2021年3月18日(先勝)
この日の午前、美星高校は修了式を迎えた。午後は学年末テスト赤点組の補修しかない。
幸いにして合唱部から赤点者は出なかった。
ところで、卒業式を迎えた後の美星の音楽室というのは奇妙なもので、部活の練習もあって卒業生が毎日のように誰か、教員室でたむろしているのである。
この日は、ほぼ全員集合していた。
理由は、合宿のためのミーティングである。
今朝の時点で、一部報道は緊急事態宣言の再々延長をしない方針と報じている。
この通りであれば、月末に予定している定期演奏会は無事の実施である。また、それに伴ってその前週の週中に、一泊二日の春合宿の予約を再度取ったという。
その打ち合わせが、修了式の後の学年最後のホームルームの後に音楽室で行われるのである。
むろん、午後には手弁当で練習もある。
明衣とりょうはミーティングにのみ出席して、午後は二人揃って部活を休んだ。
今日は明衣の誕生日なのである。2人きりでデートをするためだ。
二人はそれぞれ一度帰宅し、それから池袋駅で待ち合わせた。
デートと言っても、向かう先は明衣が年間パスポートを保持している池袋の水族館である。
本当はクリスマスの日に来るつもりだった。
だが入館時間に間に合わないと判断して、近場に変えたのだ。
りょうは事前のプレゼントの用意はしていない。
水族館のショップや隣接するショッピングセンターの雑貨屋などをめぐって、明衣の欲しがるものを買って渡すつもりで来ていた。
それを水族館の手前あたりで明衣に説き明かした。
すると彼女は水族館のある建物の中で、不意につないでいた手を振り払った。
そしてまっすぐにブライダル客向けと思しき高級宝飾品店へ駆け出した。
りょうはこれを笑いながら捕まえて阻止し、引きずりこむように水族館へのエレベーターに乗った。
「ダイヤがよかったー」
「関係が5年続いたら考えてやる」
「お、言ったね?」
そんなことを言い合いながら、ふたりは誰に恥じることもなく手をつないで展示を回遊した。
最後のミュージアムショップで、明衣は備え付けのアルコールジェルで手を念入りに清めた。
それから抱えるほどのサメのぬいぐるみを嬉しそうにもふもふとする。これを見て、りょうはそれをレジに持っていこうとした。
この袖をつかんで明衣が止める。
「え、本気?」
「え、違うの?」
「違わないけどいいの? これ見た目の割にけっこうお高いよ?」
「それは考えなくていい」
りょうは少し見栄を張ってそう言った。どうやら、その見栄も明衣には看破しえたもののようで、彼女は少しためらいがちに、しかし微笑んだ。
「それなら……うん」
明衣はマスクの上にのぞく目を細めて笑み、うなずいて、手を緩めた。
「実は、ずっとほしかったやつ」
「ダイヤよりも?」
そういわれて、明衣は目をかっと見開いた。
彼女はそのまま水族館オリジナルの婚姻届に手を伸ばした。りょうはすかさずその手首を捕まえて抑える。
「今のは俺が悪かった……。早まるな。高校卒業してからでも遅くはない」
「えー」
「えーじゃない」
「だったらホテル行きたい」
これにりょうは目を剥いて耳元に顔を寄せる。
「子供もいる場所でそういうこというんじゃないの」
「子供は意味わかんないから大丈夫だし」
「そういう問題じゃない」
「けど結婚したらしてくれるかなって」
りょうはうんざりとため息をついて手を離した。
「ガチなカトリックでもあるまいし……ほんとにサメ買うけど、いい?」
そういわれて、明衣はガラスケースに入った装飾品を見た。
「あっち見てからでもいい?」
「いいけど、これより上は正直きびしい」
そういって、既に掴んだサメを見せる。
明衣はにこりとしてうなずいた。
「それは大丈夫」
……結局、明衣へのプレゼントは珊瑚のイヤリングに替わった。
「おお、似合う似合う……けど、なんかすまん」
買いたてのものを早速化粧室で身に着けて戻ってきた明衣に、りょうはなんとなく詫びた。
だが耳に沿うそれは確かに似合っている。
「ううん、これも欲しかったやつだから」
そういうが、価格としてサメの実寸大ぬいぐるみの半額ほどである。
「それに、よく考えたらぬいぐるみはドンが噛んで遊んだらマズいし」
「ああ、潰されちゃう?」
「ううん、噛み癖。噛んで引っ張り回そうとするから、多分尾びれとかすぐぼろぼろになる」
「うわあ」
「かといって、あれだけ大きいのをずっと棚に飾っとくのもなんかもったいないでしょ?」
りょうは少し考えて、携帯を取り出した。そのカバーはクリスマスに明衣にもらったものをつけている。
「2時間ぐらい、この辺で潰そうか」
「ん?」
「なんか申し訳ないから、プラネタリウム予約した」
「ま?」
「ペアシート席」
「へー、空いてるもんだね」
「一応平日だからね、今日」
「そっか」
時間を潰すべく、併設されたショッピングセンターを冷やかして回った。途中、明衣が黒無地のキャップを2つ買い、片方をりょうにかぶせた。
「お揃いのもの、もってないなーと思って」
「あ、俺の分出すわ」
「いいよ。ペアシート、安くないでしょ。このくらいのお返しはさせて」
りょうはため息をついた。
「プラネタリウムの値段、調べたな?」
「もちろん。そういう割りを食うの、ほっとくと隠すでしょ。あんた」
ずばりそう言われて、言い返せなかった。実際、既にオンライン購入で入金済みでもある。
「ありがと。大事にするよ」
「別れたら燃やして」
「ほう、破れてもかぶり続けてやる」
りょうがそう応じると、明衣は照れたように笑った。
ふたりは予約の時間が来ると、プラネタリウムに入場した。
取った席はペアシートというがほとんど丸型の深いソファのような席だった。寄り添って座るとほとんど足を曲げて横たわっているような具合になる。
実質、添い寝のような形で時を過ごした。
りょうの家で過ごしているときも、体を寄せ合って過ごすという事は少なくなかった。ゲームをしていても会話をしていてもである。
だから触れ合う事自体には緊張も抵抗感もなかった。
ただ、真っ暗な中でじっと体温を感じ合う時間というのは新鮮なものがあった。
終盤の暗転の中、明衣のほうからりょうに顔をよせ、そっとマスクを擦り寄せた。
「今日はありがとう」
りょうは照れて少し笑み、息を漏らし、マスク越しに口元を擦り寄せあった。
その日交わした口づけはその一度だけだった。
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