2021年3月30日(先勝)その1

 美星高校合唱部第48期定期演奏会――本番当日である。


 コンサート形式の予定だった蝶々夫人はこの数週前より変更になった。

 演劇部を迎え、ホールの舞台での再演になったのだ。

 これは演劇部が卒業公演を拒否した理由である『観客の居る場での上演』に合唱部として場を提供した形になる。


 ホール側もこれには寛容に対応してくれた。

 もとよりこのコロナ禍での感染症対策で全館換気は機能増強され、態勢は万全である。ただの歌唱に身振り手振りが加わった程度で動じることもなく、ただ『最前列3列を無観客にしましょう』と提案されただけである。


 そして役の入れ替えはなかった。蝶々役は明衣のままである。――だからこそ、練習期間中の彼女は多忙を極めていた。

 なお申し訳程度の感染予防として、演劇部側出演者はマウスシールドをつけての演技になる。


 既に長髪を落とした明衣は、直毛のマッシュボブいわゆる市松人形風のかつらをかぶり、大きな蝶の髪飾りを付けて仕立てた。

 それに今回は後部席の客の目にも届くことを配慮して、白塗りに狐の面を思わせるやや強めの化粧をした。


 そのようにして、無事の第1部は上演された。

 そして第2部まで15分ほどの休憩時間が入る。

 休憩とはいうが、明衣だけは目まぐるしい勢いでの衣装替えである。


 カーテンコールを済ませて袖に下がるなり、かつらをひっぺがして帯を解く。小袖と赤襦袢を脱ぎながら、ヒートテックのキャミソールにショートレギンスで楽屋前の廊下をつっ走る。演劇部員はそれを拾いながら追いかけた。


 明衣は化粧部屋に飛び込むと、使い捨てのコンタクトとつけまつげを剥がす。それからスキンクリームの化粧落としを顔や首に塗り込んで豪快にタオルで拭き取る。

 かつらのために頭に巻いたネットを外し、ドライヤーで慌ただしく髪を整える。

 そうしてようやく合唱部の皆と同じ標準服をまとう。

 仕上げに、すっぴん隠しを兼ねたセルフレームの眼鏡をかけ、皆と同じようにワイヤー入りの不織布マスクと合唱用マスクを重ねてつける。

 そんな彼女を合唱部の女子達が楽屋の化粧部屋の戸口で壁になって男子の視線から守っていた。


 後半は合唱曲のみである。

 例年なら舞台中央に前後2列の横長に組むところを今年は変えた。舞台上いっぱいに部員が点在しているかのように配し、部員間の前後左右の間隔を大きく取った。

 舞台上の全員が喉元までを隠すほどの大きなマスクで顔を覆っている。換気のために常に冷え切った会場では、それは喉もとを保湿保温する助けにもなっていた。


 間宮先生の指揮棒が振れ、ピアノの前奏が鳴る。

 ――最初は来年度に持ち越されたNHKコンクール課題曲『彼方のノック』で始まった。

 薄く積もった新雪を革靴で踏むような慎重な難しさのある曲である。


 ……これを来年、府中の劇場でやる。

 誰もが自然とそれを思い浮かべる。その余韻を払うように、二曲目の象徴的なイントロが鳴る。

 2曲目は『The Greatest Showman』から『This Is Me』の混声4部合唱アレンジだ。


 この曲はクリスマスの後、10年生達が「定期演奏会にどうでしょう」と持ち込んできた曲だった。

 楽曲理解のために英語詞を翻訳して、皆その意図を理解した。


 歌はアルトのソロから始まる。

『I'm not stranger to the dark(私は暗闇を知っている。)

"Hide away" ,they say(『潜んでいろ』と彼らは言った。)

'Cause we don't want your broken parts――(『お前らなんかいらないから』)』


 ……12月の公立中の集団感染が発生した時、ネットでは『学校合唱など不要』という声が強かった。

 そもそも、コロナ対策というものは、事あるごとに『不要不急を控えろ』と喧伝けんでんされてきた。

 その不要不急のやり玉に挙げられたのが、娯楽や舞台芸術達だった。


 その中で――時に床を磨く漂白剤の希釈液や手指用アルコールで肌を荒らし、暑さ寒さやマスクの苦しさに苛立ってまで――丁寧に感染予防をしながら、歌い続けている自分達の存在意義を疑う子もいた。


 ――ソロが歌い切って、女声のみの合唱が乗る。

『――But I won't let them break me down to dust(しかし、奴らに『塵』にはさせない)

I know that there's a place for us(私たちは、知っている)

For we are glorious(自分達の輝ける場所を)』


 それを弾みとして、テンポは早まり男声が重なる。


『When the sharpest words wanna cut me down(とがった言葉に傷ついても)

I'm gonna send a flood, gonna drown them out(私が流れを起してやる。溺れるほどに)

I am brave, I am bruised(私は強い、私は傷ついてる)

I am who I'm meant to be, this is me(私本来のあるべき姿だ、これが私だ!)』


 ――それでも、皆出来ることを模索して、歌うことを、演じることを続けてきた。

 皆、そのために集まり続けたのだから。


『Look out 'cause here I come(気をつけろ、私が行くぞ)

And I'm marching on to the beat I drum(私がきざむビートと共に)

I'm not scared to be seen(もう怖れない)

I make no apologies, this is me(詫びもしない、これが私だ!)』

 ――男女高低に唸りを交わす。


 これは肯定こうていするための選曲だった。

 ――間宮先生の指揮は曲が進むほどに(もっと来い、もっと強く来い)とエモーショナルに煽る。

 猛々しくやや走り気味の歌い切り、そう間を空けずに次の曲が始まる。


 3曲目は『RENT』から『Seasons of Love』である。

『1年という時期を何で数えるか、数えられるもの? 経験? 愛で数えよう、大切な人との時間で数えよう――』そういう曲だ。

 端々に力強くソロが映える曲でもある。


 英語詞の2曲は共にソロパートはほとんど全て11年が担った。

 小柴や堤、りょうや形山、津田もである。皆、来年度の主力である。


 3曲歌いとおして、少しだけ間を置いた。

 にわかに空気感が静粛なものになる。

 ここからは部の定番組曲である。いずれも日本語の合唱曲だ。


 まず、寺山修司作詩、萩京子作曲の『飛行機よ』。

 ――明るく透き通るような一曲目『五月の詩・序詞』から、次第に物々しくなり、最後の『飛行機よ』は悲壮感に似た重厚さを放って終わる組曲である。

 この段に入ると、客席からも鼻歌でなぞるOBOGがいくらか居た。


 続いて、池澤夏樹作詩、木下牧子作曲の『ティオの夜の旅』だ。

 一曲目『祝福』は厳かな低音から始まる。

 忙しなく跳ねまわるような『海神』。妖しくも声高な『環礁』。静かな波にたゆたうような『ローラビーチ』と続く。

 最後に音の楽しさを凝縮し、合唱部の最大音量に挑むような『ティオの夜の旅』でしめる。


 いずれも昨年を封じられた雪辱を注ぐような力強くも響き豊かな歌声であった。

 そのようにして、第48期定期演奏会は夕暮れを待たずに全演目を終えた。


 舞台袖から楽屋に下がると、帰り支度をすませた演劇部組が拍手で迎えてくれた。

 それを受け入れながら、もっとも疲れた顔をし、また女子達の祝福を受けたのは明衣だった。

 彼女は第1部の演劇部側の蝶々役から、第2部の全曲まで出ずっぱりである。


 出演者たちはマスクを通常の物に付け替え、ロビーに回った。保護者や客として来てくれた友人たちへの挨拶である。

 そうして送り出しを終え、全員が帰り支度を整える。

 そして傾く日の下で、そろりそろりとまとまって、駅とは違う方向へ歩き出す。


 今度こそ本当に最後の夜だ。

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