婚約破棄の必要手続きはお済みですか?~辺境傭兵団のマニフェスト〜

あかこ

婚約破棄

第一条(婚約破棄)

「パトリシア。君には悪いと思っている……どうかこの婚約を破棄してもらいたい」



 パトリシアと彼女の婚約者であるクロードとの定期的な交流会で、クロードはそのように切り出してきた。

 互いにテーブルに掛け、優雅にお茶を飲みながら他愛のない会話を愉しむ場は一瞬にして凍り付く。その場で空気のように立っていたメイドや給仕達の空気がパトリシアにまで伝わってくる。


 当のパトリシアは静かに紅茶を口に含んでいた。優雅にソーサーを持ちながら音を立てないようカップを口に当てていたところだ。

 もしこれがごく普通の、それこそ以前のパトリシアだったらガチャンと音を立てて熱い紅茶を膝に零していたことだろう。

 銀色の長い髪を三つ編みに結い左肩側から垂らす若き女性。彼女を幼い頃から知る者には違和感ある髪型だと思うだろう。何故なら以前のパトリシアはもっと派手な格好を好む少女だった。だが、今のパトリシアの服装は極めて大人しく、悪い言い方をしてしまえばだいぶ歳を取った婦人らしい恰好であり、十六を過ぎたばかりの少女にしては質素であった。


 黙っているパトリシアを見て何を思ったのか、クロードは言葉を続けた。


「君との婚約は親同士で決めたことで僕も従うつもりだったけれど、僕は見つけてしまったんだ。本当に愛する人を」


 かっちりとワックスで固めた髪に茶色の瞳の青年、クロード・ライグは名のある豪商の長男だった。次代のライグ商会を担う長男として甘やかされながらも厳しく躾けられていた青年は十八歳にして真の愛に気付いたのだと、熱心に婚約者へぶつけ始めた。

 平民ではあるもののライグ商会の長男クロードと伯爵令嬢であるパトリシア・セインレイムが婚約を決めたのも、一重にライグ家とセインレイム家の利害が一致したからに過ぎない。

 ライグ商会は平民から貴族にのし上がりたかった。セインレイム伯爵家は領地の経営が思わしくなく、残された遺産が伯爵という身分だけであった。

 互いが暗黙に協力しあうようになったのは言わずもがなである。


 ライグ家は豪商として名を揚げたばかりではあり、信用度合いでいえば老舗の商会や貴族と縁を持つ他の商会に勝てなかった。更なる成長を遂げるために、他の商会に蹴落とされないための後ろ盾として貴族と繋がりが欲しかったのだ。


 セインレイム家は辺境な地区とはいえ領地を任される伯爵であった。かつて先祖は国の将軍として名を馳せた一族だと言われているが、剣技で功を成したためか領地経営には疎く、代替わりする度に綻びが見え始めていた。それでいて気位だけは代ごとに増幅していき、結果困窮の末路となったのだ。


 ライグ商会長となったばかりのクロードと、伯爵令嬢パトリシアとの結婚が果たされれば晴れてレイグ商会は貴族の仲間入りをし、困窮していた伯爵家の財源も安泰するだろうと考えられていた。


 だが、どうやら事態は思い通りに進まないらしい。


「僕の愛する人は君も知っているだろうけれど……アイリーンなんだ」

「あら。そうですの」


 アイリーンはパトリシアと交流を持つドナルド家の子爵令嬢だった。

 セインレイム家よりも領地は小さいが、豊かな資源と資金を有している。領地内で織られる絹が上質で、定期的に王国に献上しているためか金銭的な余裕も強く立場こそセインレイム家の方が大きいが、政治的な実力はアイリーン・ドナルド子爵の方が勝るだろう。


 パトリシアは静かに溜息を吐いた。

 どうやら父と母は政略において完全敗北したようだ。

 そしてパトリシア自身も、いつの間にかアイリーンに喧嘩をふっかけられていたらしい。

 かつての友がほくそ笑む姿が目に浮かぶ。


 だとすればこれ以上の抗議は無用。

 セインレイム家が事を大きくすればするほど、事態が悪化する未来が見えた。


 そこでようやくパトリシアはソーサーをテーブルに置き、クロードに向き合った。


「このお話、父にはお伝え下さったのかしら」

「いや。まずは君に伝えるべきだと……その……アイリーンが」

「あらあら」


 どうやら既に手玉に取られているようだ。

 パトリシアは横目でクロードと共に付いてきた従者を見た。普段見慣れない従者はつまり、そういうことだったのか。


(わたくしの恥をかく姿を確認しに来たのね……)


 底意地の悪さで定評のあるアイリーン。実のところ、以前のパトリシアもそこそこに定評悪い立場ではあったのだけれども。まあそれは置いておいて。


 婚約破棄されるパトリシアの恥をかく場面を報告するために訪れたらしい従者に対し、パトリシアは優雅に微笑んでみせた。すると従者の男性は驚いたように姿勢を正す。

 パトリシアにしてみれば、それだけこの場の話を事細かに伝えてくれるのであれば、是非話を聞いてもらいたい。


 何故ならパトリシアは喜んで婚約を破棄するからだ。


「クロード様。顔を上げてくださいまし。今のお話、しかとパトリシアは理解致しましたわ」

「パトリシア……! 本当に……?」


 嬉しそうに顔を上げ、果てはパトリシアに近づく勢いでテーブルから身を乗り出すクロードに対し、パトリシアは天使のように優しく微笑んだ。


 一瞬、クロードは胸がドキリとした。


 普段会っていた時のパトリシアは、可愛いとは思っていたものの幼い少女のようだった。はっきり言えば妻というよりも妹のような感覚だった。

 けれども今、クロードの目の前にいるパトリシアはまるで打って変わったように大人びていた。

 大人び過ぎていた。

 それにクロードはパトリシアの言葉が信じられなかった。

 あの我が儘で気位が高い彼女が、そう素直に承諾するとは思わなかったからだ。


 確かにここ最近の彼女は以前と見違えるように大人しかった。

 それまでのパトリシアは派手なドレスを着てクロードに甘え、流行の劇を見に行きたいだの欲しい物が出来ただのとねだり、それが叶わないとヒステリックを起こすような少女だった。

 それが実の両親に関心を持たれなかったために起きる甘えであると教えられても、正直クロードとしては婚約の話がない限り遠慮したいぐらいではあった。


 それが、ここ数回の交流会で会う度に彼女は見違えるほど変わっていった。

 派手なドレスは着ずに落ち着いたワンピースを着用し、華やかさに溢れていた髪の装飾は全て無くなり三つ編みの一つ結び。その姿は修道女のように落ち着いていた。

 以前は会話もパトリシア自身のことばかり話していたのに最近では逆にクロードの話を率先して聞くことが増えていた。

 その様子に違和感はあったものの、それまでのパトリシアを知るクロードとしてはきっと誰かに叱られ、注意された上での行動だろうと思い記憶から忘れていた。


 だからこそ、今こうして婚約破棄を申し出たクロードに対し、怒りをぶつけることもない彼女に心底ほっとした。


「そうか。分かってくれるんだね……! ありがとう……」

「ええ、ええ。クロード様。仰りたいことは分かります。婚約破棄をなさりたいという事も重々承知致しました…………ですが」


 優雅な空気が、ピシャリと凍り付いたのはその時だ。



「婚約破棄に関する必要手続きはもう、お済みですか?」



「…………え?」






 パトリシア・セインレイム。

 十六歳になった年、彼女は前世を思い出していた。


 鉄の主任と会社で呼ばれていた、かつての自分の生き方を―

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