第百三十一話 チェイン

 一寸先も見えないほどの朝霧が、アルドラの街を包んでいる。


 東城は椅子に座ったまま、眼を閉じている。そのうち耳に伝わる靴音で腰をあげた。


 現れたのは藤枝である。彼は東城の隣を過ぎて、教会へと入った。


 足取りは重く、服は小枝と泥で汚れていた。


「いなかった」


 呟き、倒れそうになったところを東城が支えた。


「悪いが伝えなければならんことがある。寝るのはその後だ」


 藤枝は腕を引かれるままに墓地まで案内された。


 墓所の隅の方にそれはある。人目を憚る彼の生前そのもののようだった。


「レント」


 そこに驚きはなく、ただただ胸が痛んだ。その隣には、友人としてだろう、意向も遺書もないが、信者がそうした。


 墓標には、シーカとある。藤枝は眼を見開き、東城の胸ぐらをとった。


「すまん」


 殴られるだろうと思っていた。そしてその通りになった。だが頬にあたる拳に生気はなく、薄汚い乾いた泥がつくだけだった。


「チェインの名の下に俺たちは集まった。偶然を信じて……運命をぶっ壊すって……それで、それでこの結果か」


 神様なんていなかったんだ。藤枝の痛哭は、東城だけが理解できる。彼はすでに、その境地へと至っている。


 藤枝は東城から手を離し、そして血走った眼を輝かせた。


「おい九郎」


 剣を抜く寸前に、藤枝が虚空を指差した。


(狂ったか)


 しかしそうではないらしい。


「誰だあんた。あんたも神か」


 一人で何者かと会話をしている。突然に現れたらしいその存在の神出鬼没さと神という言葉に、東城は舌打ちをする。


「運命を——やり直すだと?」


 藤枝の視線の先に剣を振った。しかし不可視の存在と転生者はもうこの世界とは切り離されたかのように、朝霧を切り裂く剣にも無関心だった。


「まさか俺の領域でこのような荒技を……さすがはフォルトナといったところか」


 シーカの墓に腰掛ける少女がいる。黒地の着物姿の彼女は、東城に微笑みかけた。


「怨敵の使者よ。初めましてだな。俺はチェイン、偶然を司る神だ」

「ここに貴様らを埋めることができるのならば、世の中は今よりずっとまともになる」

「それでこそ貴様だ。俺を嫌ってくれても構わんが、ちょっとまずいことになっているのでな、話だけでも聞いてくれ」


 藤枝は朦朧としながらも、会話を続けている。肩を揺すっても反応はなく、ただ霧に向かって不明瞭な言葉を並べていた。


「貴様のせいでせっかく連れてきたコイツはぶっ壊れてしまった。それにフォルトナが出張ってきた以上、俺も傍観はできん」

「貴様らが俺に話を持ちかけるときは、全てが悪事だ。うせろ」

「勝手に話す。興味があったら質問しろ。おそらくフォルトナは藤枝の運命をねじ曲げ、過去に戻そうとしている。その時期まではわからんがな」


 俺が転生をさせるよりも昔かもしれん。チェインはそう言って墓から降りた。


「だからなんだ」

「過去に戻るということは、歴史がおかしくなるということだ。平行世界のこととはいえ、ここに影響がないとも限らん。運命とはそうあるべきではないし、自然や偶然ではない物事の切り替わりは糞だ。気に入らん」

「だから、なんだ」


 チェインは少女の笑みで、手招きをした。東城に屈めという。

 青筋を浮かべながらもそうすると、頬を鷲掴みにされた。


「運命とはそうあるべきではない。それはフォルトナが一番よく知るところ。だから、俺もねじ曲げる。お前を過去に飛ばし、この世界を引っ掻き回してやる」


 白刃が少女を薙いだが、着物すら破れない。


「転生させるのは結構な大仕事でな。この機を逃せば神殺しは成らん。藤枝を使っての乾坤一擲の策も貴様によって潰えた。ならば全てをぶっ壊す。神の喧嘩とはそういうものだ」


 華奢な手首を掴んだ。一呼吸ののちに引き剥がすと頬に爪が刺さっていた。


「ほ。なかなかやる」

「意味がわからん。それと俺に触れるな」


 チェインはそれを無視して胸ぐらを掴んだ。


「藤枝は、過去からやり直すことを選ぶはずだ。力をつけ、死んでもフォルトナの外法により復活する。そしてまたお前の前に現れる。現れたらば、それはお前を殺せる算段がついているということよ」


 だから、お前もやり直せ。同じように力をつけろ。チェインの名の下に偶然を装いやつを殺せ。全てはフォルトナを誅するためだ、ことわりも運命も、偶然すらも糞だ、奴の好きにさせてたまるか。


 東城の足元に黒い穴が空いた。掴まれている胸ぐらが唯一の支えである。


「なぜ貴様は落ちない」


 チェインもその穴の内側にいるのに、彼女は宙に浮いたままだった。


「神だからよ。ま、信じぬだろうがな」


 落下、見上げるとチェインが叫んだ。


「俺に声をかけろ。さすれば応える」

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