第五十九話 見逃さず、見逃される

「俺の手下どもが」


 ベグの声は掠れていた。東城が彼に近づく速度は散歩の時より緩慢で、恐怖に縮こまっていた残り少ない部下が、その恐怖に駆られて剣を振りかぶった。


 東城はさっと身をかわし、胴体を横薙ぎにした。骨も肉もまとめて断裂し、結ばれた口元に飛沫がかかった。

 指でぬぐい、ベグへと視線を向ける。


「残ったのは貴様だけだ」


 昨日まで、今朝まで、そして数時間前まで、この風景がこうも鮮やかな赤に染められると砦にいた誰が想像できただろう。しかも相手は剣一本で乗り込んできたどこの誰ともわからない男である。


 ベグの精神はズタズタに引き裂かれ、膝をついた。


「商家の娘に手を出したのがまずかったな」


 そう告げて構える東城に、ベグは命乞いをする。無駄だと諦めてはいるが、しないわけにはいかなかった。


「あれは部下が脅せと依頼を受けたんだ! その延長だ!」

「はっ、殺しておいて何をいう」

「殺してなんかいない! 奥の小屋で——」

「指一本触れていないとそのナタに誓えるか。俺の剣に誓えるか」

「誓う、誓って何もしていない! 金をせびるために隔離しているだけだ!」

「奥にいるのか。それならばよし」


 命がまだある、とベグは感謝すら捧げそうな表情ではあるが、東城の白刃がまだそこにある。


「その娘を連れていく。貴様にまだ仲間が残っていて、俺たちを追わないとは限らない」


 それだけで察してしまった。この男に自分を生かす気がないことを。


「ふざけるな! こ、こんなの誰だってやっている! 俺たちだけじゃねえだろ!」

「貴様のナタは、おもちゃではない。口ばかりでは謗られる世の中で自分が何者かを示すには、結局のところ力が必要になる。まあ、そんな時代ではなくなった。頭を使えということだな」


 あの頃はそうだったと回顧して、しかし軍人になってからは腕っ節よりも頭脳が求められるようになった。斬れば落着し小銭をもらって芸妓に会う。それを思い出すと、この砦に青春の風を感じた。


(どの小路だったか。どの藩だったか。忘れたが、こんな男を殺したなあ)


 抜け。と先に言った気がする。東城九郎、新撰組イヌの犬。そう罵声を浴びせられた気がする。あの時は刀があったが、手のひらには縫い込まれたようにやや幅広の剣がある。


「抜け」


 記憶をなぞるようにそう言った。「ああ、鞘はなかったな」と喉で笑う。


 無造作に間合いを詰めると、ベグは目を真っ赤にして立ち向かった。上段に構え、頭蓋を割るようにして振り下ろした。


(あの時も、こうしたかな)


 半身になってかわした。どん、と剣が地面にめり込むと、遅れて腕が二本落ちた。

 悲鳴の前に喉が裂かれ、首がそのまま落ちた。耳をすませると、周囲は無人である。小さな呼吸が二つあるが、それには目をやらず、静かに歩き出した。


「終わったぞ。参ろうか」


 と言ってから慌てて失礼しましたと叫んだ。


「天気がいいので、ぜひ空をご覧になってください。バンさんはつまずかないようにお願いしますね。お二人で手を繋ぐとよろしいかと」


 回顧して我を忘れたことだけが彼の思うしくじった箇所であり、あとは袖の血痕と、靴を洗う手間と、ジェネットの心境だけが不安だった。


「……いい天気、ねえ」

「はい。風のない快晴です」

「東城さん」


 なんでしょうといつもなら振り向くが、このときは返事だけで、近づくことをその背中が許さない。


「東城さんと手を繋いだ方が安全じゃないですか?」

「あはは、それはいけません」

「どうしてですか」

「あ、むくれないでださいね。理由があるのです」

「むくれていませんけど」

「ほらジェネット、次女さんが手を繋いでやるから。あっちの木のてっぺんを見てな。引っ張ってあげるから」

「……また子ども扱いしてる」


 してないさとバンローディアは笑う。頬の引きつりを見逃されたとわかったが、地上にある血の匂いと、惨状と、そして東城に対する引きつりの、ジェネットはどれを原因としたのかまではわからなかった。

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