか?」


「辛くなくはないな。でも、いちいち気にしてても仕方ないだろ。そんな暇があるなら明日香のためになることをした方がよっぽどマシだしな」


 そこまで聞いて、ようやくリリアは理解した。

 いなくなった両親の代わりに妹の面倒を見続ける。

 結局は日々也にとってそれが全てなのだ。

 しきりに元の世界に戻りたがっているのも、こうやって妹のことばかり口にしているのも、そこに起因しているに違いない。

 こうして話している間も手際よく料理をしていくのだって、きっと妹のために磨いたスキルなのだろう。今朝方、日々也がやたら早く起きて朝ごはんを作っていたのも普段からそういった生活をしているからだと分かる。

 妹のことを想って親代わりを務める。確かにそれだけ聞けば美談なのかもしれない。美しい兄妹愛だと言う人もいるだろう。

 だが、


(ヒビヤさん自身は……どうなんだろう?)


 ふと、そんな考えが頭をよぎった。

 別に日々也の生き方を否定しているわけではない。

 本人は満足しているのだし、彼の自慢の妹が本当にいい人物だというのも態度から伝わってくる。そうでなければ、ここまで献身的にはなれないだろう。

 だからこそ、不安になる。

 両親を失ったのは日々也も同じことなのだ。しかし、兄妹で支えあって生きていくことはできても、二人ともが親代わりになることはできない。

 それならば、

 日々也にはそういった人物がいたのだろうか?

 考えても仕方がないのに、どうしてもそんなことを邪推してしまう。

 それにはちょっとした理由があった。リリアが日々也に対して抱いている、とある特別な想い。ユノが期待していた感情とは異なっているが、リリアにとってはそれ以上に大切なものであり、ともすれば召喚魔法を使う人間なら誰しもが抱いているかもしれない感情。その感情が、日々也のほんの些細な一言にも過敏に反応してしまうのだ。


「あ、あの……」


「言っておくけど、そのことでお前が気を遣う必要はないからな。そういうのは苦手だし」


 自分の心に急かされるように何かを口にしかけたリリアだったが、日々也に先手を打たれ、言葉に詰まる。そのまましばらく視線をさまよわせるも、結局、何も言えずにうつむくしかなかった。


「それより、早く立てって。いつまでたってもご飯が食べられないぞ?」


 じっと座り込み、動こうとしないリリアに日々也が手を差し伸べる。昨日とは違って、意外にも優しい態度に少しばかり驚きつつその手を取ると、リリアはようやく一言だけ絞り出した。


「……ヒビヤさんは、やっぱり、元の世界に早く帰りたいですよ…ね」


「いまさらだな。ずっとそう言ってるだろ?」


「そ、そうですよね。ごめんなさい、変なこと聞いちゃって」


 乾いた笑いと共に「忘れてください」とだけ言って、立ち上がる。

 リリアのよく分からない言動に、日々也はほんのわずかに訝しげな表情をしただけで料理へと意識を戻した。その反応に、少しだけ感じた寂しさをそっと胸の奥にしまい込んで、リリアは日々也の隣に並んだ。


「ええっと、それで、何をどうすればいいんでしたっけ?」


「ん~? その牛肉を適当な大きさにだな……って、だから包丁! 持ち方!」


「え? あ~、えっと………あ、あれ?」


「ったく、しょうがないな……いいか? ちょっと手に触るけど、じっとしてろよ? 絶対動くなよ?」


「それはアレですか? フリってやつですか?」


「言っておくけど、次は容赦しないからな」


「ご、ごめんなさい……」


 鬼の形相で睨まれ、しょげ返るリリアをよそに日々也は指導しながらテキパキと料理を進めていく。普段以上の時間がかかったものの、程なくして無事に夕食は出来上がった。完成した物から順にリリアが配膳していく。

 どうやら日々也の料理はリリアに大分気に入られたらしく、盛り付けをする横で待ち遠しそうに待機している様子はお預けを食らった犬を彷彿とさせた。


「しかし、まぁ、思ったよりは見栄え良くできたな」


「ふふん。手は切りませんでしたし、焦がしもしませんでしたからね!」


「かなり危なかったけどな」


 得意げなリリアを一蹴し、背後のベッドを背もたれ代わりに席に着く。

 そんな日々也の対面に一足先に座っていたリリアは、手を合わせて食事前の挨拶をしようとしたところで、


「ヒビヤさん? どうかしましたか?」


 じっと、日々也に見つめられていることに気が付いた。


「んー、いや、大したことじゃないんだけどな」


 他意はなく、本当にどうでもよさそうな態度をとりながら日々也は目を細め、口にする。


「お前さ、もしかして僕に帰ってほしくないって思ってないか?」


「ッ!!」


 どきり、とリリアの心臓が跳ねた。

 責められているのではない。

 純粋に疑問に思っている。ただ、それだけだ。

 それでも、少年のまっすぐな視線に耐えられず、無意識のうちに目をそらしてしまう。

 その反応が何よりも雄弁にリリアの心の内を語っていた。


「……ど、どうして、そう思うんですか?」


 震える手をぎゅっと握りしめ、聞き返す。浮かべた笑顔はリリア本人にも分かってしまう程に引きつっていた。

 誤魔化せているはずがない。それどころか、こんな質問をしてきている時点で感づいているはずだ。

 だが、それを口に出してしまうのは自分の不誠実さを認めてしまう気がして、そして何より、日々也に失礼な気がしてはばかられた。


「どうしてって言われても、特に理由はないんだけどな。まぁ、何となく聞いてみただけだから気にしないでくれ。それより、冷めないうちに晩ご飯食べないとな」


「そ、そうですね。いただきます」


 今度こそ挨拶をして食事にありつく。

 こっそりと日々也の表情をうかがってみたが、いつもと変わらない様子で、そこから何かを読み取ることはできない。

 少なくとも、嫌われたわけではない。

 その事実にリリアは安心し、打算的な自分に、少し嫌気がさした。

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