第十七話 崖下から

「しかしよかったのですか?」


 アガレスティア帝国との国境には関所もなく、だだっ広い草原があるだけで、木の標札に帝国領であることが示されているだけである。


「あそこで待っていた方が安全なのに」


 東城は適当な横道にそれ、遠くにある木々に向かって進んでいる。出がけに商人から森への道をきいて、それ通りに歩いている。


「私を護衛するからってついてきた人が、お父さんから私をよろしくって頼まれている人が、自分勝手にあれこれ決めちゃうのが悪いんです」

(実に筋の通った理屈だ)


 横で憤慨しているジェネットに気づかれないよう、東城はちょっと上を向いて口の端を上げて笑んだ。快晴であり、陽光が暑いほどに照っている。


「騎士様に迷惑かけちゃだめですよ。ファイさんのお顔に泥を塗るかもしれないし、そもそもですね、東城さんは気が短いのかなんなのかわからないし、怒る時も突然だし、周りの人たちを驚かせて何が楽しいんですか」


 それに、話もあちこちに飛んじゃうし、と口を尖らせる。


「すずめ」


 東城はその唇を尖らせてちゅんちゅんと鳴く姿を雀だとおもしろがっている。それが口から出てしまった。


「は?」

「いえ、私のもといた国にですね、雀という鳥がいまして」

「それがなんですか」

「これが話が飛ぶというやつですね。すいません」


 あまりにも真剣味のない東城だから、ジェネットはおもわず手が出た。腰のあたりに拳をくらわせて「ちっとも真面目じゃない」とまたちゅんちゅん鳴いた。


「あの森ですね……あの、もう叩くのはやめてほしいのですが」

「これで最後にします。まったく、フォルトナ様に報告しますからね」


 望むところだと意気込んだが、その意気を向けるべきはあの鬱蒼とした森であると、にやけた口元をわざわざ手を使って引き締めた。

 森は快晴の午後であるのに暗く、見通しも悪い。太い根や背の低い樹林の枝葉が邪魔で一歩進むのにも苦労した。

 そういう悪路には慣れている二人でも汗を浮かべ、バンローディアの安否をおもうと余計に苦しかった。

 ジェネットが小さな悲鳴をあげて転んだ。根に足を取られたためである。


「あたた、転んじゃいました」

「怪我はありませんか」


 ジェネットの手に擦り傷がある。血も出ない小さなものだが、東城の心配ようはちょっと異常なほどで、


「今日はもう休みましょう」


 と、血相を変え周囲の平らな場所を探し始めた。


「おおげさ。このくらいなんともないですよ」

 

 あまりにも東城が騒ぐので、仕方なしとジェネットは祈りの言葉を唱えた。すると肌の擦り切れは元のみずみずしい白肌に変化した。


「治療の名目でお呼ばれしているのですから、このくらいは朝飯前ですよ」


 それでも奇術を疑う東城に、少女は教師へと変じた。


「教えたじゃないですか。どの神々でも治癒の心得はあるのです。フォルトナ様も例外じゃありません」

(そういやそんなことも言ってたな)


 忘れた訳ではなく、最初から聞き飛ばしていた。どう誤魔化そうか考えていると、足元が草花の広間になっていることに気がついた。ジェネットがつまずいた根っこがちょうど森との境目のようになっていて、生茂る樹林からぽつんと陽の射す一帯へと出ていた。

 勉強したばかりの薬草がある。しかし手に取ることはしなかった。東城がさらに奥の森に目を光らせていた。


「あちらにも光が照っている。それに水の音がします」


 崖かもしれません、と改めてここが敵の領内であることとバンローディの安否を確かめにきたのだということを肝に銘じ、


「いつでも逃げられるように。それと、逃げたら振り返らないようお願いします」


 あまりにも真に迫った声である。いやだということもできず、東城はさっさと歩き出してしまった。


(俺が敵なら、囲んでしまうが)


 戦闘になることだけをおそれた。動物のように周囲を警戒し、何度も振り返ってジェネットの様子を窺った。周囲に気配がないことを確認すると、また前進する。

 水の音が大きくなってくる。十分も歩くと森を抜け、小さな小川にぶつかった。その先はまた樹木が乱立する丘になっていて見通せないが、地図の通りなら崖があるはずだった。


「バンさん、いませんね」

「あの丘まで行きましょう」


 森はそこで終わっていた。数メートルほどの崖が散見でき、せせらぎが心地よい。緑がそこにいる者を隠すように茂り、しかしあちら側は見通せる立地になっていた。


(なるほど、よく見える)


 この森を突っ切れば奇襲をかけられる。平たい地形は守るには難しいだろうが、幾らか普請をすれば問題はないだろう、と東城は日本ではなくヨーロッパやアメリカの大平原を想像し、銃があればここから狙い撃ちができるかもしれないと発想した。そうおもうと借りたサーベルが心細くなってくるが、維新志士との戦いでも彼は刀一本で走り抜けたから、なせばなるとその柄を握り自分を鼓舞した。


(ん、誰かきやがった)


 東城はすぐにその方向へと首を向けた。崖の下からぬっと手が伸び、這い上がってくる頭が見えた。


「ジェネットさん、伏せて」


 その頭を地面に押さえた。「ぐえ」と潰れたような悲鳴がするも、既に東城は握った柄に指をかけ、白刃をわずかに見せている。

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