第二条(前世)
広大なコーネリウス大陸を治めるユーグ大帝国の下、大陸に住む者は大帝国の法に則って生活をしている。
大帝国の法則は細部に至るまで定めており、専門分野ごとに細分化した法規が国文書に認められている。
勿論、婚約及び婚約破棄に関しても。
「婚約誓約書には、一方的に婚約を破棄した場合には金銭賠償を行う記述がありますことはご存じでしょう?」
「そ、それは……まあ……」
「また、不当に婚約を破棄された場合について、大帝国憲法では破棄した相手側に対して損害賠償を請求できるともありますが、その金銭額については明記しておりません。そしてそれは、婚約誓約書にも」
「そうだけど。一体、どうしたんだいパトリシア」
淡々と捲し立てるように語るパトリシアの姿が、クロードの知る彼女とは別人すぎて、思わずクロードは口を挟んだが、彼女の睨みによって口を即座に閉ざした。
「それでは、こちらの資料をご覧ください」
パチンと、軽く手を叩けば二人の執事が入室してきた。手に持った書類をクロードとパトリシアに渡すとすぐに部屋を出て行った。
また、一名執事とは別に身なりが整った男性が入室し、端に置かれた机に座った。何の説明もなく入室した男性が机いっぱいに書類を取り出し、寡黙なまま書類に何かを書き記している。
クロードは混乱する状態の中、受け取った資料に目を通し。そして固まった。
背後から覗いたアイリーンの息が掛かった従者もまた表情が凍っている。
「こ、こ、この額は………」
ブルブルと震えた手が止まらないクロードに、パトリシアは微笑んだ。
「慰謝料額ですわ」
「大金すぎだ! あまりにも現実的じゃない!」
「そんなことはございません。資料の続きを読んでくださいます?」
パトリシアは心外とばかりに資料の下部分を指したので、クロードは従うように続きを読んだ。読んで、更に震えが強まった。
「婚約破棄に伴い、わたくし側が負うであろう精神的苦痛、社会的地位の瑕疵、それに我がセインレイム家の後継者白紙化による一族への賠償額、後はそう……今まで貴方との交流会に掛けてきた交際費と、婚約手続きに伴う諸経費も全て加えました。特に金額が大きく見えてしまうのは、婚約に関わる宣誓を宮廷教会で実施したからですね。そちらの費用が大部分を占めていますわ。過去の記録なので不明部分も多いのですが……そこは見逃しましょう。そちらに書かれた数値には全て理由が記載されておりますので、金額的には相当であると法務官からも承認の判を頂いておりますわ。ほら、一番下に署名がございますでしょう?」
「そ、そんな………いつの間に、こんなものを用意したのか…………?」
「勿論です。クロード様が浮気をなさっているなんて周知の事実ではありませんか。いつ婚約破棄されても問題がないように準備する方が当然ではございません?」
誕生日にエスコートをしない婚約者。
プレゼントも適当に誰かに用意させたであろう、パトリシアの趣味と一致しないような物。
加えて周囲の友人からは嘲笑され、愚かだったパトリシアも気付かなかったわけではない。
それでも、何もできずに悔しい思いをしていたのだ。
自分の力では何も出来ないと諦め、破滅の道に追いやられるのだと苛立つ父と母を陰で見るしか出来なかった、幼い少女だったパトリシア。
けれど、それは違うと分かったのは。
パトリシアが前世の記憶を思い出してからだった。
「このような事を、父と母と話さずに決められることではない! 今すぐ父達に連絡を……」
「あら。そんな必要はございません。婚約を決めた頃は未成年である十歳の頃でしたけれど、今の私達は成人した十六歳。全ての事について決定できる立場ですから。それにクロード様はつい先日、商会の引継ぎを行われたのでしょう? もう立派な社会人ですわ」
絶句する元婚約者に対し、「何よりもですね」とパトリシアは続ける。
「貴方が招いた不始末を、貴方自身が拭わないで一体誰が拭うと言うのですか」
例え裏では企みがあったとはいえ、策に堕ちたのはクロード自身。甘い誘惑に負け、婚約を破棄したいと明言したのは彼自身なのだから。
「…………………パトリシア……」
「愛しいクロード様。どうかこちらの書面に署名をお願い出来ますか? 今、この場で署名をして頂けるのであれば、多少賠償金請求額をおまけして差し上げますわ」
にっこりと、パトリシアは書類を持って元婚約者に迫った。
もはや逃げ場は無いのだと。
獣を窮地に立たせる狩人の如く。
今のパトリシアにはその迫力があった。
「それでは、こちらの書類を急ぎ裁判所に提出をお願いします」
「かしこまりました」
部屋の隅で婚約破棄に関する裁判書類の手続きを作成させていた男に依頼をすると、深く頭を下げて部屋を出ていった。彼の鞄には、先ほどまで部屋で話をしていたクロードの署名が入った書類がある。この書類を裁判所に提出させれば、クロードの親族にもパトリシアの家族にも邪魔されることなく、スムーズに金銭を受け取ることが出来るだろう。
「思ったより呆気なかったわね……」
暗くなった景色を窓辺から覗きながら、パトリシアは一息吐いた。手元に残した書類の控えを眺めながら、次はどう動くべきか考える。
先を見通す考え方が身に付いたのは、パトリシアの前世であった彼女が常に持っていた思考だったから。
パトリシアにしてみれば、もっとクロードが反論してくると思っていたのだが、彼自身パトリシアに負い目があるのか、はたまた賠償金額が払える範疇内であると判断したのか、思ったよりもスムーズに書類に署名をしたのだ。
改めて婚約破棄が成立したことに、胸の奥で眠っていたパトリシアの恋心がしくしくと泣いていた。いくら前世の記憶を思い出したことにより並の令嬢よりも精神年齢が上がろうとも、パトリシアはパトリシアなのだ。幼い頃から約束を交わし合っていた婚約者であるクロードに対し情が無いわけではない。クロード自身も同様で、だからこそ先にパトリシアと話を付けたいと思ったのだろう。まあ、それを利用して賠償金に関する手続きを進めてしまったのだけれども。
「仕方ないと分かっているでしょう? パトリシア。わたくしが動かないと、後々痛い目に遭うのはわたくし自身なのだから」
窓辺にコツンと額を当てて、自分に対して声を投げかける。
もし、クロードの両親とパトリシアの両親が話を進めていれば、今提示した賠償金額は請求できないだろうし、パトリシアの両親は娘の次の婚約者を探し始めるだろう。金で娘を売るように、高額を請求できる相手なら誰でも良いと。
一度婚約が破棄された令嬢には、たとえ己に非が無くとも名に傷がつく。そんなパトリシアを娶りたいなどという輩に良い相手は来ないことは、考えなくても分かる事。
だからこそパトリシアは急いで行動に移した。
必要な書類を、必要な知識を、必要な手続きを全て先に進めておいて事態が起きることを予想した。
その手順は前世で培った経験から理解している。
事態の前に予測して行動することを。
明示された法律が全てであることを。
そしてその法律の抜け道を、上手いように運用していくことも。
パトリシアが前世を思い出したきっかけは、彼女が十六歳の誕生日のこと。
きっかけは単純だった。
パトリシアの誕生日、彼女はセインレイム家の邸内にあった小さな池の側でガーデンパーティ形式に誕生日会を開こうとしていた。
十六歳と言えば、貴族としても大人の一人として認められる年齢となる。
その記念すべき日を、パトリシアは盛大に祝って貰えると信じていた。否、信じたかった。
しかし当日。
招待した者から断りの文が来たり、急病だという使者が来たりと招待した人数の半数しか訪れなかった。更に追い打ちをかけたのは、彼女の婚約者であるクロードがエスコートに来なかったことだった。
これには周囲から影で笑われパトリシアは大きく恥をかいた。
そして、沢山届くと思われたプレゼントは想像以上に少なくその事は更にパトリシアを怒らせた。
それでも、貴族の一人である自負はあるためその場は多少気まずい空気の中、どうにか誕生日会を終えられた。
事はその後に起きた。
招待客を全て帰した後、パトリシアはメイド達に怒りをぶつけた。
「どうしてわたくしの誕生日なのにこれほど贈り物が少ないの!」
「急病って何よ! 皆わざとに決まっているじゃない!」
「クロード様はどうして来て下さらないの! あれほどお願いしていたのに……どうして……!」
パトリシアとて分かっていた。
気位だけが高く、平民に嫁がなくてはならないほどセインレイム家が困窮していることも。
そのセインレイム家も別の貴族に圧され、失墜しそうであるという雰囲気も。
パトリシアを甘やかしていた父が、最近では帰宅しても苛立ちパトリシアにあたることもあった。
でも、それでも誕生日ぐらいは自分のために祝いたかった。十六歳はユグドゥル大帝国の法律上、成人年齢でもあるのだ。
最後の子供としての幼くも我が儘な願いは、無残にも砕け散ったのである。
「どうして……! もう嫌!」
落ち着いてくださいと彼女を止めようとする使用人の腕を振り払った瞬間、体のバランスを崩し。
「あっ」
バシャンと、パトリシアは庭園にあった池の中に落ちた。
溺れる中、彼女失う意識の奥底に眠っていた前世の記憶が溢れかえるのを感じ取っていた。
『先輩〜! データがフリーズしちゃいました! もう資料作れません!』
『……斉藤さん。前にも言ったけれど、サーバーからデータを上書きしちゃうとサーバーに負荷が掛かるからデスクトップで作業してって言ったわよね……』
『す、す、すみません〜!』
『主任! 相手先への請求額をこんなに膨らませちゃっていいんですか?』
『当然でしょう? こちらは技術派遣料として1時間あたりのサービス料をこの金額で明示しているのに、担当が押されて言えないでいることを利用してしょっちゅう呼び出していたんだから。だからこちらで報告書を記載して向こうに判を押させてるし。あと、先方の部長にはもう報告済みだから。大丈夫』
『了解しました。って主任……パソコンから手離さないで話をしてたんスね……』
前世のパトリシアは、とにかく仕事の遣り手だった。厳しく、相手の隙を突くように仕事を進め、業務の効率と売上を求めた事務員だった。
出世欲は無かったものの、気付けばその圧力からか主任に昇進していたけれど、前世のパトリシアは何一つ変わらずに、目の前にある業務に対し熱心に励んでいた。
頼りにならない上司や部下を叱咤し、業務の範疇を越えるような取引先にも躊躇なく口答えをする姿勢から、何故か鉄の主任と呼ばれていた。
常に人の様子を見抜いて仕事を進めていた彼女だけれども。
自分のことには無頓着だったためか。
健康診断をすっぽかした代償に、彼女の身に潜む病に気付くことが出来ず。
四十を手前にして永眠した。
その生き様を、パトリシアは思い出したのだ。
誕生日会の翌日、目を覚ましたパトリシアは世界がまるで変わったような感覚がしていた。
全てを思い出した上で、今の自分を振り返る。
鏡に映る人形のような容姿やドレスを着た自身の姿を眺めながら、前世での自分の性格を思い出し。
「…………ないわ…………」
恥じた。
とにかく、パトリシア自身を恥じた。
我が儘放題、考え無し。周囲に配慮しないで癇癪を起こしっぱなし。
「今の私、新人の斉藤さんみたいだわ……信じられない……使えない……!」
前世を思い出さなかった頃のパトリシアは、十六歳になったばかりのまだ幼い少女だった。
けれど前世を思い出した今、パトリシアの中には前世で三十年以上の培ってきた経験と記憶があった。
その結果、パトリシアは今までの自分を恥じたのだ。
そして、これからは己に恥じない生き方をしようと心に決めた。
派手なドレスもやめたし、時間だけがかかる髪型もやめて三つ編みだけにした。
精神年齢が上になってしまったためか、若々しい装飾品にも興味が失せた。それでも思い出す前から好きだったぬいぐるみや嗜好品は変わらないので、自分の好むままに色々変えていった。
過去の恥を捨てて、パトリシアを嫌っていたであろうメイドにも優しく接した。
そうする内に何人かとは打ち解けていった。
以前から決められていた婚約者とも数回会う機会があった。クロードは、時々パトリシアを不思議そうに見ていたものの、変化に気付かない様子だったので、パトリシア自身どこか安堵していた。
ただ、この時点で周囲の情報を収集していたパトリシアは、このままでいけばクロードが婚約を破棄するだろうことが予想出来ていた。
そして前世を思い出したパトリシアの人生設計上、クロードには自らの手でもって婚約破棄を宣言してもらわなければならなかった。
(想定内の行動をして頂いて感謝しますわ。クロード様)
パトリシアは優雅に微笑んで、もう一度婚約者へと想いを馳せた。
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