第5話(2)

 ***


 星奈のバイト先であるお好み焼き屋「トントン」は、大学の近くの飲食店が多く立ち並ぶ通りにある。

 運動部の元気な学生たちを相手にした揚げ物メインの定食屋、創作料理が楽しめる居酒屋、ナン食べ放題を売りにした本格カレー屋、古き良き時代を感じさせる純喫茶という並びにある、学生とご近所さんたちによって支えられている店だ。


「もう少しで着くからね。……この匂い、嗅ぐの久しぶりだな」


 家を出て十分ほど歩いて、目的の通りに出た。それぞれの食べ物屋からただよってくる匂いが混じり合い、独特の匂いになっている。


「すんごく『食べ物!!』って匂いがするんだけど、エイジはわかる?」


 そういえば家でお好み焼きをしたときも幸香にカレーを作ってもらったときも、エイジはあまり反応しなかったことを思い出した。匂いは感じているのだろうかと、ふと気になる。


「匂いか。何となく雰囲気ではわかる」

「雰囲気か。この匂いはね、お腹が空いているときに嗅いだら空腹が刺激されちゃうし、体調が悪いときに嗅ぐと気分が悪くなっちゃうんだ。覚えておくと、何かのためになるかも」


 言いながら星奈は「お好み焼き屋トントン」と白く染め抜かれた紺地の暖簾のれんをくぐった。


「いらっしゃいませ……って、牧村さんか。待ってたよ」


 店に入ると、カウンターの向こうからガタイのいい男性に声をかけられた。店長の前川だ。物腰の柔らかいマッチョ紳士の前川に、星奈は頭を下げた。


「お疲れ様です。ご無沙汰してます。長い間、お休みをいただいてしまって……」

「いいよいいよ。奥、入って」


 前川はエイジのほうを見て、ほんの一瞬悲しそうな顔をした。でもすぐに表情を消して、厨房兼休憩室を手振りで示した。促されるまま、星奈はエイジを伴って奥へと進んだ。


「サチ、お疲れ様」


 奥へ行くと、休憩地だったらしい幸香の姿があった。


「来たんだ! よしよし。エイジも今日からよろしく」

「よろしく」


 黒のポロシャツに前掛けという店のユニフォーム姿の幸香は、星奈とエイジを見てにっこりした。その得意げな顔は、無事に店長の前川に話を通したことを褒めてと言いたいのだろう。


「サチ、ありがとね」

「えへへ。どういたしまして」


 幸香が両手でピースして調子に乗っているところに、遅れて前川がやってきた。


「平田さん、代わりに店に出ててくれるか。アイドルタイムだから、平気だとは思うが」

「お好み焼き屋でアイドルタイムって……普通に暇って言えばいいのに。あと、平田さんっていうのやめてよー」

「今は仕事中だ。行ってこい」

「はーい」


 じゃれつく幸香を軽くあしらいつつもちょっぴり甘い雰囲気をかもし出す前川に、星奈は目を丸くした。星奈が引きこもっている間に、本当に二人は付き合うようになっているらしい。


「じゃあ今から、ちょっと話をしようか。適当に座って」

「はい」


 甘い空気を出したのはほんの一瞬で、前川はすぐに表情を引き締めた。これから真面目な話をするのだとわかって、星奈は姿勢よく椅子に腰かけた。


「君はエイジくん、だったね」

「はい」

「瑛一くんではない?」

「はい」


 何を言い出すのかと思えば、前川がまず口にしたのは、そんな質問だった。マッチョで顔が厳ついぶん、真面目な表情をすると怖く見える。でも、エイジの返事を聞いてその表情はすぐに和らいだ。


「そうか。それならいいんだ。頭ではわかっているんだが、幸香から君が瑛一くんによく似ていると聞かされていたから、もしかしたら瑛一くんが何らかの方法でこちらに留まっているんじゃないかとか、戻ってきたんじゃないかとか、そんなことを考えてしまったんだ。いい大人なのに、現実的じゃないことを言ってるよな。牧村さんに付き添って、葬儀にも参列したのに……」


 前川が目頭を押さえるのを見て、星奈はこの人も瑛一の死を悼んでくれているのを思い出した。  

 瑛一の葬儀は、彼の地元で行われた。電車や新幹線を使えば数時間で着く距離だったけれど、道中で何かあってはいけないからと、前川は店を休んで車を出してくれたのだ。

 食事も飲み物も摂りたがらない星奈を幸香と一緒になだめてくれたし、葬儀に参列すると静かに涙を流してくれていた。

 悲しみの淵に沈み込んでいる星奈を何とかすくい上げようと、帰りの車の中では生前の瑛一と交わした言葉をポツポツ聞かせてくれた。

 星奈のバイト終わりにたまに迎えに来てくれていた瑛一は、星奈を待つ間に前川と話すことが度々あったのだという。前川も店休日にはバイクに乗るということで、二人は話が合ったらしい。

 ただそれだけのつながりだ。

 それでも、星奈はここにも自分のほかに瑛一の死を悼んでくれる人がいるということに、少しだけ救われる思いだった。


「幸香があんまり似てるって言うもんだから構えてたんだけど、似てなくてよかったよ。これが本当に瑛一くんに似てたり、瑛一くんの幽霊とかだったりしたら、たぶん私はエイジくんの受け入れには反対しただろうから。モニターもやめるよう、忠告したかもしれない」


 前川はどこか安堵したように、でも寂しそうに言う。

 反対される可能性は考えていなかったから、星奈はその言葉にショックを受けた。


「どうしてですか?」

「立ち直って欲しいからだよ。牧村さんは生きてるんだから、きちんと立ち直って欲しいんだ。もし、瑛一くんと重ねてしまう存在や瑛一くんの幽霊がそばにいたら牧村さんが前を向く足枷になるかもしれないから、反対したよ。身近な大人としてね。もうこれ以上、自分より若い子が傷ついたり苦しんだりするのは、見たくないんだ」

「そうですね……」


 前川に言われて、星奈は幸香だけでなくこのひとにも多大な心配をかけてしまっていたことを自覚した。

 星奈は瑛一の死に深く傷ついているけれど、星奈が傷ついたままだと周囲の優しい人たちも心配し、傷つくのだ。そのことに気がついて、星奈の胸はかすかに軋むように痛んだ。痛みながらも、言葉を紡ぐ。


「わかってます、ちゃんと。瑛一は死んでしまったって」

「そうだね。瑛一くんのことは、私もとても残念に思う。牧村さん、大変だったね」


 前川は立ち上がると、涙をこらえる星奈の頭をポンポンと撫でた。

 大きな手だ。大きくて優しい手。

 過剰に憐れむことなく、ただ星奈の痛みを受け止めてくれた優しさに、星奈は感謝した。


「まあ何はともあれ、エイジくんはエイジくんというわけだから、無事採用というわけで」

「ありがとうございます。でもたぶん、エイジには接客とか給仕は難しいかもしれません。こう見えて、ロボットですし……」

「わかってるよ。その皮膚もシリコンとかだろ? 鉄板の熱とか油はねで傷んだら大変だから、彼には裏方仕事を任せるつもりだよ。キャベツを運んだり、切ったりはできるよね?」

「大丈夫です。ね?」

「なら、任せよう」


 星奈とエイジが頷きあっているのを見て、前川も大きく頷いた。

 それから星奈たちはエイジにバイトの細かな決まりやコツを教えたり、他のバイトの人たちにどうエイジのことを紹介するか相談したりした。

 エイジがどの程度のことができるロボットなのかわかっていない前川は、「エイジくん、明日の天気を教えて」などと幸香のようにスマートスピーカー扱いをして星奈を笑わせた。


「エイジ、留学生だってさー。どこの?って感じだけど、これで表情の硬さや言葉数の少なさをカバーできるかな」

 

 帰り道、ほっとしたのと前川がエイジのために考えた設定がおかしくて、星奈は笑っていた。

 すっかり日は暮れて、通りに並ぶそれぞれの店は夜の営業に向けて電飾看板や提灯に灯りをともしている。ほの暗い通りにそれらの灯りが浮かび上がると、昼間とはすっかり雰囲気が変わる。

 かつては見慣れていたそれらの景色も、久しぶりに見ると何だか非日常だ。その非日常の中を、星奈はふわふわとした足取りで歩く。


「セナ」


 少し後ろを歩いているエイジが、星奈を呼ぶ。けれど星奈はケラケラと笑うだけで、振り返らない。


「セナ!」


 エイジが腕を引いて立ち止まらせると、ようやく振り返った。


「エイジ、どうしたの?」


 気持ちよく笑っていたのにそうして呼び止められ、星奈はキョトンとした。


「どうしたの、じゃない。様子が変だ」

「変じゃないよ。……変かも」


 それまでずっと笑っていたのに、不意に星奈の目からポロリと涙がこぼれた。そのことに気がつくと、涙は次から次へと溢れた。


「……元気にならなきゃって思って。笑ってたら元気になるかなあって、思ったんだけどな……」


 悲しみを感じているわけではないのに、涙はどんどん溢れてきて、瞬きするたびハタハタとこぼれて地面を濡らしていく。


「無理、しなくていい」

「そんなつもりじゃなかったんだけど。ただ……心配させたくなくて……」

「そうだな」


 エイジは一歩星奈に近づくと、星奈の頭におもむろに手を置いた。それから、その手をぎこちなく動かし、ポンポンと撫でるような動作をした。


「ゆっくりでいいと思う。幸香も店長も、急かしてるわけじゃないんだ、たぶん」


 たどたどしく、拙く、エイジは言葉を発する。でもそれは思いやりに満ちていて、より一層星奈の目から涙は溢れてきた。


「……ごめんなさい」


 絞り出すような謝罪の言葉に、エイジは首を傾げる。


「何が?」

「……店長はだめって言ってたけど、私たぶん、エイジに瑛一を重ねてると思う。自分でもいけないなって、わかってるのに……」


 それは星奈にとって、まるで罪の告白だった。

 モニターを引き受けた時点で、もうだめだった。エイジと名をつけた時点で。

 それなのに、自分の中でいろいろと言い訳をして、エイジをそばに置くことを正当化し、瑛一のこととは関係ないようなふりをしていたのだ。

 瑛一の死がなければ、引き受けることなどなかっただろうに。

 前川の言葉は、星奈にそのことを気づかせた。


「悪くないと、俺は思う。立ち直り方なんて、人それぞれだから」


 ぎこちなく撫でながらエイジは言う。でも、言葉は淀みなかった。


「傷ついてるセナのところにたまたま俺が来て、その俺の存在によってセナがたまたま立ち直ろうとしてるだけだ。そのことは、悪いことなわけがない」

「……たまたま?」 

「そう。たまたまだ」


 そっと顔を上げて見つめる星奈に、エイジは柔らかな表情を浮かべて見せた。これはきっと、エイジのとびきりの笑顔だ。人間が大切な人をいたわったり励ましたりするときに浮かべる、優しい笑顔だ。


「ずっとは一緒にいられないけど、モニターをしてくれる期間中は、俺の存在で少しでもセナが立ち直ってくれればいいと思う」

「瑛一の存在に重ねられても、迷惑じゃない?」


 エイジの優しい言葉に、星奈は嬉しく思うと同時に不安になる。期間限定なのに、エイジにもたれかかってしまっても大丈夫なのだろうかと。ロボットとはいえ、誰かの存在を重ねられることに傷つきはしないだろうかと。

 でも、エイジは首を横に振って、それからまた笑ってくれた。


「別にいい。でも、店長には内緒にしよう」

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