第2話 悪足掻きの恋
大学在学中、男と女、一人ずつと付き合った。けれどどちらとも長続きはせず、セクシャルな関係に至る前に破綻した。
どうやら私はそもそも誰かをまともに愛することが出来ないらしい、と気付いた頃には社会人になり、両利きになっていた。
理由は、鏡の中に映る人間が左利きに見えるのが嫌だったから。
重症だと、自分でも分かっていた。
だからこそ、いい加減忘れたふりをして、老後のことや孤独死のこと、定年までこの会社で働くかどうかでも考えた方がいい。
そうやって、淡々とろくな人間関係も作れないまま社会人としての生活にも慣れ、自宅の庭の桜から逃げるように独り暮らしを始めて、しばらくした頃。
私は、会ってしまった。
「ぴょんぴょん?」
少し幼さを残した、けれど確かに落ち着きを感じさせる声が、私を呼ぶ。社会人になってから、誰からも呼ばれなくなった名前を。あの日から、呼ばれることを拒否した名前を。
「
「…………」
三年目の社員研修の帰りだった。駅からバス停に向かって歩いていた私は、横合いからかけられたその声に、固まった。左耳が、駆け寄ってくるパンプスの甲高い靴音を拾う。
振り向かない方がいいと、分かっていた。
けれど、
「!」
「あ、この匂い、まだ使ってたの?」
懐かしい、そして今となっては私自身の匂いになったグリーンアップルが、すぐ近くで香ったから。
「……うん」
振り向かずにはいられなかった。二十歳を超えて一段と低くなった声で頷いてから、左側をゆっくりと見る。心臓が、濁流に翻弄されるようにどくどくと脈打つ。
「……
高校の時と変わらない、私よりも拳一つ分低い位置に、忘れられない顔があった。
あれから七年も経ったのに相変わらずきめ細かな白い肌も、くりくりと大きな瞳もぷっくりと艶めく唇も、控えめな化粧で彩られているけれど、何も変わっていない。
高校の時よりも明るくなった髪色は少し長めのセミロングになって、毛先は寝癖とは違う規則的なウェーブで可愛らしく巻かれてある。
同じ年とはとても思えない、けれどきちんと大人の女性らしさがある都兎の姿に、胸が勝手に高鳴った。それが先程の緊張とは明らかに別種のものだと、私はすぐに理解した。
私を嬉しそうに見上げる都兎の目も頬も唇もきらきらと煌めいて見えるのが、ラメのせいなのか青春時代が持つ特殊効果のせいなのかも分からない。
重症だ。
胸も呼吸も苦しくて、頭の芯がじんじん脈打つ。一言頷いたきり黙ってしまった私を、都兎が左手で横髪を耳にかけながら覗き込んで、「えへへっ」とまた笑う。
その瞬間の多幸感は、軽く衝撃的だった。体中に電撃が走ったと言っても過言ではない。
こんなものをよく今まで我慢できていたものだと、高校時代の自分にびっくりする。
「すごい偶然だね。めちゃんこ大人っぽくなってたから、一瞬璃桜だって分からなかったよ。気付いて良かったぁ」
「…………」
都兎からしてみれば、ある日突然無視されるようになったはずなのに、都兎はあの頃と何も変わらない笑顔を向けて喜んでくれる。それだけで胸が痛い程脈打って、都兎の何もかもが私の体を熱くした。
嬉しい嬉しいと、私の心臓が、指先が、瞳が、髪の毛一本までもが、全力で叫んでいる。それに抗うことが出来なくて、結局自分で作ったはずの不可侵の距離も壁も忘れて、また「うん」と頷いてしまった。
「都兎も……、とっても綺麗になってて、びっくりした」
「そう? 璃桜に言われると、なんか照れるな」
ニヒッ、と都兎が先ほどよりも少し幼い雰囲気で笑う。それだけで、七年の空白が一気に吹き飛んだ。
周囲の景色が、一瞬で駅前のビル街から懐かしい高校の廊下に置き換わり、目の前の女性までもが、化粧気のなかった愛らしい少女に戻る。十七歳の都兎が、屈託なく笑いかける。それだけで、私まであの頃に戻ったかのように、目の前の女性に手を伸ばしかけて、
「そのスーツ、会社の帰りか何か?」
「!」
都兎の台詞が、一気に私を現在に引き戻した。
そうだ。ここは高校ではないし、私達は高校二年生でもない。私は誰ともまともに付き合えない社会性の欠如した社会人で、都兎は私とは一切関係のない場所で働く普通の大人の女性だ。
その笑顔に戸惑いやしこりはなく、だからこそ余計に、都兎にとってあの頃のことはその程度だったのだと言われている気がした。
だからこそ、私も冷静を装わなければならない。
「そう。今日、本社で研修があって……」
「会社戻るの?」
「いや、今日はもう帰って、明日提出するレポートをまとめないといけないから」
「じゃあ明日もうちの前通る?」
うち、と言われて、私はやっと都兎が現れた背後の建物を見た。そこには、どの駅前にも大概あるような有名チェーン店のカフェがあった。そして都兎は、そこのウエイトレスの制服に身を包んでいた。
「そっか。都兎はここで働いてるんだっけ……」
思い出したように、口の中で小さく独りごちる。
そう、ここで働いていることを、私は知っていた。知っていたから、ずっと駅のこちら側には来ないようにしていたのに。
昨日から三日間の研修が始まって、車ではなくバスを使うことになって。ずっと忌避していたここを、通る機会ができてしまって。
「そうそう。基本平日は私お店にいるから」
……それも、知ってる。仕込みと開店準備で八時からいることも多く、一番混む夕方から夜までずっと笑顔でくるくる働いていることも。
けれどそれらを一切顔には出さず、私は平気で嘘を吐いた。
「明日は最終日で、多分遅くなるから」
本当は研修が定時をわることはまずないと分かっていた。けれどそう言わなければ、私は自分の欲望にあっさり負けていただろう。
都兎は、昔のことなど一切気にせず、友人として久しぶりの再会を喜んでくれているはずだ。けれど私のこの胸が煩いのは、決して同じ理由ではない。愛情が欠落した人間だとすら思っていた自分のあまりの執着ぶりに、自分自身ですら背筋が寒くなるほどなのだから。
けれどそんな私の逃げを台無しにするように、都兎は笑った。
「大丈夫! 明日は金曜日で、遅番だから」
「でも、忙しい時間が長くなるでしょ?」
「少しね。でも多少融通は利くから」
ね、と都兎が私の腕を取る。その頼み方は、高校の時に服を買いに行って、お揃いにしようと言った時と全く同じ顔で、私はぐらりと眩暈がした。
一瞬のうちにあの頃の楽しかった思い出と好きで好きで仕方なかった気持ちが蘇ってきて、たったそれだけのことで、ごめん、の一言が言えなくなる。
「…………わ、」
分かった、と言おうとして、泳いだ視線の中に都兎の左手が見えて、止まる。左手の、薬指に光る、その小さな石は。
「……分からないよ、明日のことは」
絞り出した言葉は、冷たく掠れていた。
そのはずなのに、都兎は「そっかぁ」と笑った。
「お互い勤め人はつらいねぇ。引き留めてごめんね。また明日ね」
パッと取っていた腕を放し、ひらひらと手を振る。私は都兎の目をまっすぐ見られないまま、逃げるように――否、まさしく逃げるために、その場から駆け出した。
◆
同じ過ちは、繰り返したくなかった。
しかもあの頃とは違い、今はもう最初から相手にならない。彼女は私と一緒にいるよりも、どこの誰とも知らない、ただの男と一緒になった方が確実に幸せで、何より普通だ。
だって、左手の薬指に指輪を受け取るというのは、つまりそういうことでしょ?
ちゃんと、頭では分かっている。けれど気付けば、翌日もあの店の前にいた。
定時で終わった研修のあと、本社の方の駅前で散々時間を潰して食事も済ませ、帰ってきたあとだった。都兎のいる店を見てしまえば、とても抗うことなどできなかった。
「…………」
そっと、店内からは見えない位置で中を覗き込む。
少し暗めの照明の下、控えめのアジアンテイストでまとめられたインテリアの中には、まだ七割ほどの客が入っていた。二人ほどのウエイトレスが忙しそうに狭い通路を行き交っている。だがその中に求める姿は見当たらなかった。時計を見れば、夜八時を回っている。
流石に帰ったか、と視線を外そうとした時、
「ぴょんぴょん!」
「っ!」
出し抜けに背後から両肩を掴まれた。
「都兎!」
反射的に振り向く。と、驚くほどの至近距離に都兎が立っていた。私服だ。
「探した?」
「……待ってたの?」
「ん? いま丁度着替えてたところだよ」
にっ、と笑う都兎からは、待ちわびたプレゼントを開ける子供のような喜びしか感じない。私の葛藤なんて、まるで無意味だと思わせられる。
「もう帰れる?」
「うん。……都兎は?」
「私も今上がったところ。ね、一緒にご飯食べていかない?」
「ごめん、ご飯はもう食べたから」
「えーっ、残念」
心底悲しそうに、都兎が綺麗に整えた眉尻を下げる。
ここが切り時だ、と思った。
一晩寝ても、一日研修で頭を使っても、都兎のことが頭から離れなかった。これ以上一緒にいては、離れられなくなるばかりだ。
今日は何としても振り切らなければと、私は最初から用意していた言葉を口にする。
「じゃあ、帰るから」
「じゃあ、デザートは?」
内容は真逆のはずなのに、「じゃあ」だけが完璧に被った。思わず、二人同時に目を丸くする。そして、ついに笑ってしまった。
「「シンクロ!」」
また二人の声が揃って、弾けるように笑う。
高校の時は、こんなことが何度もあった。そしてその度に、こうやって笑いあった。
互いの声が重なり合うたびに、二人の心までもが重なれたような気がしていた。誰にも見せたことのない心のうちを、お互いだけが気付いて触れて、理解できたような気がして。その度に、完全に別の人間の、私とはまるで違う明るく輝いている都兎に、少しでも近付けた気がしていた。
「デザートはまだでしょ? 私はご飯で、璃桜はデザート、一緒しよ?」
強引にジュースを買いに行った時のように、都兎が誘う。拒めるほど、この妄執が優しいわけはないことなど、分かりきっていた。
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