第三十六話 ついで
東城はまだ何かしらの接触を危惧したが、一行は無事に陣を離れることができた。それとなく見張りをつけられて警戒はされて死者はこしらえることができなかったが、十分な報告ができるだろう。
出発すると、すぐにジェネットが傷の治療を申し出た。が、東城はまだ早いと断った。
「国境を越えて、ハーベイさんの元にたどり着いてからにしましょう」
治療が遅くなれば痕になるといわれたが、彼は一切気にしなかった。
「見たでしょう、俺の傷を。あれに比べたらこの程度はなんでもありません」
「そんなこと言って。また神様がどうのこうのって理由をつけて怖がってるだけじゃないんですか?」
「あはは。そんなことありませんよ」
神の厄介になるのは嫌だが、それがジェネットのてのひらから生み出される彼女の特殊能力だと思えば我慢ができた。治療を拒んだのは、ジェネットが祈祷師であることを帝国の誰にも、それが無人の野原を行く荷馬車の中だろうと晒したくなかったからだ。
「しかし、よくやるぜ」
バンローディアはその一言に東城の無茶への非難を込めた。
「ライネという人がああだと知っていればこんなことはしなかったかもしれませんね。しかし祈祷師がいないことがわかっただけでもこれをつくった甲斐はありましたよ」
「なんでそこでライネ様が出てくるんですか?」
ジェネットにはまだ伝えていない。それもハーベイのところでまとめてやってしまおうとしている。しれば馬車を飛び降りて逆戻りしそうだと、バンローディアは本気で心配している。
「えっと、詳細は省きますが、ひとまずは小枝に引っかかった傷とでもしておいてください」
「……隠し事ですか」
本人は睨んだつもりだが、東城は目尻を下げて微笑んだ。それが気に入らず、もっと眉根を寄せた。
「帰ったら説明させていただきますので、今はご勘弁を」
「許してやんなよ。また這いつくばられても困るぜ」
「……まあ、いいですけど」
不承を態度に出して不貞寝した。おいでと慰めるようにバンローディアが自分の肩を叩くとそこに頭を乗せた。
(いつもこのくらい素直ならいいんだけどなあ)
二人は目端だけでそれを共有した。
「な、な……あのライネって人が——!」
無事にウエクまで到着した東城たちはすぐにハーベイへと報告しに行った。
歓迎もそこそこに、東城が語り終えると、さっきのセリフを叫んだ。
自分の管理する畑を荒らした賊。そういう敵意が溢れ出てきて言葉にならないジェネットは、その怒りを向ける方向に困り、東城の腕を握った。万力で挟んだように痛む。
にこやかに痛みを堪える東城はどこかユーモラスで、バンローディアは躊躇わずに笑った。
「痛えだろうなあ! 想像もしたくねえや、あのでかい水瓶を片手で運んじゃうんだから、もげるまで耐えられるか見ものだぞおい」
「バン、余計なことを言うな。あのジェネットさん、その辺でよろしいでしょうか。これからのことを談議したいのですが」
「構いません! 私たちは少し席を外します、お祈りをしますので!」
「え? 俺も同席——あ、お祈りですね。はい、参ります」
「もう参ってる顔してるぜ。あはは」
祈りを捧げるとはいったが治療が優先された。家で包帯を外し、その血のにじみにジェネットはため息で詰る。
「ひどい怪我です……もっとお体を大切にしてください」
東城にすれば大したことのない刀傷である。放っておいてもいいくらいのものだが、それは彼の経歴がそう誤認させている。動乱をくぐってきたことが怪我を軽視させているのだが、当時でも傷を放置するものはおらず、彼だけがそんな前時代的ですらない野生の感性でいる。
「痛いだけですから」
「それが大変なんじゃないですか。じっとしていてくださいね」
ライネにされた応急処置とは比べ物にならない丁寧さである。ジェネットのかざす手が淡く発光すると、次第に痛みは薄れ、処置が終わると傷もない。
「……立派な人ですねえ」
「立派? これが私のお仕事ですよ」
「なかなかできることじゃありませんから」
認めておかなければしつこく繰り返すのだろう。ジェネットはそうですよと適当に相槌をうったが、東城は椅子に座ったまま動かないでいる。戻ろうと促すと、
「あなたはお祈りをしに来たのでしょう。ついでが先になってしまいましたが」
ついに東城が自らお祈りを、と勘違いするもやはりそうではない。議題はおそらく戦備の強化だろうから、考えをまとめておきたかった。
「神様は私たちを見てくださってます。だって東城さんがそんなことを言うなんて、これはフォルトナ様のお力ですね」
(どれ、何が必要になるかな。まずは)
熟考は祈りに似た形で行われた。傷の消えた場所がややくすぐったいのは、もしかするとフォルトナのささやかな嫌がらせだったのかもしれないが、東城はそこを乱暴に掻くだけだった。
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