映し鏡の恋
仕黒 頓(緋目 稔)
第1話 左利きの恋
人生で初めてできた彼女は、左利きだった。
高二の夏だった。
梅雨終わりの肌にまとわりつく湿気と熱気を疎んで、私たちはいつも図書館に逃げ込んでいた。一番端の、棚に隠れる席で、向かい合わせで座っていた。同じ方の手が動くから、まるで鏡みたいね、というと、おどけて私の動きを真似してみせたりした。
私たちは、二人で一つ。
本当に、そんな気持ちだった。
周りには秘密だった。
決して誰にも気付かれないよう、教室では常に友達らしい距離感を意識した。他の女友達と同じように接し、時に手を繋ぎ、レズかと冗談を言われれば、笑って「羨ましーだろ」と返した。
半分演技で、半分は本心だった。
その反面、他の女の子と触れ合うのは、酷く緊張した。
自分がおかしいという自覚がある分、胸を触ったりスカートをめくったりする冗談をどこまで嫌がればいいのかも分からなかった。同性を好きだと知られれば、きっと気持ち悪がられる、と考える以上に、彼女以外に触られることこそが不愉快だった。
そんな時、いつも彼女のことを考えた。
彼女の方が私よりも社交的で、女友達も多かったから、こんな時どんな気持ちでいるんだろう、と考えた。そして、無駄だと承知しながら嫉妬した。
「
弁当も食べ終わり、冗談を言い合いながら片付ける友達をぼうっと眺めていたら、突然名前を呼ばれた。ハッと正気に戻り、正面に座っていた少女の顔に焦点を合わせる。
「
「何考えてたの? こわーい顔してたよ」
少し垂れ気味の目尻に当てた指をぐいーっと持ち上げながら、少女が言う。その顔には笑わせようとおどけた調子の中に少しの心配が混ざっていたけれど、他の二人の友達の視線も集まり、私は無表情を決め込んでいつもの台詞を返した。
「ひらひらのお腹がまた一センチ大きくなったようだと観測していた」
「うっさいぴょんぴょん」
ごん、と小さな拳で頭を小突かれた。ふざける時はいつも、都兎の名字の
比較的感情の起伏が小さい私と、喜怒哀楽の豊かな都兎。からかわれるのはいつも都兎で、それを見てトモとマコが笑う。いつものやり取りだった。
「璃桜の観察眼って意外と侮れないんだよね」
「都兎ホントにまた太ったんじゃない?」
「二人ともうっさい! 私は太りやすい体質なだけなのっ」
「あ、否定しないんだ」
「こりゃマジだな」
三人で騒ぐのを横目に、私も包み直した弁当箱を鞄にしまう。さて午後イチの授業は、と考えた時、ぐぇっ、と肉付きのいい腕で首を絞められた。
「全くキミたちは! ぴょんぴょんが糖分不足な顔してるから、甘い物買ってくるぞっ」
「え」
そんな顔してない。と反論する前に、ぐっと腕に力を込められ、椅子から立ち上がる羽目になっていた。ほぼ拉致な私を、しかし傍観者二人は、
「私アップルティーね」
「レモネードよろ」
と言ってあっさり見捨てた。
「うらぎりものぉー」
いつの間に私の財布を持ったのか、都兎が足取りも軽やかに階段に向かう。相変わらず、私に拒否権はなかった。
「何するー?」
「甘酒」
いつもの通り答えたあと、けほっ、と咳が漏れた。
「苦しかった?」
自販機をがちゃんがちゃん言わせながら、都兎が聞く。トモとマコのリクエストの缶ジュースを受け取りながら、私は「別に」と答えた。
「ごめんね。なんか急に璃桜と二人きりになりたくなっちゃって」
今度は自分たちの分を手に取りながら、都兎が屈託なく笑う。
教室棟の一階部分は、奥の駐輪場に抜けられるようにくり抜かれており、その内側に自販機が複数並んでいた。その前にある中庭では、サッカーやキャッチボールではしゃぐ生徒もおり、普通に喋っても会話を聞かれる心配はない。
「大丈夫。都兎の腕はぷにんぷにんだから」
「うきーっ、また言ったなぁ?」
ごんっ、とまた頭を小突かれた。今度は二人とも両手が埋まっていたから、頭同士で。
「……痛い」
ぽそり、と呟く。反射的に閉じていた目をそっと開けると、すぐ近くに、同じ色とは思えない美しい瞳があった。背後から僅かに差し込む光を受けて、きらきらと茶色に輝いている。
「痛いね」
瞳がふうわりと細められて、都兎が柔らかく笑う。
あぁ、好きだな、と思った。
子犬のように人好きのする笑顔も、悪戯好きな瞳も、いつもどこかに寝癖のある跳ねた髪も、ずっと触れていたくなるもちもちした素肌も、全部独り占めしていたい。
「戻りたくない……」
知らず本音が零れていた。都兎が一瞬目を見開いて、それからくしゃりと笑う。
「戻らないと、二人が干乾びて死んじゃうよ」
そんなわけない。でも、あんまり遅いと不審に思われることは確かだ。
しゅん、と肩を落として入口に足を向ける。とその頬に、ぴた、と冷たい缶ジュースが当てられた。
「!」
「放課後、図書館行こ」
都兎が追い越しざまに小さく囁く。胸が高鳴って、頬が熱くなるのが自分でも分かった。
◆
都兎はパソコン部に所属している。社会に出てすぐ役に立つ技術の習得、というのは名目上で、実質はほぼゲームしかしていないような部だから、出席率などあってないようなものだった。
私は帰宅部だけど、気が向けばパソコン部のあるコンピューター室に顔を出して都兎の隣でトランプゲームをしたし、宿題が多ければ、二人で図書館の一角を占領した。
でもそれさえも、私にとっては口実に過ぎなかった。
「……ねぇ」
最初の十数分は、口実を真実にするため、二人とも黙々と教科書と辞書とノートとを代わるがわる睨みつけていた。でも長文を訳し終わった頃、誰かが出入りして風が動いたのか、古い紙の匂いに不意に都兎の香りが混ざって、私はすん、と鼻を動かした。
「都兎の匂いって、なに?」
「えっ、臭い?」
そのまま直球で聞くと、都兎がガバッと顔を上げて問い返した。
確かに今は初夏で、蒸し暑くて、でもケチな学校が冷房は梅雨明け以降と宣言しているので、僅かに開けられた窓からの風だけが唯一の涼だ。
でもそういうことではないので、制服を持ち上げて脇の匂いをくんくん確かめる都兎を一しきり眺めてから、私は「ううん」と否定した。
「頭が痛くならない匂いだなと思って」
「……今、匂いを嗅ぎまくる私を面白がってたでしょ」
「……何の匂い? 柔軟剤? シャンプー?」
「否定しないなこのやろう」
暑さのせいだけでなく、都兎の頬がほんのりピンクに染まる。背も高くなく、声も少し幼い感じのある都兎は、そんな風に上目遣いで照れたりすると、控えめに言っても可愛かった。チワワとかリスみたいで。と言い訳しないと、好きが暴走しそうで怖いくらいだ。
同性にこんな感情を抱く私はおかしい。頭でも、心でも分かってる。
でも都兎が、笑って受け入れてくれるから――付き合ってくれるから。どこまで踏み込んでいいのか、私はいまだに迷い続けている。
本当は今だって抱きしめて撫で繰り回したいくらいだけれど、幸か不幸か、机が邪魔で頭を撫でるだけに留める。
その仕草を謝罪ととったのか、都兎がむっつりしていた顔を綻ばせ、
「シャンプーかな」
と言った。
「グリーンアップルの香りだったかな? 押しつけがましくないから、好きなんだ」
「青りんご?」
「まぁ、そうとも言うけど」
台無しな言い方をした私に、都兎がお姉さんみたいな顔をして苦笑する。そうして、また面を伏せて宿題に戻る。私はその
「――おんなじの、使う?」
思い出したように、都兎が手を止めず言った。
都兎はどこまで、私のこの
「……うん」
と私は頷いた。
◆
そんな日々が、いつまでも続くとは思ってはいなかった。それでも、高校にいる間くらいは、友達ではいられると思っていた。
でもそれは、あまりに楽観に過ぎたということを、私は一つの噂によって思い知らされた。
「知ってる? 左倉さん、最近佐藤先生とよく一緒にいるけどさ」
「佐藤って養護教諭の?」
「そうそう。学校の外で会ってるの見たって友達が言ってた」
「うそ、まじ? ガチじゃん」
それは、廊下や購買の前で他愛もなく笑い合っている生徒たちの声だった。ただの好奇心で、面白そうなスキャンダルで、どうでもいい退屈しのぎの話のネタ。
私にとっても、そうであれば良かった。
実際、貧血持ちで生理痛も重い都兎は、保健室の常連だった。養護教諭の佐藤先生は若くてとっつきやすいから、生徒の間でも人気はそこそこあった。けれど私にとって男は、路傍の石とまでは言わないけれど、野良猫やよく吠える飼い犬程度でしかなかった。接触しても、二人きりになっても、何も感じない。
だから都兎も同じだと、何の疑いもなくそう思っていた。
けれど予想に反して、その噂は三年になっても消えなかった。それは都兎が変わらず保健室に出入りしていたからでもあるし、男子生徒との間にそういった類の噂が一つも立たないからでもあった。
それはそうだ。私がいるんだから。
でも、あの噂が立ち始めた頃から、いつも私を不安にさせる疑問があった。
それは、私達は付き合っているのか、ということ。
私たちは、お互いを好きだとは言っても、付き合おうという話をしたことはなかった。だって、一緒にいるのが当たり前だったから。
けれどその疑問はある日、思いがけない形で解決した。
「――――!」
都兎を探して図書館脇を歩いていた時、建物の陰に隠れて抱き合う男女を見付けた。男の腕の中にすっぽり収まってしまう小さな女生徒は、見間違えようもない。
左倉都兎だった。
その日から、都兎とは会話をしなくなった。そのまま卒業式を迎え、別々の大学に入った。
桜は散りきり、私の高校生活も終わった。
私の青すぎる青春も、子供みたいな恋も、全部。
結局、鏡は、向かい合っているうちだけ互いを映す。
けれど目の前にあっても、触れたり、混ざり合ったりは決して出来ない。
鏡はどこまでいっても虚像で、それさえも、目の前からいなくなれば、空っぽだ。
裏を返せば、真っ黒。一瞬でなくなる。
真実、私達は鏡のようなものだったのだ。
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