2021年3月14日(先負)その2

 在校生たちの自主練は、12時半まで続いた。それ以上は空腹で続かないということで打ち切られた。


 その日の帰り道、りょうは明衣を呼び止めた。

 この日は日曜日である。りょうの家には家族がいる。

 だからいつものように明衣が家に無邪気におしかけるということもない。だからほかの生徒と共に電車で帰るはずだった。

 それを止めたのである。


 昨晩あったことを、りょうは律義にも彼女にいうべきだと思っていた。

 ふたりはコンビニに寄り、コーヒーを2つと大きなソフトクッキーを1枚買った。

 それをもって、ふたりは学校から最寄駅までの通りから数本裏道に入ったところにある、ベンチとモクレンの木しかない狭い公園に入った。

 モクレンは昨晩の雨であらかた散って、足元には白い大きなはなびらが、紙片のように散っていた。

 ここなら他にひと気もない。ふたりはためらうそぶりもなくマスクをあごにずらした。

 そしてクッキーの包みを開いた。

「まさか、これがホワイトデー?」

 りょうはため息をついた。


「渡すタイミングくらいこっちでやらせてくれるか。こんなムードのないところで……」

「いいから、なーに?」

「ったく、しょうがない。ほら、これだよ」

 そういって、りょうはカバンから包みを2つ出して、明衣の席の前に並べた。

 開くと中身は『HINT MINT』とロゴの入った缶入りタブレット菓子とモバイルバッテリーを兼ねた充電式カイロである。


「かわいい。成城石井?」

 そういわれて、りょうは吹き出すように苦笑する。

「ほんっとムードもナニも無いな。フリスクの親戚みたいなやつだよ」

 明衣はにこにことうなずいてそれぞれをカバンとポケットに収めた。


 あらためて紙カップのコーヒーを手に並んで座り、まず明衣が言い出した。

「聞いたよ」

「ん?」

「昨日、大坪さんと会ったって」

 りょうは言葉に詰まった。自分から言うつもりだったことを言われてしまった。


「カラオケ、行った」

「そう……私は断られたって聞かされた」

「誰に?」

「本人に」

「……さっき?」

「まさか。昨日の夜、12時くらいに電話が掛かってきた」

「そっか」


「あんたさ、ほんとバカじゃないの」

 これにりょうはぎょっと目を剥いた。だが明衣はつづけた。

「あの人なら一緒に遊んで励ましてくれる女友達ならほかにもいる。けどそうじゃなくてあんたを呼んだんだよ。慰めて欲しかったんだよ? なんで応えてあげないのさ」


「おまえ、自分でナニ言ってるかわかってんのか」

 明衣は軽く唇を噛んで、りょうを見据えた。

「……わかってるよ」

「俺もわかってた。だけどそれはダメだ」


「なんでさ」

「明衣を裏切りたくない」


「私がいいよって言ったらしたの?」

「そうじゃないだろう」

「……先輩、泣いてた」


 りょうは返す言葉もなく、額に手を当てる。明衣は言葉をつづけた。

「たぶん、お酒かなんか飲んでたんだと思う。いつもよりふわふわしてて、ろれつが回ってなかった」

 額を抑えるりょうの手が、顔を洗うような両手で包む形になる。


「酒の話はここだけに」

「誰にも言う気ないよ」

「だよな。変な事言った」


「まったく……あんたも飲んだの?」

「いや。カラオケで酒頼んだことないけど。たぶん年齢確認とか、下手すると身分証チェックとか」

「そっか……そうだね」


「あの人がどれだけ傷ついてたのかは、わかってるよ……。けど、しちゃだめだと思ったんだ」

「なんで……あ、私のためとか言うなよ?」

「自分のためだよ……絶対後悔すると思った」


 明衣は黙ってりょうを見つめた。

 話しなさいよ、といわんばかりの眼差しである。

「明衣も未來さんもそうだけどさ、なんでそんなにセックスについて軽く考えられるの」


「軽くなんて考えてない」

「俺にはそうは思えない時がある。昨日、未來さんと話してる時もそう感じてた。前にさ、二股の基準がセックスみたいな感じのこと、明衣も言ってたじゃん」


「……そうだっけ?」

「そうだよ。覚えてないかもしれないけど」

「軽くは考えてないよ。きっと先輩も……この人ならいいって思えるかどうかだよ」

 そう言われて、りょうは明衣の目をまっすぐに見た。


「昨日未來さんとも話したんだ。未來さんと会いながら、俺は明衣との関係について考えてた。今はその逆を考えてる」

「なにそれ」


 りょうは、ふたりの間に置かれた一枚の大きなクッキーを割った。そのうちの小さな方を、さらに一口大に折る。

 その一片を手に残し、包みの袋ごと明衣のそばに寄せた。


「俺は、自分の事をもう明衣のものだと思ってる。だけど、頭のどこかに未來さんを切りきれずにいる」

 そう言われて、明衣は口幅ったそうに返した。

「だから、昨日も会ったの?」


「ああ、必要とされてると思った」

 今度は明衣が頭を抱える番だった。

「必要、か」

「けど、俺には明衣が居る。すべては差し出せない」


 そう言われて、明衣はやや目を潤ませ、詰まりかけた鼻を鳴らして息を大きく吸った。

 りょうはカバンからティッシュを取り出し、差し出す。

 これを受け取り、明衣は目元を抑えた。そして鼻をかむ。


 りょうは自分の椅子をつかみ、明衣に寄せて座りなおした。

 そこでちぎり取ったクッキーをほおばり、空いた手を払ってから明衣の背中をさする。

 そのままりょうは素知らぬ顔で、もう一方の手でコーヒーをすすった。


 ほどなくふたりの間で逆毛が立つようだった空気が、にわかに緩む。

「……ありがとう、もう大丈夫だから」

 そういわれて、りょうは明衣の首筋をもむようにして肩を抱きよせた。

 これを受け入れて、明衣も彼の肩にもたれかかる。


「まったく、ホワイトデーに泣かさないでくれる」

「そうだな。悪い」

「誠意を感じなーい」

「ちょっと、ふざけんならハナシ変えるよ」


「他に話すことがあるの?」

「え? えーと、合宿、来るの?」

「また取ってつけたように……いくよ」

「わかった」

「――でさ」

「ん?」


「私には、差し出してくれるの?」

 りょうはぎょっと目を剥いて、明後日の方を向いた。それから、改めて明衣の顔を見る。

 彼の眼は『言わなきゃダメ?』と尋ねているようだった。

 これに、明衣はりょうの腿に手を置く。

「ねえってば」


「それについては、話し合っただろうに」

 そういって、脚の上の手をつかんで、テーブルに置く。

 それ、というのはセックスをするかしないか、である。話し合いの上、物理的なリスクが高いからしない、という結論には達している。


 ――もっとも、彼らは自覚していない。

 たとえば緊急事態宣言下にありながら、毎日のように学校から家へと通っている。今も一枚の焼き菓子を二人で分け合って食べている。マスクをせず、身を寄せ合っている。なにかあるたびに、日頃口づけも交わしている。毎日のように素顔で話し、笑い声を交わしている。

 これはすべて、covid-19感染という軸の上で、高いリスクの共有をしている。しかも、ふたりとも互いにこれを平然と受け入れあっている。

 それはまるで大人の恋人同士が逢瀬を重ねるがごとくである。――


「そういう話じゃなくて」

 りょうはほっとして項垂れた。そして心からのため息のように言った。


「これでも精一杯差し出してるつもりなんだけどなー。足りてないか」

 垂れ下がった頭を、明衣は少し笑ってよしよしと撫でた。

「わかってる。頑張ってくれてると思ってるよ」

 りょうは顔をあげた。


「けど、あくまでできる範囲で、じゃないか?」

 明衣はにこりとして、りょうの頬をつつく。

「それで充分、今はね」

 りょうは、少し考えて体を離し、テーブルに頬杖をついた。


「ほんとにそうなのかな」

「ん?」

「昨日おどかされたんだよ。この調子で、いつまでも続くと思うなって」


 これに明衣は目を丸くした。

「……そんなこと言われたの」

「いわれてみれば、そういう風に考えてなかったなって――大学も、志望校から違うし」

 明衣はこれに、少し怒ったような顔をした。


「本気でそう思ってるわけ?」

「可能性の話としてだよ」

「信じらんない。マジ無いわ」

「え、ちょっと……え、そんなに怒ること?」


「怒るよ。怒らなかったらこんな泣くほど好きになんてならないもん」


 そう言われて、りょうは明衣と向き合うように座り直した。そして彼女の手を両手でぎゅっと掴んだ。

 その手、祈るように自分の額に押し当てた。

「よかったぁ……」


「ちょっと、痛いんだけど」

 ああ、ごめん、と手を緩める。だが明衣の手を両手で包んだままである。その手に唇を当てる。

「実は、昨日寝れなかった」


「え?」

「不安になって寝れなかったんだよ。明衣を失うって、例えば誰かに取られるとか、考えたことがなさ過ぎて」

 これに、明衣は少し照れたように笑った。

「ちょっと、恥ずかしいから手を放して」

 今度こそ、りょうはああと頷いて手をほどいた。


 明衣は空いた手で割れたクッキーの欠片を更に砕いて、一切れほおばった。

 そして包みをりょうの方に向けた。

 りょうは大きく安堵の息をついて、袋の中のクッキーを食べやすい大きさに割って、互いの手の伸ばしやすい位置に置いた。

 それからは交互に菓子に手を伸ばした。


 最後の一切れは譲り合いからのじゃんけんになる。そしてどうせだからとそれぞれ自分で好きなものを追加で買ってきて食べた。


 食べ終わると、手を繋いで駅前まで戻る。


 途中、物陰に潜むようにしてマスクをずらして唇を重ねた。

 ほとんどはじめて、互いの口の中に舌を差し入れ合った。明衣にプレゼントしたばかりのタブレット菓子の、清涼感のある酸味がした。

 燃えるような感情、というものをそこでほとんど初めて感じ合っていた。それはまるで互いの舌の上に多幸感をもたらし合う何かが含まれているようだった。


 どれほどそうして過ごしたのかはわからない。

 誰か知り合いに見られたかもしれない。

 あるいはほんの数秒だったのかもしれない。


 それを交わして、仲むつまじく手を繋いで歩き、駅の改札へと延びる階段で別れた。

 階段を昇る明衣の足取りははずむように軽かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る