第5話 ウケたい
戦後最年少で直木賞を受賞された人気作家、朝井リョウさんのエッセイ「時をかけるゆとり」を読み終えまして。
今すぐに読んで! と日本語が読める全人類にテレパシーでお伝えしたいくらいおもしろかったんです。本当に笑えました。
20秒に一回くらい、「グフっ」「んはっ」など、百年の恋も一時に冷めるような声が、自分の鼻口から漏れるんですよ。不意をつかれてウケてしまったときに出る、あの色気のない音です。途中からは全開でゲラゲラ笑い始め、笑ったあとに息を吸うときでさえ「ヒィィィーっ」という不穏な音が出るにいたりました。
文章にクオリティーというものは確かに存在し、朝井リョウさんが書かれる文章と、私が書く文章の間には、ガンジスよりも大きな河が流れている……! と、清々しいまでの敗北感を覚えました。
私は嫉妬をするということが全くと言っていいほどありません。若かりし頃はあったように記憶しているんですが、すごい作品に触れたり、友人がビジネスで活躍したり、知人がプチ有名人になったりしても、「私だって!」と奮起することなどなく、「すごいねー。」と賞賛して終わりです。
恥を感じることも少なくなってきたし、どんどん生きやすい方向へと老成しております。
が! 朝井リョウさんのエッセイを読んで、枯れかけていた情熱がよみがえり、消えかけていた炎が再び体内でボッと燃え上がるのを、確かに感じたのです。その炎の正体、それは……。
私だってウケたい! なんかおもしろいこと書いて笑わせたい! (ドドーン!)
という狂おしいほどの願望でした。(←中学生男子か。)
「ダメよ、まりこ。ウケたいと思えば思うほど、すべるのよ。」と冷静に諭す自分がいます。「もっと肩の力を抜いて。駄文を気軽にポチッと投稿しようぜ☆」という甘いささやきが聞こえます。「そうだよね。背伸びしちゃダメだ。ありのままの自分でいいよね。」と、子ども向けの海外ドラマみたいに納得しかけたその時……暑苦しくも懐かしい声が聞こえてきたのです。
「お前は全力を尽くしたのか!」
ああ、あの声は、団塊世代の鬼コーチ! 「根性出せばなんとかなる。」ていう無茶な理論で、全国の少年少女のガラスのハートを粉々にしてきた前時代の指導者。ゆとり世代の朝井リョウさんにはたぶん馴染みがないタイプ。
鬼コーチ「お前のせいいっぱいって、こんなもんか!」
私「否!」
鬼コーチ「お前の全てをぶっこんで、何かおもしろいもん書いてみろ!」
私「応!」
昭和生まれ、舐めんな! と変な方向にやる気が湧いてきました。(←なぜ?)朝井リョウさんの全くあずかり知らないところで、はた迷惑な試合のゴングは鳴ったのです。しかし相手は朝井リョウさんではありません。打倒すべきは、最近ゆるくなりすぎた私のエッセイ。
この勝負、負けられない! これだけ引っ張ったんだから、今回はぜひとも笑わせたい! ここはもう、下ネタに走るしかない!
………え?
いえいえ。アラフォーおばさんの、ベッドルームの話などしたところで、コメディーではなくホラーになるから。ここはもう、ふん・尿・オナラまで、品位を下げるしかない……。
………え?
だって、「僕の指、引っ張ってごらん。」と言って、子どもが指を引っ張ったとたん、「ブー」とオナラをひねり出すおじさん、どんなに低次元で古典的でも、毎回ウケてるもん!
もう、恥はガンジス川に捨てた。なくすものなどなにもない! 私の全てをかけて笑わせてみせる! 今回は渾身の下ネタをお送りします。
↓ ↓ ↓ ↓
むかーしむかーしあるところに、まだ二十歳そこそこの、うら若き乙女が飛行機に乗っていました。名前はかしこまりこと言いました。
機内の成人の中でトップテンに入るほど短足だったまりこは、窓際のエコノミー席に難なくおさまり、離陸を待っていました。(映画はなにを観ようかな。)(今日の機内食はなにかな。)などとのんきなことを考えていたまりこに、これから生涯忘れられないほどの危機が訪れようとは、知る由もありませんでした。
ふり返れば、まだその飛行機が離陸すらしていないときから、運命の歯車は狂い始めていたのです。
(空港でトイレ行っとけばよかったかなぁ。)と席に着いてからまりこは思いました。(ま、後で行けばいっか。)とその時は軽く考えていました。
単身でオーストラリアから日本に帰省する10時間のフライトで、席は満席。隣にはアジア系の男性(仮にリチャードとします)が座りました。彼は荷物をしまうやいなや、アイマスクをして、スヤスヤと寝息をたて始めました。
(あ。)とまりこは思いました。
飛行機が離陸し、他の乗客たちがトイレに行き始めても、案の定、リチャードは起きません。ということは、トイレに行くためには、彼を起こさないといけないのです。
(うーむ。)まりこは思案しました。あまりにもスヤスヤと眠っているため、起こすのは気がひけます。まりこは、自分の膀胱のキャパを感覚で確認してみて(まだ半分くらいは残ってる。あと2時間は大丈夫!)と根拠なく判断しました。
はたして2時間後、1本のラブコメを観終わったあと、リチャードはまだ気持ち良さそうに眠っていました。
私は膀胱に聞いてみました。「アーユーオーケー?」膀胱は自信なさそうに答えました。「たぶん……。」そこでまりこは(よし、あと映画1本分は大丈夫。)と、なぜか無理やりポジティブな解釈をしました。
2時間ほどのアクション映画を、文字通りチビりそうになりながら最後まで観たあと、まりこはリチャードをチラリと見ました。
まだ寝てる〜!!!
なんということでしょう! リチャードを起こしたくないがために、4時間も尿意と戦ってきたのに、今ここで彼を起こしてトイレに行ってしまったら、今までの苦労はなんだったのか……。
まりこは、ここで賭けに出ました。(もしかしたら、あと10分くらいでリチャードは起きるかもしれない。)まりこは、成人女性の尊厳が地に落ちるような事態におちいる前に、彼が自然に起きることを信じて、なぜかテトリスを始めました。
まりこは友人から聞いたある話を思い出していました。いわく「トイレを我慢しているときでも、実は膀胱の30%くらいしか尿は溜まっていない。」真偽のほどはさておき、まりこはこの説に一縷の希望を見出しました。そんな説にすがりたくなるほど、事態は切迫していたのです。
テトリスで、まりこは思いのほかいい成績をおさめ始めました。体のある1点に全神経を集中させているため、テトリスは半分無意識で行っています。そのせいか、無駄な動きのない、のびやかなプレイができていました。
まりこは、ここで奇妙な快感を覚え始めました。
(私、限界に挑戦してる!!)
まりこはこんなに人生で集中したことはないというくらい、ギリギリで戦っていました。テトリスの段が一つ消滅するたび胸を突き上げるのは、勝利に一歩一歩近づいているという充実感。もうここまできて、後には引けないという決意。ランナーズハイのような高揚感。
勝利は目前だ! と硬く信じました。あの暑苦しい鬼コーチが「がんばれ、もう少しだ!」と鼓舞している姿が目に浮かびます。(コーチ、私、最後まで全力を尽くします!)まりこは心の中でコーチに誓いました。
そのときです! 飛行機がガクンと揺れました。「機体が乱気流に突入したので、シートベルトをお閉めください。」というアナウンスで、テトリスは中断されました。まりこは隣のリチャードを確認しました。
起きたー!!!
機体が大きく揺れたせいで、彼がついに起きたのです。まりこが尿意をもよおしてから、すでに5時間が経過していました。
神よ、我に勝利を与えたもうたか……。
まりこは勝利を確信しました。壇上に上がる金メダリストのように、意気揚々とトイレに行こうとして、まりこは気づきました。シートベルト着用のランプが付いてる……。乱気流から抜けるまでは席から離れてはいけません。ラスボスを倒したと思ったら、新たなラスボスが現れたのです。
背水の陣。絶体絶命。風前の灯。
絶望的な戦況の中で指揮をとる武将を彷彿とさせるような、切羽詰まった慣用句が脳裏を駆け巡りました。もはや、一刻の猶予も許されません。
神よ、どうか我を守りたまえ……。
「人間は、自分ではどうしようもない事態に陥ったとき祈るのだ。」ということを、まりこが体で学んだ瞬間でした。
まりこが祈ること数分間。機体が乱気流を抜け、着席のランプが消えました。祈りは届いたのです。まりこは最後の力をふりしぼって、席を立ちかけました。
しかしそこには、今度こそチビる! と思うほどの衝撃的な光景が待っていました。
リチャードが、また寝てる〜!!
機体の揺れで起きた彼は、機体の揺れがおさまるやいなや、夢の国へと舞い戻っていました。ここまできて、まさかのどんでん返し! あなや、リチャードが憎い! もはや、まりこに手段を選ぶ余裕はありませんでした。背に腹は変えられません。「エクスキューズミー。」まりこは涙をのんでリチャードを起こしました……。これまでの苦労は全くの無駄になったのです。
そのあと、ものすごい形相と不自然な歩き方でなんとかトイレまで行き、大事に至る前に5時間を超える長いバトルは終了しました。
まりこは負けました。でも、悔いはありません。あるとすれば、あのラブコメを観る前に、リチャードを起こしてトイレに行っていれば……、という後悔だけです。
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