第一話 神との出会い
「あなたの望みを叶えましたよ」
優しい声は、母親に似ていた気がした。幼年の頃を思い出しながら、妙にすっきりと目を覚ます。
「東城九郎。気分はどうですか」
「ああ?」
上も下もないような真っ白な空間である。踏みしめるような足場もなく、ただ宙に浮いていた。
「夢か」
「ならば追う価値がありますね。でも、夢じゃありません」
真っ白なドレスの女がいる。先ほどから東城に語りかけているが、その反応をからかって楽しんでいるようである。
「なんだてめえ、ドイツ人か」
東城には何度かの留学経験があった。勉強のためにドイツやロシア、アメリカにも渡り、それぞれの国で一年から二年ほど過ごした。
彼は勉強ができた。というよりも、語学をどんどん吸収できた。覚えようとせずとも自然と頭に入り込み、会話にも手紙を書くのにも苦労はなく、いつも小さな辞書を持ち歩く程度だった。
当初は各国の黒以外の髪色やそれに瞳の色、男女の上背の高さに驚いたりもしたが、今ではその日本人離れした容姿やスタイルに惚れ込んでいるふしがある。
「え? いいえ、違います。あなたが嫌っているひとりです」
軍人には、派閥がある。倒幕派に属していた薩摩藩や長州藩などの戦勝側が、やはり戦後の軍人世界を築いている。上層部はそのまま日本を作り上げてきたものたちで、なんとか会とか、なんとか組に若い軍人をひき入れ、上から可愛がられれば経験を積みやすく、出世も早い。
東城は賊軍であった。そうしたものたちも派閥を作り、薩長に負けるなと鼓舞しあっている。
「嫌っているって」
派閥はあれど、反目し合っているわけではない。もしかして薩長のものかとも思ったが、こんな派手な見た目の女がいれば知らないはずがなかった。
「誰だ。それに、俺には嫌いな奴なんかいない」
女は小首を傾げた。そんなはずはないと東城の両肩を掴んで揺さぶった。
「いるでしょう。あなた、ずっと文句を言っていたじゃないですか」
「うわわ、待て、揺らすな」
腰まで伸びた金髪、目にかかる二房が愛らしい。肌は白く、ドレスが放つ絹のきらめきよりもずっと眩しかった。胸元が大きくあいていて、視線を下ろすと突き出た胸にしまった腰、柔らかく広がるスカートに、東城はなぜか怒りを覚えた。
「若い女がふしだらな真似をするんじゃねえ」
「あら、惚れました?」
口が悪いのを自覚している東城は、反射的に飛び出そうになった暴言を歯ぎしりでごまかした。女を引き剥がし、足場のない世界を踏みしめて仁王立ちになった。
「若いだなんて嬉しいわ。でも、あなたよりずっと世界を知っているのよ」
こちらも大威張りに宙空にただよい、東城の周囲を軽やかに舞った。一瞬だけ目を奪われたが、すぐにかぶりを振って、女を頭からつま先までを見定めた。
「天女か。神仏に知り合いなんぞいねえぞ」
そこまで言って、何かに気がついた。ようやく周囲を改めて、顔をしかめる。
女は、底意地の悪さを含ませた微笑を携えて、東城の前に立った。
「お気づき?」
「そんなはずはない」
記憶を振り返ると、居酒屋で飲んだ後からは全く思い出せない。自分に起こった異変に焦り、大粒の汗が流れた。
「自分をごまかしてはだーめ。東城九郎、あなたは私を嫌っている。私だけじゃない、私に似たあらゆるものを否定した」
視線をそらせずにいる。目に入った汗が、そのまま涙となって落ちた。
「誰だ」
「なんだ、ときくのが正しいわ」
この程度の問答にも、東城は吐き気を堪えなければならなかった。必死に呼吸を整えようとしても無駄であり、動機は激しくなる一方だ。
「私はフォルトナ。あなたのいた世界とは違う世界の神。運命を司る、大いなる存在」
その姿はせいぜい二十代の半ばであるのに、今までに感じたことのないような迫力があった。圧倒され、しかし東城の怯えを感じ取れるだけの表面上の行動は、わずか数歩の後ずさりだけだった。
「あなたは死んだの。凍死よ。あの朝は結構寒かったし」
「俺が死んだ……?」
「ええ。ほら」
フォルトナが東城の胸元を押した。それは、それだけの行動に過ぎなかったが、やがてずぶりと沈み込み、貫通した。
「あなたは今、精神だけの存在なの。驚いた?」
「……うん」
穴が空いたわけでもないのに、胸へと細腕が肘まで入り込んでいる。痛覚はなく、他になんの感覚もない。不思議と恐怖はなかったが、自覚は芽生えた。
「死んだのか」
「ええ。死んだわ」
素直にそれを認め、ならばとフォルトナに向き合った。顔が近くにあって、鼻先が触れそうである。
「腕を抜け」
「このままでもいいわよ」
「そんなわけあるか。さっさとしろ」
あらこわいと微笑んで、フォルトナはその通りにした。
「要件はなんだ。死人がいつまでも口をきいていてはいかんだろう。早いとこ済ませて、俺もお前も楽になろうじゃないか」
それはあまりにもあっけらかんとした物言いであった。生前のことも、これからのことも頭にないような、未練とか不安とか、そういったもがほんのひとかけらもない態度である。
「あらら、その態度、困っちゃうわ。もっと驚いてくれないと」
「実際、驚いた。だがお前が神であるとは認めない。狭量だとか、意固地になっているだとか、そう思われても仕方がないが、お前は、まあ夢みたいなものだろう」
「ふうん、頭が硬いのね」
フォルトナは指を弾いた。「これならどうかしら」
世界が暗転し、今度は自分の姿形が確認できるだけで、他には黒以外の一切の色がなくなった。
そこに声だけが響く。
「あなたの嫌悪がどこまで続くのか、見定めたい。でもきっと、ふふ、時間をおかず私たちにすがるでしょう。その瞬間、現れたる人知を超えた存在に感謝するでしょう」
思考がまとまらない。黒い何かが足や胸にまとわりついて、徐々に感覚を失っていく。
「私は欲する。あなたが我々を望むことを。あの世界では成せなかったのであれば、こちらに迎えてでもする価値がある」
声はかろうじて声として成立し、耳から滑って流れていく。
「簡潔に言え」
「私もあなたが嫌い。だから、嫌がらせ」
半分はね、と耳に届いたその刹那、東城は意識を失った。
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