第2話

「神様だ! 乙女の祈りに応えて降臨なさった!」

「これでもう血の獣に怯えなくて済むのね……!」

 いっしょに飛ばされてきたヴァルヲを腕に抱え、アルドは自分たちを囲む人々を見て唖然とした。アルドとギルドナは石舞台の上にいた。白い布を巻きつけた人々の服装を見る限り過去――古代に飛ばされてしまったらしい。

 そこまではアルドにとってよくあることなのだが、自分たちを見上げる人々の視線はどれも異様に熱を帯びていて、中には涙さえ浮かべる女性までいる。その並々ならぬ気迫に圧されアルドはあとずさった。

「なんなんだ、一体……」

 その時アルドの足元にいる男ふたりが、ひそひそと話しはじめた。

「でもふたりいるぞ。どっちが神様なんだ?」

「そりゃお前、凛々しいお顔立ちにたくましいお体。なにより角と青い肌のただならぬ風貌を放つ御仁に決まってらあ!」

「そうだよな。あっちのひょろいあんちゃんじゃ普通過ぎる。きっと神様のお供かなにかだろ」

「俺の扱いが雑だぞ!? ギルドナ、なんかめんどうなことになりそうだからここはいったん――」

 目を横に移してアルドはハッとした。ギルドナの首筋を大量の汗が伝っている。押し殺した呼吸も早い。かすり傷なんてやっぱり嘘だ。

 どこか休める場所はないか。話のわかりそうな人物を探し視線を走らせていると、群衆の先頭に立っていた黒髪の女性が頭を深々と下げたまま石段の前まで進み出てきた。

「青き肌を持つ神よ。無力なわたくしの願いを聞き入れ、姿を現したもうたこと深く感謝申し上げまする。憐れな女の名はシャルル。この身をあなた様に捧げ、一生仕える所存にございます。その暁には」

 伏した顔をそっと上げて、女性――シャルルの桃色の目がギルドナを映した時だった。マントが風もなく揺れたかと思うとギルドナの体が前へ崩れ、アルドはとっさに手を伸ばす。

 しかし指先は虚空を掴み、戦友の体は石段を滑り落ちてシャルルを下敷きにした。

「きゃあ! か、神様いけません。このように人目のあるところでお戯れなど……! もちろんわたくしはあなた様がお望みとあらば、その、どんな願いも……」

 青くなったかと思えば頬を赤らめなぜか満更でもなさそうなシャルルの口走ることはよくわからなかったが、アルドは彼女が代表のひとりと見て詰め寄った。

「違う。怪我を負ってるんだ! どこか治療してくれるところはないか」

「え。ええええ!? 大変です! 神様がお怪我をー!」

 ギルドナの脇から頭をぽんっと抜いてシャルルが叫ぶや否や、村人たちは慌ただしく走り出した。湯を沸かせ、布を持て、とさながら戦場のようなすさまじさにアルドはひとり置いていかれる。しかしどうやら悪い人たちではなさそうだとから笑いをこぼした。


 ギルドナはやはりつまらない意地を張っていた。バルオキーで襲いかかってきた女性のナイフは、脇腹に親指大ほどの傷をつくっていた。しかし深くはなかったことと、村人たちが迅速に薬草をすり潰した傷薬を用意してくれたお陰で、一時意識が混濁したギルドナの呼吸も落ち着いている。

 それならば薬湯を飲ませようとするシャルルと、つんと顔を背けて拒むギルドナの攻防をアルドは笑みを浮かべて見物していた。

「熱い。そんなものいらん」

「ではフーフーして差し上げます」

「もっといらん。いいからそれを下げろ」

 椀ごと手を押しやるギルドナは乱暴だったがシャルルはめげない。それどころか桃色の目はますますきらりと輝いて見える。アルドはふと、その眼差しに覚えがある気がした。

「申し訳ありません! あーん、を忘れていました!」

「意味がわからん」

「ま、まさか口移しでなければ飲まないということですか!」

「なぜそうなる! おいアルド、笑ってないでこのバカ女をどこかにやってくれ」

 おっと。つい吊り上がった口角を隠してアルドは言った。

「介抱してもらってるのにその言い草はないだろ。シャルルはお前の身を案じているんだよ。なあ?」

 はい! とうなずいてシャルルはひざを詰める。仰け反ったギルドナの背中がガタンッと壁にぶつかった。

「この薬湯に使われいる葉はもう残り少ないのですが、ギルドナ様に召し上がって頂けるなら惜しくなどありません。どうか少しでも早く傷を癒しください」

 言葉に詰まったギルドナがちらりと視線を寄越した。そこまで言われて拒みつづけられるほど彼は悪人ではない。アルドは黙って席を外す。なんとなく、自分がフィーネに介抱されているところを仲間に見られるのは照れくさいと思ったからだ。

 外に出ると村は夕陽に包まれていた。閑静な村を囲む樹木の長い影が、物寂しい空気を助長させる。シャルルの家の外壁に背を預け、それにしても、とアルドは思考を巡らせる。

 足元に寄り添ったヴァルヲの黒い尾がくねくね揺れる様をじっと見つめた。

 倒れたギルドナを運び、治癒の準備をする村人たちの手際はやけによかった。旅の道中、傷を負うことに慣れているアルドや仲間たちと比べても遜色そんしょくがないほどだ。傷薬や薬湯が、ギルドナがとこに寝かされた直後に運ばれてきたことも引っかかる。

 まるで予め用意されていたかのようではないか。なんのために。いつでもすぐ使えるように?

 人は古くから魔物と共生してきたが、ゆえに不用意な争いを避ける知識や技は昔から精通されている。あの薬はおそらく魔物のためではない。

「そういえば、どうして村人たちは神様を呼ぼうとしていたんだろう」

 その時砂利を踏む音がしてアルドは顔を上げた。数歩離れた先から壮年の男性がひとり、アルドに向かってていねいに頭を下げ歩み寄ってくる。

 男は眉を垂らし、自分は臨時村長だと名乗った。

「臨時?」

「前の村長はシャルルさんのお父上でした。ですが十日前に息を引きとられ……」

 アルドはハッと息を呑み壁から身を起こした。

「順当に考えればシャルルさんが次の村長なのですが、この村には女は長になれない掟があるのです。それで村一番体格がいいという理由で俺なんかが臨時村長に選ばれまして。本当はじっくり会議を重ねて決めるべきことですが、今はそんな余裕がないんですよ」

「一体この村になにが起きてるんだ」

「実はアルド様とギルドナ様をお呼び立てしたのもそのためなのです。つまり……ひと月ほど前から近くの林に血の獣が棲みついて、村人を襲いはじめたんです。シャルルさんのお父上もその犠牲となりました」

 アルドは扉を気にして数歩離れながら声を潜めた。

「その血の獣っていうのは魔物とは違うのか?」

「恐ろしく俊敏で血のにおいを嗅ぎつけてやってくるんです。それにあの獣は食べるために人を狩ってるんじゃないと思います」

 どういうことかと聞き返したが、臨時村長は拳を握り首を横に振った。噛み締めた唇の隙間から絞り出した声は、憐れなほど竦み上がっている。

「わかりません……! でも、でもっ、感じたんです。やつの姿を見たとたん激しい怒りと怨念のようなまっ黒い殺気を!」

 それきりうつむいて震えるばかりの男に、アルドはかける言葉が見つからず肩にそっと手を添えた。

 見ると男の手はひじまで土で汚れている。普段は畑で農業をしているのだろう。確かに体格は立派だが、命を育む術は知れど摘み取り方は知らぬ男を血に飢えた獣と対峙させるのは酷だとアルドは思いやった。

「ええいうっとうしい! 俺に構うな! うろちょろするな! 触るな!」

 その時シャルルの家からギルドナの怒号が響き、アルドと臨時村長は目をぱちくりさせた。

「そう仰られても構います! うろちょろします! 触ります! きゃっ。もうなに言わせるんですかギルドナ様ったら。神のしもべとして拒んだりはしませんけれども」

 次いで、やっぱりどう聞いてもうれしそうなシャルルの声が流れてくる。アルドはさすが前村長の娘なだけあって肝が据わっているなあとあえて焦点をずらす。臨時村長もどこか遠い目をしていた。

「なんだその神のしもべとは。お前は誰に仕えているつもりだ?」

「ギルドナ様です! ギルドナ様は私たちを血の獣から守ってくださる神様なのです」

「はっ。この俺が? 世迷い言もほどほどにしろ」

「そんな。私は真剣に……」

「真剣に? ただ呼ばれたからという理由で村を救ってもらえると本気で思っているのか。俺はこの土地に縁もゆかりもない。なぜ俺が助けてやらなきゃいけないんだ」

「も、もちろん村を救って頂いた暁には私が一生お仕えしてご恩を返します!」

「お前になにができる」

 せつな、重い沈黙があたりを制した。

「他力本願のしもべなど必要ない。俺はそういうやつが一番嫌いだ。人にやってもらうことばかり考えず自分でどうにかしろ」

 アルドはさすがに言い過ぎだと咎めに入ろうとして、中から飛び出してきたシャルルとぶつかった。アルドを見上げた桃色の目には涙が浮かび、夕陽をはらはらと反射する。

 シャルルは深く頭を下げてぶつかったことを謝り走り去ってしまった。

「おい」

 アルドが扉から覗き込むと、ギルドナはあぐらをかいたひざをイライラと揺らしていた。

「説教なら垂れるな。俺は今虫のいどころが悪い」

「自分でも悪いと思ってるならシャルルに謝れよ」

 ふん、と体ごとそっぽを向いたギルドナにため息をついて、アルドは臨時村長にシャルルの様子を見てくると告げた。それなら西の井戸のところにいるかもしれないとの情報を頼りに、アルドはヴァルヲを連れて村を歩いていく。

 西の空には山脈が連なり、その山端やまはなに今にも夕陽が沈もうとしていた。村の中心地から離れれば離れるほど民家は疎らとなり、あたりには冷気が漂いはじめる。

 ふと、ヴァルヲが短く鳴いた。アルドも感じた心細さが彼にも伝播した気がして、その小さな体をそっと胸に抱えてやる。

 扉や窓に大きく四本傷が走る民家を目に入れつつ、アルドは先を急いだ。

「シャルル! 見つけられてよかった」

 臨時村長の言う通りシャルルの姿は井戸のそばにあった。ここら一帯は畑ばかりで人気ひとけがなく、確かにひとりになりたい時には打ってつけだ。しかし日が沈み、夜のとばりが降りてきた空を見てアルドは焦りを覚える。

 未だ見ぬ血の獣のうなりが林の影から響いてきそうだった。

「早く戻ろう。夜は外にいたら危険だ」

 アルドに気づき、さっと目元を拭ってシャルルは振り向いたが差し伸べた手は取ろうとしなかった。

「アルド様、私は戻っていいのでしょうか。ギルドナ様を怒らせてしまって……」

「だいじょうぶだよ。あいつは、ええと……不機嫌そうに聞こえるけどあれが普通なんだ。いつもしかめ面だし」

 間違ってはいないよな? 自問自答したアルドは一応心の中でギルドナに謝っておいた。

「そうでしたか。でも、ギルドナ様の仰ることはご最もです。父を支えられず、村長にもなれない女の身で私は……酷く自分が不甲斐ないのです! だからせめて、せめてこの身を神に捧げ、その見返りに村のみんなを救って頂けたらと……!」

 また込み上げてくるものがあったのか、シャルルは目を覆いゆるく首を横に振った。声を殺し、唇を噛み締め、ひとり耐えようとするのは長の娘として育った矜持か。まだ妹のフィーネと年が変わらないように見える少女の肩にその荷は重過ぎる。

 しかし彼女は慰めを求めているわけではない。アルドはヴァルヲを抱える腕にぐっと力を込めた。

「ですがそれも虫のいい話でした。私にできることは、もう……」

 カンッ! カンッ! カンッ! カンッ!

 その時、木板もくはんを木槌で打つ警報がけたたましく鳴り響く。一瞬にしてざわめき立つ空気の中、あの臨時村長の緊迫した声が走り抜けた。

「出たぞー! 血の獣だ! 女子どもは家屋の中へ! 男は武器を取れー!」

 アルドとシャルルは弾かれるように村の中央へ目を向けた。血の獣? 一体どこに。戸惑うアルドよりも先に答えを出したのはシャルルだった。彼女は避難するどころか村の中心へ走り出す。アルドはとっさに手を掴み引き止めた。

「行っちゃダメだ!」

「お離しください、どうか! 私にはもう」

 そこで言葉を切ったシャルルの目がなにを捉えたかアルドは気づいた。しかしもう片手はヴァルヲを抱えていて反応が遅れる。その隙にシャルルはアルドが腰に帯びる鞘から剣を引き抜いた。

「みんなの盾になることしかできない! 剣をお借りすることお許しください!」

 手を振りきってシャルルは駆け出す。アルドは自分に舌打ちし、ヴァルヲをそっと地面に下ろすとあとを追いかけた。

 行き先はもう見当がついている。血の獣は血に誘われる。今、村の中で怪我を負っているのはギルドナだ。衣服に染みついたわずかなにおいを嗅ぎ取られたに違いない。

 アルドは家に逃げ込む女性や子ども、その背を守る男たちを目に入れながら村を駆ける。男たちが手にしているのは武器とは名ばかりのクワやカマだった。この村の平素が本当にのどかであることが知れる。まるで生まれ故郷のバルオキーみたいだ。

 勇ましく走り出したシャルルだってきっと剣を握ることさえはじめてだ。だったら剣を携える者として、竜神の力を授かった者として、傷を負う仲間よりも捨て身を覚悟したあの子よりも自分が前に出たい。

 しかしおぼろげな道順と薄闇に覆われた視界がアルドの足を鈍らせる。シャルルにすぐ追いつけると思ったが、実際はその背を見失わないようついていくのが精一杯だった。

 奥歯を噛み締める。地に手をつき砂利を蹴立てて、直角を曲がったところで家屋の壁を突き抜けてギルドナが飛び出してきた。

 胸に構えた剣で鋭利な赤い爪を受けとめている。

「ギルドナ!」

 仲間の無事な姿に安堵したのも束の間、アルドは引き抜けないオーガベインの柄に手をかけつつ血に飢えた獣の姿に目を走らせる。

 発達した後ろ足は大木のように太く、前足はやや短い。その短い足を地面について前傾姿勢を保つ体は、薄闇の中にいながらくっきりと浮かび上がるほど濃い黒い体毛に覆われていた。

 その出で立ちでひと際存在感を放つのが、爪と頭部から垂れ下がる角、そしてぎょろりとあらぬ方向を見つめている目玉の赤だ。

 面のように平らな顔の上で、角の赤は獣の呼吸に合わせて明滅している。

 こんな獣は数々の時代、土地を旅してきたアルドでも目にしたことがない。確かに野を闊歩かっぽしている魔物とは異質な空気を感じる。オーガベインの柄を掴む手に汗がにじんだ。

「ギルドナ下がれ! ここは俺がなんとかする! ギルドナ!」

 血の獣にひたとにらまれるギルドナをとにかくこの場から遠ざけたかったが、なぜか彼は返事を寄越さない。それどころか敵は目の前であるのに吹き飛ばされひざをついた姿勢のまま動こうとしない。

 傷が開いたのか。しかしそれでも構わず阻むものには剣を奮うのがこの男だ。アルドがもっと別の嫌な予感に心臓を震わせた時、あたりに血臭が漂った。

「血の獣、私が相手です」

 獣を挟んだ対岸にシャルルが立ちはだかっていた。彼女が正眼に構えたアルドの剣先から血が垂れている。自分を斬ったのだ。次の瞬間、獣の首がぐりんと仰け反りシャルルを見た。

「よせシャルル! 逃げろ!」

「私はもう誰にも死んで欲しくない……! ギルドナ様お逃げください!」

 シャルルが獣に立ち向かっていくと同時に、アルドもオーガベインを鞘ごと引き抜きながら走り出した。

 まずは体勢を崩し機動を削ぐ。後ろ足に狙いを定め振り下ろした攻撃はから振りに終わる。獣は民家の屋根を越える高い跳躍を見せたかと思うと、シャルルに向かって腕を伸ばした。

「え……?」

 そう、文字通り腕が伸びたのだ。シャルルの上半身をわし掴んだ手は、悲鳴ごと隣家の壁に埋もれさせた。

「シャルル!」

 甲高い音を立てアルドの剣が地面に落ちる。壁から引き抜かれたシャルルは、獣の手の中でぐったりと四肢を投げ出していた。

 そのまま血の獣は低くうなり、大地を叩きつけた勢いで大きく飛び跳ねるとシャルルを暗い林の中へ連れ去った。

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