2021年3月27日(仏滅)

 本番前最後の週は、当然のように連日練習日となった。

 この翌日の日曜日も朝から弁当持参で練習である。

 その本格的な追い込み練習の間はりょうと明衣の間ですら会話はまばらになった。


 これは本番当日の予定プログラムのせいもある。とにかく明衣には余裕がなく、わずかな時間もすべて緊密な確認練習に時間が吸われた。

 この間も夜には明衣は柾目家へいくのだが、そこでもりょうにピアノを頼み、練習の延長をしている。

 それも、家にあがってから帰るぎりぎりまでである。

 りょうはその明衣の気力に舌を巻くばかりだった。


 束の間の余裕は、帰り道くらいだった。

 そこでようやく、部活に関係のない話を交わす暇が生まれる。

 だがこれもりょうの家から最寄り駅へ送る間の場合の話だ。


 学校から駅までの帰り道は、大抵、別れを惜しんだ12年生を囲む塊になる。

 そのため、未來はりょうとも明衣とも接点がなかった。

 それがようやく解けて、りょうと未來がふたりで並んで歩けたのは、本番の3日前だった。


「元気してる?」

 あれから大分たって、ふたり共に不眠がちな精神状態は脱していた。

 だが、歩く姿はそろって猫背で眠たげである。


「のど飴が気休めにしか感じられません」

 りょうの声は疲れ切っていた。今日もこのあと、明衣と家で自主練である。

 未來は苦笑いしてうなずく。

「それはわたしも。プロポリスのスプレー助かってる。これでだいぶ持ってる感じ。……今日は彼女は?」


「後ろの方でアルトの新旧パートリーダーに挟まれてます」

「あのふたりも明衣ちゃん大好きだから……」

 明衣は、演劇部側の蝶々という存在感の強い立場から、兼部者として入部してきた。


 部内においては音痴という世話を焼かざるを得ない別の種の存在感を放っている。更に髪を短くしてから、中世的な容姿が加わってアルト女子の間で妙にモテているのである。

 特に卒業生の方のパートリーダーとはクリスマスキャロルの時の件もある。泣いている所をハンカチを差し出して以来、王子扱いされるようになってしまっていた。

 もっとも、いまはモテているというよりも、しごかれているという方が近い。


 そういう意味でいえば、りょうは実に奇妙な存在だった。

『――なぜおまえに限ってそんなにモテるのか』

 これは男子部員だけになるとやんわりといじられる話題である。

 『俺はゆるキャラみたいなものだから』とりょうは自分で言いきっている。

 むろん実態はより生々しい。だから踏み込まれると苦笑いして逃げるしかない。


「考えたんですけど、やっぱり音大受験、試してみることにします」

「本当に? 声楽のレッスン、結構かかるよ?」

「ええ、それはわかってます。っていうか、既に始めてます。明日も部活の後、ピアノですし。親説得して、大学入ったらバイトしてそっからレッスン費返すって」


「無理しなくていいのよ、本当に。あの時は勢いであんなこと言ったけど、わたし全然現実を考えてなかったから」

「現実ってなんですか。やっぱり歌を続けたいんです。そう思ったからついていくんです。その始まりが恋愛感情だっただけかもしれない」


「そういうのは不純だよ。ちゃんと自分の人生を考えなさい」

「人生なんて、どうなるかわかんないですよ。それより、誘いを受けなかったことを後悔したくない」

「ファムファタールって知ってる?」

「なんですか?」

「男の人生を狂わせる女――共通テストの後にデートした時、誘ったでしょ? あの時のわたしはそれだったんだって、明衣ちゃんと話してはっきりわかった」


 りょうは「明衣ですか」とすこしため息をついた。

「……最近あいつ、ちょっとおかしいんですよ。何か吹き込んでませんよね」

「なにを」

「なんていうか、シモ方面にやたら積極的で」


 これにあははと声をたてて笑う。

「あなたのからだに興味があるからに決まってるでしょ。定演終わったらちゃんと相手してあげなさいよ。受験勉強しながらサルみたいにセックスするなんて、絶対ダメだからね。そんなことになる前に、ちゃんとそういう時期は乗り越えておきなさい」

「なんの話をしたんですか、もう」

 りょうはそう小首をかしげた。


 未來は機嫌がよさそうにカルメンの『恋は野の鳥ハバネラ』の歌い出しを口ずさんだ。

「――私が歌をやるのは、それしか私には生き方が考えられないから。たとえ誰かに刺されてもね」

「刺されるって、物騒な」

 りょうが半ばあきれたようにぼやくと、彼女はくすりとして指さした。

「それで音大の声楽科狙うの? 信じられない、カルメン見たことないんだ」

「ないですけど……」


「少なくとも、私は柾目くんをドン・ホセにするつもりはないからね」

「誰ですかそれ」

 未來は応えず、ただ思わせぶりに笑った。

 ――ドン・ホセは、カルメンのためにそれまでのすべてを投げ打ち、そして最後にはカルメンを刺し殺す哀れな男の名である。――

 未來は、はたと手を打った。


「そうだ、明衣ちゃんと寝たら教えて。お祝いにカルメンのチケットおごってあげる」

「は? 今度はなんですか、まったく」

「見ておいてほしいの! 私たち、一歩間違えたら――ううん、なんでもない」

「はい?」

「いいから、今のは忘れて。チケットは奢るけどね」


「はあ……」

「ピアノ、ブランクあるんでしょ? 私が合格したとこでも、そんなに甘くないよ」

「ええ、中学の頃に習ってた先生についてるんですけど、同じ事言われてます。声楽の方の先生は笑いながらビシビシ来るタイプでこれまた怖くて……」


「んふふ。がんばって、部の方に何か差し入れ持ってくから」

「あ、安物でいいですよ。どうせみんな礼も言わずにむさぼり食う連中ですから」

「それは私らもそうだったから。まあ、それを含めて毎年の合唱部よ」

「毎年、か……今年は変な年でしたね。ほんと」

「ええ、本当に。さっさとワクチン来ないかな。マスクしてない顔を忘れそうな子もいるもん」


「俺、10年の女子で何人か、マスクしてない顔を知らない子がいます」

「あはは、私もバスの子がわかんない――〈まだ今は辛抱だ〉」

 未來が『一杯の焼酎』を一節歌うと、りょうも1オクターブ下で声を重ねる。

「〈まだ死んだわけじゃない〉」

 ――誰か歌うと自然と声を合わせる。これは、合唱部の習性のようなものである。

 だがそこから先は歌詞が出てこず、ふたりとも鼻歌で歌い続ける。

「〈今僕は街に 歌が溢れる その日を待つ〉」

 最後だけ、かろうじて歌詞が通じ合う。


 それから未來はりょうの背中をぽんぽんと押すように叩いた。

「やれるだけやりなさい。落ちたらなぐさめてあげるから」

「なんか、やらしくきこえるんですけど」

「えー、真面目にいったつもりなんだけど」

「はいはいそーですか」


 りょうのてきとーな相槌に、未來は怒ったふりをして拳を作って見せた。

 殴るふりをし、避けるふりで応える。

 ふたりともよろよろとして転びそうになり、慌てて支え合う。それがおかしくて笑い合った。

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