第五話 お勉強しましょう
「東城さん、おはようございます」
昨晩、ジェネットは東城の内面に多少ふれた。
彼女なりに考え、東城の信心のなさを改めようとしてる。まずは共に祈りを捧げましょうと誘うつもりであり、そのための準備として、清々しい朝ならば彼の気も動くだろうという魂胆である。
「お、おはようございます」
東城はその挨拶にうろたえた。彼女が、まるで人が変わったかのように見えている。
初対面の頃のとげとげしさはもうすっかりなくなっていて、名指しでの挨拶に、何か裏があるのではないかと警戒すらしている。
実際、裏がある。
「お父さんもおはよ」
ミドは頭を押さえながら、水を求め、外に出て行った。「酔っ払った次の日には井戸じゃなくて川まで行くんですよ」
ジェネットはかまわずに食事の準備をしている。東城は席に着き、配膳を待っていると、
「東城さん」
と、なんだかくすぐったくなるような声音がぶつけられた。
「はい。ああ、手伝いますよ」
「そうじゃないです。座っていてください」
どうやら家事は己の仕事だと誇りがあるようで、台所には男を立ち入らせない。配膳程度が他人に任せられる境界線だった。
「東城さん。今日はお父さんに何か仕事をもらっていますか?」
「いいえ。ですが草でもむしろうかと」
ジェネットはどうぞと飯を出し、ミドの様子を見に行った。
(昨日、何かしてしまったのだろうか。やはり過去など語るもんじゃない)
様子のおかしいジェネットを心配し、粗相があったかと怯えていると、バタンと扉が勢いよく開いた。戻ってきたジェネットはミドを肩に担いでいるのに、平気な顔をしている。
(力持ちだ)
思ったが、口には出さず、パンをかじった。
「お父さん、やっぱり眠っちゃってました」
こんなになるまで飲むから、などと文句を言いながら、そのまま寝室へと運ぶ。俺の出る幕はないなと、少し気落ちする東城である。
「そうだ!」
ジェネットはわざとらしく手を打った。
「ねえ東城さん、今日は私のお手伝いをしてください。お父さんもああですから、ね、どうですか?」
「手伝い、ですか」
食事の手を止めその顔を眺めると、何やら決意に満ちている。
「……ええ、構いませんよ」
「よし! じゃあ早く食べちゃいましょうね」
ジェネットは非常に早食いであり、そして大食でもあった。東城の倍ほどの飯を食い、しかしかかる時間は半分ほどだった。
つられて東城も飯を余計に食った。ミドのぶんまで食った。
「では準備してきますので」
そそくさと自室に引っ込み、すぐに戻ってきた。東城には準備も何もないので、椅子に座って待っていた。
が、彼女はそれが気に入らなかったらしい。
「行きたくありませんか」
表情を暗くし、東城をじっと見つめた。鞄を背負い、腰には短刀をさげ、さらには二人分はあろうかという手提げまで持っている。
「せっかく東城さんの荷物だって用意したのに」
「行きます。決して断りません」
タジタジである。珍しく狼狽して、ジェネットの荷物を持つようなご機嫌取りまでした。
山道を進んでいく。そこは東城が降りてきた道だった。
「もしかして、あの木のところへ」
昨晩あれだけ神を信じていない、それどころか嫌いであり否定していることを伝えたというのに、まさか祈れとでもいうつもりなのだろうか、それをさせられそうになった時、どう対処すればいいのかと、もう不安でいっぱいになった。
「そ、そうかもしれませんね。でも、違うかもしれないですよ」
ジェネットも多少気を使った。しかし東城に神を信じさせたくもあった。神はいないという思考そのもの頭からなかった。そのため婉曲に、そして徐々に慣れさせていこうという魂胆である。
それにしても恐ろしく嘘が下手である。
(神さまはいらっしゃる。だって、いつも声が聞こえるもの)
ジェネットと東城は山を登り、中腹にあるその御神木までたどり着いた。
二人はその根本に腰を下ろし、短い草を揺らす突風に揉まれ、そして木漏れ日に目を細める。葉の触れ合う音に、ジェネットの声が混ざる。
「素敵な場所だと思いませんか」
東城は、その木漏れ日を浴びて風に身をまかせる彼女に、少しの間釘付けになった。
「うん。いい場所ですね」
「私のお気に入りの場所なんです。ここは、この村では一番神様に近い場所ですから」
それは死と同義だろう。怪しげな無形物に頼るなど自らの行動を阻害するためだけの暗示にすぎず、それは自ら己を捨てる行為に他ならず、腹を切るよりもなお悪い。
とは言えなかった。いつもの悪い癖から悪口が飛び出しそうになったが、すぐに喉を鳴らして飲み込んだ。この爽やかな風景と彼女の笑顔を曇らせるような真似はしたくなかった。
「いつもここでお祈りをしているんです」
石造りの祠が人間ほどの大きさの根に巻きつかれている。そこにジェネットは跪いた。
祈りの文言を唱えしばらくすると、ざあっと風が吹き荒れる。彼女を中心にそれは草木を揺らし、やがて木々の隙間に散っていった。はらりと落ちる木の葉と緑の香りが残されて、ジェネットは東城に微笑みかける。
「今、息吹を感じませんでしたか」
東城にはジェネットのいう息吹が、彼女を含めて超自然的な光景として映っていた。その神々しさを、彼の嫌いな表現ではあるが、そのまま口にした。
「ん、超常のようなそうでないような……。どうも、俺はそういうのに疎くて」
遠慮がちに目を伏せた。自分の素直な感想が、ジェネットの好意によって連れてきてもらったこの場所に似合わないことがわかっている。
「最初はそうですよ。村のみんなの安全とか、収穫祭のこととか、そういう報告でいいんです。健康や豊作を感謝したり、悪いことがあったら手助けをお願いしたり、そうするとちょっとずつ聞こえてくるんです」
神の声が、小さいけど、声が聞こえるんです。そう呟き、ジェネットは目を閉じたまま動かない。
しかし東城はその気配が大きく膨らみ、自分のそばまで歩み寄ってくるように感じた。抜刀しかけたが、刀はない。腰元に手を当てたまま、目だけで周囲を見渡した。
(何が起きているのか)
気配は風となって吹き抜け、凪いだ。ジェネットが立ち上がるのはそれと同時だった。
ジェネットは「こっちへ来てください」と手招きをした。大木の根本に
「涼しいでしょう。休憩するときに使っているんです」
書物やが無造作に置かれ、空き瓶には水が汲まれている。彼女はそれらをどかして空間をつくり、草で編まれた座布団に東條を座らせた。
奥行きはそれなりにあって、六畳ほどの洞と、えぐれた地形が備わり、見た目よりもひろい。
根っこの屋根は日光と日陰を適度に保ち、存外に快適である。仮眠を取るならば足も伸ばせるし、東城がいても苦にはならない広さである。
「心地よい場所ですね」
神の足元ということを抜きにすれば。などとはもちろん言わない。そうとは知らないジェネットは、
「そうですよね。よかった、気に入ってもらえて」
と嬉しそうに言った。書物を拾い、東城のためにページを開いた。
「あ、文字は読めますか」
「どうでしょう。ああ、どうやら、読めるみたいですね」
これが神の仕業以外の何事であろうか。だがこの男はどうしてもそれを受け入れ難く、
(見知らぬ言葉ですら、学ばずに修められるようになったか)
渡仏した友人に言葉を教えてもらっただけでフランス人の武官と会話することができたのを思い出し、今回のはそれのさらに上をゆく経験であることから、皮肉にも神となったような全能感によってでしかこの異常性を認知することができなかった。
「東城さんが仰っていたフォルトナ様、彼女がどういう神なのかをまとめた本です。あなたの過去を知って、それでも信仰を強要するつもりはありませんが、遠ざけるだけでは、あの、なんというか、その」
東城はその弱々しく尻切れになった彼女に、狭い洞のなかでなお肩身の狭そうにする姿を見ていられず、さりげなく微笑を浮かべた。
「遠ざけるだけでは芸がない。嫌うからには当然よく神を知っていて、その上で嫌っているのだろう。こういうことでしょう。なるほど、俺はフォルトナを知りません。よければ、ご説明していただきたい」
丁寧に頭を下げた。宿を借りている農夫の娘だし、黙ったままでは忍びなく、つい聞きたくもないことを促してしまった。
ジェネットは、その表情を露骨に明るくさせ、東城の選択に間違いがなかったことを証明した。
「はい! ではまず彼女が何を司る神なのかを——!」
講義はたっぷり一時間ほど続いた。あぐらになり、時々相槌を打ったりして東城はいかにも熱心な姿勢でいた。
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