救世主と疫病神と血に飢えた獣
紺野 真夜中
第1話
人間だって自分たちが思ってるほど高尚なもんじゃないさ。石を相手に斜に構えてみせて、腹に突き刺さったナイフを引き抜いた。
「あなたって本当に聞き上手だね」
ポキリ。なんとも軽い音が鳴って小指が折れる。それを摘まんで目の高さに掲げ、今日は散々だとため息をついた。
酔って魔獣への恨みごとをこぼしていた女性に声をかけたら、暗がりに連れ込まれ十数回も刺されるとは思うまい。ほら見てよ、とズタズタになったワンピースの腹部を石に見せてやる。
お気の毒ー! 高く作った自分の声が返事をする。
「争いはなにも生まない。許すことが真の強さ、か……」
女性にかけた自分の言葉を振り返り、その薄っぺらさに打ちのめされる。魔獣に夫を殺されたと、女性はうわ言のようにこぼしていた。
最愛の人を奪った相手を許せる人なんているだろうか。疑問が過り、それ以上言い募ることはできなかった。
その代わりに差し出せるものは痛覚を感じない自分の体だけだった。
「でも一回だけって思うでしょ普通」
けたけたと笑って草原に手足を投げ出す。枝葉の間から覗く空に小指が取れた手をかざした。夜空はいつの間にか白んでいる。朝が近い。
中指は半分に折れ、薬指はとうになくした。利き手にいたっては残っている指などない。こうやって死んでいくんだなあと他人ごとのように自分を見つめる。
「でも未練なんてないし」
言った先から古い記憶があふれ出した。なにを失ってもこれだけは手放したくないと願う大切な記憶だ。それでも、脳の中まで風化は容赦なく進み、忘れたことさえ忘れ、ふと思い出しては失う恐怖に震える。
飛び起きて近くに転がっていた小石を掴み、腕に大切な人の名前を刻みつけた。
「ギルドナ様……」
みじめでみすぼらしい日々を送る意味を見出だせなくても、崖の手前で踏み留まれたのは彼がくれたやさしさがあったからだ。
「まだ、望んでもいいでしょうか」
醜く変わり果てた姿に気づかれなくとも。時の無情な流れに忘れ去られていても。
「あなた様と迎える夜明けを……」
穴だらけの腹をなで、もう少し自分を大切にしていればよかったなと後悔する。死期を悟りながらまだこんな欲を抱く自分はやっぱり人間に違いない。
小さく笑って目を起こした時、木立の間から朝日が降り注いだ。
ぽかぽかと暖かい陽光に誘われてアルドは青空を見上げた。やっぱりバルオキーの空気はいつの時代どこの場所とも違うなあ、とため息をつく。緑しかない田舎村だが一歩踏み入れたとたん、陽の光をいっぱいに浴びた毛布に包み込まれるような心地よさを感じる。うっかりしていたら朝ごはんを食べたばかりだというのに眠ってしまいそうだ。
込み上げてくるあくびを堪えていると、足元に伏せる飼い猫のヴァルヲがくあっと大口を開けていて、アルドはくすくす笑った。
そこへ子どもたちの笑い声が弾ける。目を向けると旅仲間のギルドナが村の幼い
その光景を一歩離れたところから見ている妹のフィーネと仲間のエイミに気づきアルドが足を向けた時、ギルドナの観念したようなため息が聞こえてきた。
ギルドナが長身を屈めると姉弟はきゃっきゃっと喜んで、その青くたくましい腕に飛びつく。そのまま姿勢を戻すギルドナの腕にしがみついて足が地面から離れると悲鳴のような歓声が響いた。
「ほら。だからだいじょうぶって言ったじゃない」
「ギルドナはやさしい魔獣だってみんなわかってるもんね」
「ああ。あのぶら下がりをやりたかったのか」
ギルドナに礼を言う母を見習って元気よく「ありがとう!」と笑う子どもたちの愛らしい姿を見ながら、アルドはエイミとフィーネに声をかける。フィーネは寝ぼすけの兄を見て「やっと起きてきた」と頬をふくらませた。
「そうなの。でもギルドナったら子どもたちを怖がらせるんじゃないかって心配してたのよ」
妹ににらまれてたじろぐアルドをにやにやと見ながらエイミが言う。
「この村の者たちの警戒心が薄過ぎるんだ」
幼い姉弟とその母親と別れたギルドナがむっすりした顔で戻ってきた。その強面はさっきまで子どもと遊んでいた様子からかけ離れていて、アルドはつい笑みがこぼれる。
「いいことじゃんか」
「俺の種族を忘れたか」
「まあ、それだけ村人たちのアルドへの信頼が厚いってことかしら」
エイミの称賛は照れくさくも素直にうれしく、アルドは心持ち胸を張った。ところがギルドナはまだ納得がいかないという顔で腕を組む。
「それを抜きにしてもだ。フィーネは俺とアルドが出会う前からアルテナの友だったのだろう」
「え。うん」
唐突に話を振られて目を瞬かせたフィーネだが、うなずくその表情はどこか誇らしげだ。それを見てギルドナはますます奇怪だと言わんばかりに眉をひそめる。
「王都から離れているとはいえ、ここもミグランス領に変わりない。お前たちの王が敵とみなした魔獣になぜそこまで寛容になれる」
「確かに。ミグランスの城下町の人たちと比べてもバルオキーの人たちは魔獣に対してやわらかいわよね。どうして?」
ギルドナに加えエイミからも疑問の視線を投げかけられ、アルドはフィーネと顔を見合わせた。
「どうしてって言われても……最初からそんな感じだったというか」
「小さい時、おじいちゃんから人間と魔獣は今ケンカしてるって聞いたよ。だからあんまり近づいちゃダメって。でも」
妹から見上げられてアルドはうなずき、言葉のつづきを引き受けた。
「そう。魔獣にも人間と同じでいろんなやつがいることを忘れちゃいけないとも話してたよな。中にはケンカがいけないことだってわかってたり、ケンカを怖いと思ってたりするやつもいるはずだって。たぶんバルオキーの子どもはみんなそう教えられて育ったはずだ」
するとフィーネが童心に返ったかのようにぴょこんと跳ねた。
「私、アルテナは絶対いい子だと思ったの。だってキノコウメが好きなんだもん!」
「決め手はそこなの!?」
エイミのツッコミにアルドは「女の子の趣味にしては渋いよな」とからから笑う。軽く首を振ったギルドナから深いため息がもれた。
「ミリア、ダメよ……!」
その声がどこから聞こえたのか、最初アルドにはわからなかった。ギルドナが酒場のほうへ振り返ってはじめて、店先に王都から来た観光客風の女性がふたりいることに気づいた。
ひとりは立ち尽くし、驚き
「夫の
うなるような声を絞り出す女性の手に、血のついたナイフが握られているのを目にしてアルドは我に返る。
「ギルドナ! だいじょうぶか!?」
「少し、かすめただけだ……」
とっさに仲間の身を案じた自分の行動は間違いだったとアルドは悟る。アルドの手がギルドナの肩にかかった瞬間、ナイフを持つ女性の怒りがぶわりと噴き上がったのを肌で感じた。
「なによ。あんた、人間のくせにそいつの肩を持つわけ。野蛮な! ケモノの!」
「落ち着いてください!」
「私たちはこの村の警備隊よ。村の中で武器を振り回すことは禁止されているわ。まずはそのナイフを捨てて」
アルドとギルドナをかばって間に立ちはだかったエイミとフィーネが女性を押し留める。すぐさま気転を利かせたエイミはさっとアルドに目配せした。ここは任せて。その合図を違えず受け取ったアルドは、頼もしい仲間に感謝しつつギルドナに手を貸す。
とにかく王都の女性からギルドナを遠ざけたほうがいいだろうと考え、アヌル平原に向かった。
ギルドナはアルドの手を拒み自力で歩いた。旅の道中でもギルドナは度々、仲間からの手助けを嫌がる。アルドは無理強いはせず、剣に手をかけ魔物を警戒することに集中し、ギルドナを平原の高台にある木陰で休ませた。
「傷は」
問いかけてもギルドナはマントで体を隠してそっぽを向く。不覚を取られたことを恥とでも思っているのか。行動をともにするようになって短くはない間柄のはずだが、ちっとも直らない頑固さにアルドは癖毛をもっと乱した。
「お前も行け」
「は?」
「村に戻れと言っている」
信じられない言葉にアルドは目を見開きギルドナの横顔を凝視した。
「そんなことできるわけないだろ。今魔物に襲われたらどうするんだ。とにかくまずは傷を見――」
ギルドナは手でその先を制した。これにはアルドもカチンとくる。今日こそ仲間が――特に癒し手として戦闘を支援している者がその頑固な態度に困っていることを言ってやろうと拳を握った。
するとギルドナは腰に携える剣に手を伸ばす。そこまで嫌なのかとぎょっとするアルドに、ギルドナは呆れた視線を投げかけた。
「後ろだ、バカ者。警戒を途切らせるな」
ギルドナの言葉を聞いたとたん、アルドは背後に気配を感じてぞわりと肌が
「ギルドナ、さま……」
か細いかすれた声はそれでも確かに魔獣の名前を呼んだ。ギルドナは舌を打ち、勢いよく立ち上がった。
「また俺か。お前もさっきの女の仲間か。いいだろう。俺は逃げも隠れもしない。お前の怒り、このギルドナに向けてみろ!」
「お、おい。なに挑発してるんだ。落ち着けってギルドナ」
早くこの場から離れなければ。そう思った時アルドは女性の緑の前髪から覗く桃色の目と合った。その瞬間女性はピンと張った糸が切れたように目尻を垂らしふにゃりと笑った。
「よう、やく、お会いできました……。ですが、わたしは結局、お役に立てませんでした……。あなた様に、なにもお返しできず、恥ずかし、あっ……」
女性がつまずきよろめいたその時、足首から先が取れて地面に転がった様にアルドは目を剥く。転倒を防ごうと地面についた細腕も砕け、断面からぼろぼろと崩れていく。それはまるで土を固めて焼いた陶磁器が壊れるかのようだった。
「もうしわけ、ございません……。わたしにはもう時間が、ないようです……。叶うならせめて……」
眼下に広がるアヌル平原の雄大な大地を振り返る女性の髪が、みるみるうちに緑から黄土色へと
「あなた様と、昇る朝日を、みたかった……」
声を失うばかりのアルドとギルドナに首をかしげ、今もなお崩れつづける女性は残った手を地面につき、欠けた腕をギルドナへ伸ばす。
パキリ。鋭い音が響いた。アルドはまた女性の体のどこかが壊れたと思った。
「ギルドナさま……? アルドさま……?」
その時風向きが変わり、アルドは焦げたにおいと甘い香りを感じた。このにおいには覚えがある。見るとギルドナの後ろに時空の穴があいている。稲妻をほとばしらせ空間を裂き、深淵の闇が渦巻くその穴はすべてを飲み込む引力の風を生む。
ギルドナの苦しげな声が聞こえた。腹部の傷のせいで踏ん張りが効かないのだ。アルドは手を伸ばし青い手首を掴んだが、足裏が地面に引きずられる。気がつけば何度となくこうして時を旅するようになっていたアルドは、もう抗えないほど時空の穴に近づき過ぎたことを悟った。
頭から闇に飲まれていく。足が、地面を離れる。
「わたしのこと、覚えてませんか……?」
寂しげな女性の声を最後にアルドの視界は闇に閉ざされ、しばし風の音だけがヒュルヒュルと耳の周りを飛んでいく。まるで体が元素に戻ったかのように輪郭を失い、膨大な時の流れと混ざり溶け合いをくり返す。
アルドに成す術はなく、ただ時の暗闇に落ちませんようにと祈るばかり。だが掴んだ仲間の手だけは離すまいと力を込めつづけた。
やがて迷路の行き止まりにぶつかるかのように、足がなにかと衝突する。
「神様だあああ!」
その瞬間、沸き上がった歓声に驚いてアルドは慌てて顔を上げたのだが、
「ぶへ!?」
ちょうど顔面に着地してきたヴァルヲの腹に埋もれて尻もちをつくはめになった。
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