附則
『ねえ。お父様とお母様、今日は何処にいるの?』
『今日の旦那様と奥様はご友人の食事会に行かれております。それよりパトリシア様。言葉遣いがなっておりませんよ。教師たる私に対しては丁寧な言葉遣いでと教えましたよね?』
『…………はい』
幼き日のパトリシアは家庭教師のミリア先生が嫌いだった。
専属で付けられた教師により毎日教養を教わるパトリシアは、両親と共に過ごす時間は滅多になく甘えたいと思う頃には誰も側に人がいなかった。
使用人達は人遣いが荒いくせに安い給金しか寄越さないセインレイム伯爵に反感を抱いていた。そのため、セインレイム家の一人娘であるパトリシアを可愛がる使用人は何処にもいなかった。
本来なら成長するまで傍に置くべきであるナニーも乳母も、金の無駄だと雇わずパトリシアには無愛想で冷たい家庭教師しかいなかった。
唯一家族と共に出かける機会があるとすれば、娘を同伴させる茶会やパーティが開かれる時だけだった。
それだけでも嬉しかった頃もあった。
けれど行ったところで、パトリシアを無視して大人達との会話を楽しむ両親に諦めがついたのはいつの頃か……
浮上しない気分を変えるには、流行の服やドレスで自らを着飾り可愛らしい恰好をして遊ぶぐらいだった。その時ばかりは周囲の目を惹きつけるのだと分かったからだ。
婚約の話が出て、定期的に婚約者と会う機会が出来た。
パトリシアにとっては将来夫となるクロードだけが、自分を見てくれるのだと喜び甘えた。親から与えられるべき愛情を知らなかったパトリシアは愛情に飢えていたから。
けれどそれは、クロードにとっては迷惑であったのかもしれない。彼が求めていたものは自身を支えてくれる妻であったのだから。
構ってもらいたくて、愛情を返してほしくてたまらなかったパトリシアだったけれども、その術が自分にないことも知っていた。
そうしている間にクロードは別の女性と親しい間柄になり、パトリシアの元に訪れる機会も減っていた。
パトリシアはより焦燥に駆られた。
両親も婚約者でさえもパトリシアに関心が無いことにやり場のない怒りが爆発し。
自身の十六歳の誕生会の日に勢い余った結果、池に落ちるという醜態を晒した。
けれどそれで良かった。
愛情に飢えていた心は、前世で得た記憶により大分落ち着いた。
諦めることを知った。
求めている物は何も、家族からの愛情から得られるだけではないのだ。婚約者から得られるものでもない。
自ら築き上げることも出来るのだ、と。
前世のパトリシアは仕事に愛情を注いでいた。純粋に仕事が好きだった。
目的が達成できる喜びを知っている。
苦労が評価につながる感動を知っている。
共に苦楽を乗り越える同僚との絆を知っている。
前世で得た感動を思い出したパトリシアは、家族や婚約者からの愛情ばかり求めていた自身がなんてちっぽけな存在なのだと分かった。
求めてばかりで癇癪を起こすのは、赤子が愛情を求めて泣いているのと同じことだと。
十六歳という大人の仲間となった時に思い出したのも何か運命めいたものも感じたパトリシアは。
それからの生き方を全て変えていくことにした。
まずは家族から離れたかった。
このままでは家族の操り人形でしかない今の立場から乖離すべきだという目的を見つけた。
続いて円滑に婚約者との婚約を破棄したかった。
いずれクロードが婚約破棄を言い出すことは分かっていた。
婚約破棄を向こうのいいように終わらせてはならない。あくまでも被害はこちらにあるのだから、それ相応に賠償してもらえるように動かなくては。
目的が出来るとパトリシアは楽しくなった。まるで、前世で仕事に見出していたような楽しさを。
しかし一人では出来ないと分かると、すぐさま自身の持つ唯一の協力者に依頼をした。それがカイルだった。
前世の記憶を取り戻す前、カイルとも何度か会う機会はあったものの家庭教師から婚約者以外の男性と親しくなるなと忠告されており、そこまで接する機会は多くなかった。それでも時々会う同世代の少年と話す機会がパトリシアは好きだった。
既に家庭教師は辞めさせていたこともあって、カイルとの相談はスムーズに終わった。頭の回転が早いカイルとの打ち合わせは楽しかった。必要な情報を的確に返してくれるカイルの商人らしい動きに、まだ外に出たこともないパトリシアは憧れた。
そして思った。パトリシア自身も働いてみたいと。
カイルのよう、前世の時のように。
うまく仕事に恵まれなかったとしても、パトリシアには淑女として教え込まれていた刺繍の技術や学識がある。家庭教師に教わっていた知識を使えば家庭教師という選択肢も残されている。
この大陸は貴族主義であるものの、全大陸にその意識が行き渡っているわけではない。王都に近ければ近いほど貴族の権力は強いものの、遠方になれば商人が力を占める町や、民主主義に近い都もあることは知っている。
婚約破棄後、独り立ちしようと決めたパトリシアが興味を引いた場所が、ネピアという湖水地方の小さな町だった。そこは治安も悪くなくコーネリウス大陸の領土内でありながら独立した都のような場所であった。
湖での養殖業や町中で繊維業も行っているため町自体が財政難なわけでもない。農業に専念する民もいる
ため食糧を輸入に頼らない土地柄。輸出業から外部との人間に接触することもあるものの、観光地というわけでもないため人の出入りは多くはない。
大陸の中間地とも言えるヴドゥーとの距離も近いためか、住民以外にも居住者や旅客が訪れることもあるために、外からの人間にも寛容だという。全ての点においてパトリシアには最適な居住地だった。
それでも、外部の人間が突如訪れることで反感を抱かれないかという不安はある。何処でも通じる話だけれども、人のテリトリーに侵入するということは警戒されることでもあるから。
だからこそ、パトリシアは傭兵団という組織に興味を引いた。
傭兵団は外部の者が組織していることが主だという。
特に名を馳せているエストゥーリ傭兵団から派生している傭兵団が多いと聞いた。
パトリシアが持つ前世の知識で言うのであれば、支社であったり競合他社、と呼ばれる組織なのかもしれない。
とにかく、傭兵団に入団すれば外部の者であろうとも警戒心は薄れるかもしれない。
そんな希望を抱いてパトリシアはネピアへと向かった。
記憶の片隅に幼い頃のパトリシアが浮かんだ。
家族の愛を求めていた、小さな小さな少女。
パトリシアは目を閉じて、その小さなパトリシアを心の中に閉じ込めた。
(ごめんなさい)
小さなパトリシアが求めていた愛情を、今のパトリシアは求めることすらも諦めた。
代わりとなる情熱を胸に、新天地へと向かう。
小さな小さな、幼いパトリシアが入った箱にそっと鍵をかけて。
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