第百六話 夜逃げ
「あれ? 皆さん?」
東城らが寝ている寝室をノックしても返事はなく、そっとドアを開けてみると、もぬけのからである。一通の手紙がベッドの上にあった。
「一宿の礼は必ず。……ああ、気を使わせてしまった」
東城の殴り書きである。窓からは風が吹き込み、彼らがいたにおいまで消えているようである。
「ベッドメイクをしたら、この部屋も使っていただきましょう」
この珍事にも頓着せず、彼は掃除を始めた。巡礼者が多い場所では、夜逃げ同然の事態も少なくないらしい。
「シーツのシワくらいは綺麗にしたかったのに」
馬車は車輪が壊れる寸前である。猛スピードにより車体の軋みも凄まじい。その車内にいる二人の少女なのだが、特に気にしていないようである。
「その通り。その時間があればもう少し寝ていられたのにさ」
バンローディアは東城に担がれて、馬車のなかにもののように放り投げられた。愛馬はそれを確かめるかのように蹄を鳴らし、鞭がなくとも走り出した。
いい加減な舗装の街道を北に向かって進んでいる。次なる街も確認せず、ただあの場所を離れなければならないという強迫観念があるようだ。
「理由も聞かされないで馬車の中だ。何があったのか説明が欲しいね」
声の音量がいつもより大きいのは、壁や床の軋みのせいだろう。振動から時々体が椅子から浮いた。
「チェイン信者の方々と鉢合わせたくなかったそうです」
それだけでバンローディアは理解した。「了解。夜襲を嫌ったわけだ」
「ええ。そうだと思います」
「それに寝ている私らを起こすのも嫌だった。ジェネットは平気かい? 何もなかった? 例えば寝ている間に担がれて、身支度も何もないままで馬車の中だったとか」
着替えだってさっきしたくらいだ。そう言って着衣の乱れを直したが、振動のうるさい馬車だから意味はなかった。
「あ、こうされました」
とバンローディアの体を引き寄せた。
「あの野郎! ふざけるんじゃねえ、根性なしのくせになぁに手ぇ出そうとしてやがる!」
「へ? いや、私がよくなかったんですよ?」
詳細に説明をすると納得したのか怒声はやんだ。心なしか馬車の速度も落ち着きを取り戻している。
「……あいつの目の前で服を自慢したかったのね。そしたら危ないってことでとっさに抱きかかえられて、それで嬉しくなったと」
「別に嬉しくはないですけどね。でも上手だって言ってくれました」
「ん、本当だね。よくできてるよ」
祈りや観光以外では、裁縫をしていたりもする。服を一着つくってからは自信が生まれたのか、その姿を東城も何度か目撃している。
「曲がってるところが綺麗だねって言ってました」
「私から見れば売り物みたいだもの。また服をつくってやんな。お姉さんも手伝うからさ」
「えへへ。バンさんの分も準備しますから楽しみにしていてくださいね」
「嬉しいね。私からも何か準備しよう。交換だ」
馬車が止まった。街道から離れて林にいる。ドアを開けた東城は、素晴らしいくらいの微笑みだった。
「昼にしましょう。朝飯も——」
「そんなにニコニコしてご機嫌伺いするくらいなら最初からするんじゃねえ」
悪態を真っ直ぐ受け止め、そのままの表情で謝罪した。しかしあまり悪びれてはいない。
「バンさんなら俺の意図を汲んでくれるかと」
「……理解と慈悲に溢れたバンローディア様に感謝するように」
のっそりと馬車から降りて昼食の用意をするバンローディアだが、まだジェネットが残っている。
「降ろしてもらえますか」
「え? ああ、はい」
脇に手を入れて地面にそっと足を触れさせた。高さは一メートルもないため、彼女にとっては平地と同じような感覚のはずである。
「ありがとうございます」
首を傾げるジェネットに、東城も困惑している。抱きしめられた時に、また下っ腹が疼いたらしく、何が原因かを探るための実験だったようだが、
(なんともない。なんでだろ?)
「足でもくじきましたか?」
「いいえ。なんなのかはわかりませんけど」
(この人も時々よくわからないな)
わがままだけの人物ではない。年相応の無邪気さと大人顔負けの度胸がある。しかし今の行為は理解できなかった。
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