第三章(問題提起と解決)
レイグ商会の長男とセインレイム伯爵家の令嬢が婚約破棄をしたことが広まったのは、サロンでも社交の場でもなく裁判所だった。
セインレイム家とレイグ家による婚約破棄に関する誓約書が裁判所に提出、受理されたことにより簡易裁判にて決定がなされた。
その場に観客はおらず、当事者であるクロードとパトリシア、それから事務官だけであった。
元々スキャンダルという意味で注目の的であった二人が並んで裁判所にいる姿は瞬く間に噂となり、彼らの婚約破棄は一瞬にして話題となった。
パトリシアの両親は勝手に婚約破棄を決められた事に対して怒ったが、賠償金額を見せたら怒りを鎮めた。
「よくやったぞ、パトリシア! 予想以上の賠償額じゃないか! 素晴らしい!」
「ええ、ええ。良くやったわね。それに貴方ならすぐ新しい相手が見つかるわ。素敵な相手を見つけてみせるから母に任せなさい」
「その事ですが」
ディナールームで出されたムニエルを丁寧にフォークで切り分けながら食べていたパトリシアは咀嚼し終えた後、フォークを置いてから両親を見た。
金と見栄だけを生き甲斐とする似た者夫妻は、パトリシアの予想通り早速次の婚約者を探そうとすることは想定内だったため、パトリシアは既に先を見据えて行動していた。
「わたくし修道院に入ろうと思いますの。今回のように婚約破棄をされますと中々お相手を見つけることも大変でしょうから」
「何を言う。そんなことはないぞ?」
「そうよ。母がこれから社交の場に出向いてくまなく探して来ますよ?」
娘の婚約相手探しを理由に社交界に出歩きたいらしい母の言い分。釣り餌に引っ掛かったとばかりにパトリシアは手をパチンと叩く。
すると使用人がパトリシアの側に寄ってきたため、パトリシアは彼に「五番目の資料を持ってきて頂戴」と告げた。
使用人がすぐさま部屋を出て行く姿を、テーブルに座った両親はぼんやりと眺めていた。
「とてもありがたいお話ですが。お父様、お母様。わたくしの婚約相手に時間を要する事は難しいのです」
「どういうこと?」
先ほど指示した使用人が資料を持って戻ってきた。
クロードと同じように二人に書類を渡すと、パトリシアは淡々とプロモーションを始める。
「婚約者選びのために使われる交際費の月平均予想額と、実際に婚約となった場合に掛かる婚約手続きの費用、それと結婚式に掛かる費用を算出しました。それから、予想される婚約相手の候補者を何人か調べましたけれど、クロード様のように結婚資金を全額負担してくださるような家は見当たりませんでした」
つらつらと説明するパトリシアの声に、両親は不思議と真面目に聞いていた。そういえばこの夫妻、領地経営がうまいわけでもなかった。だから娘を金銭工面の代償としていたわけだけれども。
「クロード様から頂いた賠償金を使用した上で新たな婚約者選びの支出を考えますと、年月が経つたびに右下がりなのは明らかですが。もう一枚の資料をご覧頂けます?」
素直に両親が資料を捲る。
「そちらには、もしわたくしが修道院に入った場合に残る賠償金額と屋敷の運用費。わたくしという者がいないことにより浮く金額を計算いたしますと、お二人が老後も恙無く暮していくには、こちらの案がよろしいかと」
「我々に隠居せよというのか……?」
怒気を孕んだ父がパトリシアを睨むが、その額には汗が滲んでいた。
彼自身が最も現状を把握しているため、パトリシアの提案が現実的であることを重々理解しているのだ。けれど、彼のプライドがそれを認められない。
隠居とはつまり、社交界からの引退であり、貴族からの笑い者になることが分かっているからだ。
それでも、このまま衰退の一途を辿ることも示唆された今、決断に揺らいでいることは確かである。
「隠居ではございません。療養ですわ。『婚約破棄により心を痛めた令嬢のために、セインレイム家は家族で静養出来る場所へ行った』と、伝えればよろしいのです」
婚約破棄をしたばかりの今、その話が伝われば世間はセインレイム家に同情するだろう。そして、両親は娘想いの心優しい両親として伝聞される。
プライドだけが高い彼等にとっては悪い話ではない。しかも、周囲の同情をセインレイム家に向けさせることにより、婚約破棄をした側であるクロードの家に非難の目も向けられる。
「婚約破棄早々に娘の婚約者探しをする親……というよりも、婚約破棄で傷ついた娘を慰める親……周囲が向ける視線がどちらに優しいかは、お父様ならお分かりになりますでしょう?」
「う……む……」
もう一息。
パトリシアは更に捲し立てた。
「お二人が住みやすい別荘地の候補は既に選んであります。郊外ではありますが過ごしやすく、シーズンオフには貴族が集まりやすい場所ですわ。少しばかり値が張りますので、そこはお二人には頑張って頂くことになりますが……そしてわたくしにつきましては、湖水地方の田舎の修道院に行きますので、私の修道院行きは露見しないことをお約束致しましょう」
「湖水地方の田舎? そんなところあったか?」
「はい。山を越えた先に小さいながら町がございます。あまり貴族が訪れる場所でもございませんので、顔見知りに見られることも少ないでしょう」
「………………」
両親が黙った。
パトリシアはこの瞬間、勝利を確信した。
それは前世でプレゼンテーションがうまくいった時の高揚感に似たものがあった。
ああ、この感じ。
パトリシアは優雅に微笑んだ。
「さあ。お父様、お母様。いかがでしょう?」
数日後。
パトリシアは荷物をまとめ、長く暮らしていたセインレイム家の正門に立っていた。
長い旅になるだろうことから、ワンピースに厚手のコートを着ている。靴も長時間履いていても足を痛めない慣れたブーツ。帽子だけは令嬢らしく、可愛らしいデザインのものにした。
髪は編み込みで一つに束ねている。
「もう出発できますか? お嬢様」
「ええ。ありがとう、カイル」
旅の馬車を手配してくれた従者のカイルが御者と共にパトリシアの前に来た。手際良くパトリシアが持っていた大きな鞄を取ると馬車の中に詰め込む。
カイルは長くパトリシアに仕える従者の一人だった。
元々はレイグ商会に仕えていた平民の少年で、レイグ家とセインレイム家の婚約と共に両家の繋がりとして遣わされた従者でもある。
幼い頃からの付き合いからか、お嬢様呼ばわりする割に時々タメ口を吐くぐらいには親しい友人関係でもあった。時々パトリシアの我が儘に付き合わされてうんざりすることもあっただろうが、それでも付き合い良くパトリシアに仕えてくれた。
彼こそパトリシアにとって唯一の友人であり、唯一の切り札でもあった。
婚約破棄が為された今、カイルの処遇はカイル自身に委ねている。
今はパトリシアの側仕えとしていたが、パトリシアがいなくなった後については分からない。
「お嬢様。本当に田舎に越しちまうんですか?」
「ええ。今まで本当に世話になったわね。特に資料作りは貴方がいなくてはできなかったから、本当に感謝しているの」
婚約破棄に関する資料から両親へのプレゼン資料の情報は全てカイルから仕入れた情報だった。
前世を思い出したからといってパトリシア自身には情報を手に入れる力は無かったため、外部の力を借りた。それがカイルだった。
カイルは頭の回転が早く、始めこそ我儘な令嬢が何を言い出すのかと警戒していたが、集めた資料をまとめるパトリシアの姿を見て気持ちを入れ替えた。
その頭の回転の良さは、カイルが商人として優れている証明でもあった。
「せっかくの上客がいなくなるんで寂しいですね。また必要があればいつでも呼んでくださいね。今のお嬢様なら喜んで行きますよ」
「ふふ。その頃の貴方はきっと独り立ちしていそうね」
パトリシアはカイルへの報酬金が入った袋を手渡した。前々から貯めていたパトリシアのお金をほとんど情報のために彼に渡しているが、それでもクロードから受け取った賠償金により倍になって戻ってきた。
「本当、今のお嬢様は別人みたいですね。あの頃のお嬢様も嫌いじゃなかったですけど。やっぱ女ってのは
失恋で変わっちまうんでしょうかね」
「あら、カイル。それは違うわ」
カイルはパトリシアが以前と大きく変わったのは、クロードに振られたからだろうと考えていた。
パトリシアは人差し指を口元に当てて、内緒話のようにカイルに囁いた。
「女は初めから別人のように殿方に振る舞うものなのよ」
「…………お嬢様。あんた本当に十六歳です?」
まるで男を手練手管に操っている女性のような発言に、カイルは引きながら聞いてしまった。
そう。以前にはあったパトリシアの若く幼い雰囲気が、今のパトリシアには微塵も感じられなかった。
「十六歳なんだけど、精神年齢だけが上がっちゃったみたい」
「なんですかそりゃ」
本当のことなんだけれども。
パトリシアは笑った。
その笑顔は、何一つ変わっていないなと。
長年傍で、可愛らしいお嬢様を見守ってきたカイルは目を細めながらそう思った。
「そうだ。渡すの忘れてた」
カイルが慌てて手に持っていた小さな荷物を手渡してきた。
「あら、なあに? これは」
「平民の服だ。絶対役に立つから持っていってください」
「そう? ……どうもありがとう……」
受け取った荷物を握り締め、パトリシアは心から感動した。
前世の記憶を思い出すまでのパトリシアは、自分で言うのも何だが良い娘では無かった。恥ずかしい行いは数知れず。けれども、悪い人間では無かった。
味方も少なく、自身の感情の置き所も分からない少女だったパトリシアにも、こうして心配してくれる友人がいたことに。本当に、心から喜んだ。
「ネピアに着いたら手紙を書くわ。貴方にとって益になりそうなことがあったら第一に連絡するから」
「ははっ……! 期待しないで待ってるよ。元気かどうかだけでも知らせてくれればいいからさ」
「ええ、勿論……!」
馬車に乗り、出発する間もずっとカイルに手を振った。
両親すらも見送りにこないパトリシアにとって唯一とも言える友人の姿が見えなくなるまで。
ずっと、ずっと。
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