第七十四話 涙の理由
「また顔を見せにきてください。いつでも歓迎しますから」
ファイは依頼金として、ジェネットの齢くらいの少女に与えるには破格の額を出した。
(貰えるものはもらっておけばいいのに)
こんなにいただくわけにはと遠慮するジェネットに口出ししようとしたが、彼自身、服をもらった時に平伏したことがある。その俺が何を言っても無駄だとして微笑むだけにしておいた。
「これには依頼の報酬と、ハーベイが手間をかけさせた謝礼も含まれています。お使いも頼んだのですから、これでも少ないくらいですよ」
有無を言わさず押し付けた。「旅路の門出でもありますから」と気前よく、彼女自ら馬車の支度までやった。祈祷師だからではなく、ジェネットたちだから甘くなった。
「いい人ですね」
その日の晩に、焚き火を囲む中での東城の感想はありきたりすぎたのか、少女たちはそんなものでは済まないと妙な反抗をした。
「とびきりのいい人です。ファイ様のようなお方は他にいませんよ」
「実際すごい人さ。騎士団でも有数の人格者だ」
剣の腕も確からしく、いつかの騎士団で催された大会で優勝したこともあるという。
「おまけに経理だの軍略だの応接だのって、なんでもできちゃうんだから貶すところが見つからない」
「貶すって、そんなことをする人がいたらきっと神様が許しませんよ」
久しぶりに、日常の中で神を耳にした。最近のそれはなりを潜め、ジェネットの祈りの誘いをのぞいては夢か現かというようなものだった。
慣用的な表現なのだろうが、ゾッとした。
死ぬ前だったら、激怒していただろう。上官や先輩であっても不機嫌が顔に出ていたはずである。
しかし苛立つものの、ジェネットさんのすることだからと怒りを殺している自分がいた。それが恐ろしくなった。
(殺せる程度の嫌悪か)
この世には神も仏もないと本気で信じたあの瞬間が嘘のようである。
しかしその激情は今も胸にある。神と聞くだけで鳥肌が立っていた時期もあったし、今も自然と腕を撫でているのは、その嫌悪からだろう。
肉体にはそれがはっきりとある。しかし、憎悪は現に殺せている。
(なんだこれは)
東城九郎は変わった。俺を知る誰かが今の俺を見れば腰を抜かすだろう。
激怒したくはないが、自然と滲んでくるのは仕方がない。その発露を押しとどめることに成功している。
そんな心境と言動の変化に恐れ慄いた。
「神か。やはり俺は好かん」
口の中で噛むようにして呟いた。この世界の人間ではないし、俺に人外の助力はなかった。だからいない。すがるものではない。信じても無意味である。
実体験があるだけに、目の前で魔法や癒しの力を見ても嫌悪は募るばかりである。
朝を迎えても、東城は昨晩の嫌悪に苛まれていた。顔つきこそ穏やかだが、手綱を引くその背中にはどうにも覇気がない。
「元気ないみたいですね」
それを眺めるジェネットは、敏感に不調を察知した。
「そう? 飯も朝からそんなにってくらい食ってたし平気じゃないの?」
「お腹でも痛いのかなあ」
「それは嫌味かい? 調子に乗って飲み食いして腹をこわした私をしれっといじめてる?」
ジェネットはバンローディアのからかいを半分もきいていない。
「私もお腹の下のあたりがたまに苦しくなりますけど、東城さんもそうなんですかね」
「食べ過ぎだよ」
「……そうかなあ」
腹くだしに効く薬草を教えてあげると言われた。しかし原因は違うように思える。本当のところはわからないので、直接きいてみることにした。
「薬草ってのは種類があるからね。服し方も多いし、ねえ聞いてる?」
「はい。今度きいてみます」
「へ? な、なんで? そんなに長く説明しないからさ。ちょっとだけでも聞いてよ」
「今はやめておきます」
会話は成立していない。それにも気がつかないバンローディアは無言になって、すがるようにジェネットにすり寄った。少し涙目でもある。
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