第二話 ここはどこ?

 小鳥のさえずりが驚くほどに近くからきこえた。耳をついばまれ、東城は目を覚ます。

 俺の家はこれほど緑に囲まれていただろうかと首を傾げ、すぐに自分に何が起こったのかを思い出した。


「あの野郎、どこだここァ」


 運命の神と名乗った女フォルトナは、東城九郎の死を告げた。生前、神を嫌い、その存在も否定していた彼は、神の怒りを買ったのか、妙な場所へと送られてしまった。

 見渡す限りの大森林で、東城は青筋を立てて倒木を蹴っ飛ばす。立木にまで鬱憤をぶつけ、しばらくすると歩き始めた。

 着衣は、軍服である。寝ているうちに苔や蔦のはしがくっついていて、深緑の軍服は周囲の風景に馴染んでいたし、本人も田舎で育ったため、次第にこの深山を楽しむようになった。死んで、生き返ったばかりだというのに、随分と気楽である。


「案外、いいところじゃねえか」


 三十をむかえた男は、まるですっかり幼年に戻ったつもりになって、どんどん山をおりていく。手に持った小枝を振り回しながらの行進である。


「むっ。拓けた」


 探検家のような冒険者のような、そんなつもりでいる。

 たしかに拓けた空間に出た。その真ん中には樹齢など人や歴史の及ぶところではないというくらいの大木がある。周囲にはしめ縄のようなものが巻かれ神聖化されているようである。

 小さな祠まで造られあり、そこに誰かがいる。膝を折って手を組んで祈りを捧げていた。


「失礼」


 声をかけると、それは少女だった。

 振り向きざまに茜色のロングヘアが軽やかに舞った。同色の瞳を不審でいっぱいに染めている。


「誰。ここは神聖な場所です」


 東城の身なりを見つめ、警戒を強めた。

 きつい目元はそのためだろうか、小さな口も引き結び、顔色は青ざめている。


「道に迷っただけだ。近くに集落はないか」


 不安を与えないように穏やかにそう言った。

 少女はまだ警戒しているが、森の一角を指差す。よく観察すれば、その方向は草が踏みしめられて道ができている。人の通りがあることがわかった。


「助かった。あいにく手持ちがないので、頭をさげることしかできないが」

「早く立ち去ってください」


 嫌悪がある。東城はそれを受けても平然としている。


(まだ十代だろう。こんな男に出会っては、そりゃあ気分も悪いだろう)


 こんな考えでいる。指し示された道を進み、途中で一度振り返った。少女は黙々と祈りを捧げている。


(すがるばかりか。無駄なことをするものだ)


 悪態は唾にして吐き出し、肌に汗がにじむころ、森を抜けた。

 木々の隙間に身を寄せ合うような村がある。田舎の集落といった印象である。耳をすませば木こりの音がするし、生活の音だって聞こえてくる。東城は自分の五感が狂っていたことを初めてしった。生死の垣根を超えたばかりであるし、いくら気丈に振る舞っていても、それに動揺していないはずもなかった。

 畑仕事に精を出すものに声をかけた。上背のある初老の男である。


「失礼、ききたいことがあるのですが」


 男は鍬を握る手を休め、伸びをした。東城よりも頭二つほど大きい偉丈夫である。


「どうかしたのかい」

「ここはどこなのでしょうか」


 その問いに、男はきょとんとして首をかしげた。その仕草には先ほどの少女と同じような雰囲気があった。


「エルムだよ。見ての通りの小さい村だ」

「日本、ではないのでしょう。国名は」

「グラシアさ。西の端だけどね」


 東城はそうかと言って、視線を外さないまま立ちすくんだ。これからどうするかを考えても、全く身動きができずにいる。思考が完全に止まってしまって、体もそれに応じたのだ。


「おいあんた、大丈夫か。顔が青いぞ」


 男が声をかけても無反応で、そのうち雨が降り始めた。突然の豪雨に村中が静まりゆく中、東城はその場から動かない。


「参ったな、あんた、そんなところにいたら風邪を引くぞ」


 強引に腕を引いた。


「とりあえずうちに来なよ」


 だんまりを決め込んでいて不気味だが、彼の人情が雨の中に他人を置いておくことを許さなかった。


「ん、しかし迷惑でしょう。こんな、薄汚い格好で、奥方に叱られるのではありませんか」


 雨粒が全身を打つ。男はいいのさと笑い飛ばした。

 部屋数が四つの小さな家である。大きな木製の倉といってもいい。炊事場とリビングが一つの部屋に共存し、それだけでも日本とは大きく違う様式だった。


「今、火を付けるから」


 俺も手伝うとは言い出だす前に、男が指を鳴らすだけで部屋中の明かりが灯った。その光景に目を丸くして、つい大声になった。


「今のは」

「へ? なんのことかわからないけど、ほら、暖炉のそばに座って一杯やろう」


 くべられた薪は不可思議な方法でついた火をまとい、小さく爆ぜる。ろうそくも同様である。

 東城は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。決して雨のせいではなかった。


「その、火をつけたでしょう。その方法をおききしたいのですが」

「魔法のことか」


 まほう。と間抜け同然に繰り返した。


「魔法とは火をつけることですか」

「それ以外にもあるよ。その辺は娘にきいてくれ」

「娘さんがいらっしゃるのですか」

「ああ。祈祷師だよ」


 その言葉に東城は顔をしかめた。が、すぐに表情をつくりなおした。


「俺はミドっていうんだ。麦を作ってる」


 握手を求められた。応じると、分厚い手のひらだった。


「東城です」


 すると勢いよくドアが開かれた。ずぶ濡れの少女が肩を震わせている。


「ただいま戻りました」

「やあ、おかえりジェネット。雨に降られて大変だっただろう」

「うん。でも、もう小降りに」


 茜色の髪が肌に張り付き、やけに艶かしい。彼女は東城を目にし、悲鳴のような叫び声をあげた。


「お父さん、その人」

「ああ、まあちょっとしたお客さんだよ。東城さんだ。あの子はジェネット。私の娘だ」


 東城は再び苦い顔をした。しかし年長者として自分を律し、穏やかな調子で一礼した。


「東城だ。きみはさっき道を教えてくれた娘さんだね」


 ジェネットはすぐに自室へと引っ込んでしまった。東城は相手のいない握手を、恥ずかしそうにごまかした。


「嫌われましたかね」

「悪いね。あの子には少し引っ込み思案というか、気難しいんだ。まあ娘のことはいいさ、これも何かの縁だ。一杯どうだい」

「酒ですか」


 自分の死が泥酔に起因しているので、断った。しかししつこく勧められたので、ならばとグラスを受け取った。

 度数はそれほどでもないが、果物のような甘さがある。わずかな粘性があって、それをどんどん飲んだ。途中から酔って死んだことすらも忘れた。


「きみは酒が強いな」


 ミドはそれがとても嬉しかったらしく、東城のグラスが空くことはなかった。


「妻もきみのように酒をたくさん飲んだ」


 写真立てに目を移すその姿で、東城はなんとなく察した。


「娘さんはまだこれが飲めるような歳ではないでしょうから、今しばらくの辛抱ですな」


 グラスの底まで啜って飲んだ。


「晩酌には付き合ってくれるよ。まだ十三だけど、酌と、つまみを作ってくれる」

「できた娘さんですな」

「親バカかもしれないけど、そうなんだ」


 やがてミドは歌い出した。民謡のようなものだったが、東城はこれをきいて、


(俺は言葉がわかる)


 と、今更になって恐怖した。その旋律も物悲しいようなものだったので、彼の胸にも寂しさが飛来した。

 東城は泣いた。男泣きである。

 ミドは少しもらい泣きして、歌をやめた。


「俺にも才能があるのかな」


 などと見当外れのことを言って東城を多少だが和ませた。

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