2021年3月14日(先負)その1

 3月14日の朝は早かった。

 昨日の荒天と打って変わって、空は晴れ渡っていた。

 合唱部、およびアンサンブル部は例年通りに朝8時頃までの登校を求められた。


 理由は一つ、卒業式の音楽要員である。


 ――そう、この春の卒業式は、例年通りのものとなったのだ。

 むろん、感染対策は徹底された。各生徒は登校前の検温とその結果の学校への報告。

 そして校門では生徒来校者を問わず、全員が非接触型検査機での検温、および用意されたアルコールジェルでの手指消毒。また、校内では水分補給等の理由がない限りマスクを外さないこと――。 


 音楽要員といっても、合唱部に求められるものはアンサンブル部ほど多彩ではない。

 彼らは入場曲、校歌斉唱国歌斉唱の伴奏、証書授与のBGM、退場曲と曲数も演奏時間も多い。

 対して合唱部に求められるのはそのうち2曲の歌唱だけである。


 合唱部員達は式の大半を下手しもての際の、楽団の更に外側に用意されたベンチで座って過ごす。

 去年はアンサンブル部の楽団も合唱もなかった。それらは音源再生で代用された。

 ――それでも、去年の部員らは密やかにそれぞれの普段の練習場所に集合した。アンサンブル部は中学棟の大音楽室に、合唱部員は高校の西校舎の最上階の音楽室である。


 去年を除いた例年通りであれば、合唱部の背にした下手側非常口は開け放たれている。

 これは換気のためではなく、卒業式中の『花渡し』と呼ばれる生徒間の習わしのためである。


 『花渡し』は、証書授与と同時に行われる。

 卒業生が壇上で証書を受け取り、自席へ戻る途中の赤絨毯で、花束を渡すのだ。このために各部在校生は、入れ替わり立ち替わり、非常口からせわしなく出入りするのである。

 なお、部に属さない生徒には、生徒会が用意した一輪巻きが渡される。


 ――去年はこの『花渡し』も音楽要員達と同じく、排除された。

 全員、生徒会が用意した一輪巻きを、教室で配布されて終わった。


 美星高校の卒業式は一般在校生の参列はない。各学年6クラスもあるため、全生徒を体育館に収めたら、保護者の席がなくなってしまうからだ。

 また高校では、芸術選択で音楽を取っていない生徒もいるため、卒業生合唱などもない。


 ――中学までであれば、在校生も参列した。だが今年は去年同様、感染対策としての体育館の過密化を避けるため、在校生の参列はないと聞く。

 

 去年は閉ざされていた『花渡し』の非常口が、今年は開け放たれていた。

 そしてこの朝も、花束をいくつも紙袋におさめて下げた在校生らが、非常口の際で寒そうにしていた。


 合唱部もアンサンブル部も、花束の用意はしている。

 だが、他部のように赤絨毯では行わない。いずれも式が終わり、最後のホームルームが終わった後だ。

 謝恩会までの束の間の時間に、卒業部員達はホームグラウンドであるそれぞれの音楽室に立ち寄る。そこで渡される。両部を兼部している生徒などいた場合は、両方を行き来して両手に花を担いで帰る。


 くして、今年の卒業式は例年通りの運びで行われた。

 外見的な違いはマスクの着用義務くらいだろうか。あと管楽器は飛沫対策用具の装着、合唱部は例の生成りのベールのような歌唱用マスクの着用している。

 赤絨毯の『花渡し』も、渡す担当の者を各部で限定するよう直前で指示が出た。


 ――式は約2時間弱。

 見知った顔と目配せしたり、小さく手を振り合って挨拶を交わしたり、といったことを含んだ時間は、長いようで短く終わった。

 卒業生の退場を見送り、式終了のアナウンスと共に、合唱部員達は非常口から直接外へと退場となった。


「やっと終わったね」

「やったー寒かったー」

「音楽室帰っていいの?」

 通常用のマスクに付け替えた音楽要員達から、なんの名残もなくそんな声がしていた。


 皆、約2時間、風通しの良い寒々としたところを座って過ごしたわけである。元々冷える体育館、大型ヒーターをフル回転しても換気の良さに負けてほとんど有って無いようなものだった。

 これは各部の花束役とくらべて中々にいい勝負のつらさがある。

 動けずとも中で過ごせるだけとマシと考えるか、屋外でコート着用で適度に体を動かしながら待っていられる方マシか。

 いずれにせよ、スギ花粉症持ちにとっては中々の苦行じみた時間であったに違いない。


 一同はぞろぞろと音楽室に戻る。

 途中、間宮先生などは合唱部員の卒業生の親御さんなどに呼び止められて、はぐれた。

 部員たちはそれに構わずまっすぐに音楽室に、いや音楽教官室に向かった。

 目当ては紅茶で暖を取ることである。


 音楽教官室では、保護者に紛れて校内に入っていたOBOG達が茶の支度をしていた。

 ――密やかに、教官室での茶の提供は復活していた。

 もとより連日歌い通しである。練習中に飲み物を切らす部員が出始めたのを見て、間宮先生はやむを得ないとしたのだ。

 部員たちはまるで給水所に群がる市民マラソンランナーのようにそれにたかる。

 『卒業したら自分達がそれをやる側に回らされる』ということを全員忘れて、である。


 お茶を飲みながら、寄せ書き用の色紙が回される。どれが誰宛かは色紙の中央に宛名がレタリングされ、区別がついている。

 まずそれぞれのパートメンバー達が目立つ位置に書き、空いたところにほかの部員達も一言ずつ埋めていく。


 2020年度の卒業生部員は13人、ソプラノ5人アルト2人、テノール3人にバス3人だ。ほぼ全員が『蝶々夫人』でブース入りを果たしている。

 彼らが抜けた後の10年11年は、ソプラノ6人アルト6人、テノール6人にバス5人。アルトとテノールは現11年生の偏りが大きく、新10年生の獲得が期待されている。


 もっとも、音楽の選択授業が始まれば、間宮先生直々のヘッドハンティングもある。他部のように全く自力で部員を集めきらなければならないという負担はない。

 そうした部の人事事情を、いま考える者は各パートリーダーくらいであろうか。


 色紙は毎年、各パートの後輩が渡すことになっている。

 花束は内々に受け取る本人に希望者の聞き出しが行われている。万が一それが間に合わなかった場合、11年パートリーダーが花束を渡す。


 茶を飲み干し、色紙を書き終えた頃、廊下の、階下の方がざわざわとし始める。

 ホームルームを終えて、卒業生たちが教室を出始めたのだ。


 本来ならば、卒業生たちはこのあと、駅前のビジネスホテルの宴会場で謝恩会がある。

 ――去年も謝恩会はキャンセルになった。

 今年も同様である。卒業生たちはこのまままっすぐ帰宅することになっている。


 それを窓から見て、誰かが「おい、そろそろ音楽室に移ろう」と群れを促した。

 花束の担当者に、ほとんど抜き打ちのようにメッセージカードつきの花束が配られる。


 りょうの手元には『浦木先輩へ』と書かれた花束が託される。

 テノールの、蝶々夫人で二重唱を代わってくれた先輩である。

 彼は卒業後、私大の音楽科に行く。


 明衣には2つ花束が預けられた。

 蝶々夫人第3幕の最後の曲を歌ったソプラノの先輩の分と、『大坪先輩へ』と書かれた花束である。


「え、どうしよう……」

 こまってりょうを見る明衣。

 りょうは小柴美紅を見た。小柴は蝶々夫人の未來の練習の相方だった。部内で最も縁のあるのは彼女のはずだと思ったのだ。

 だが小柴はパートリーダーでもある。既に別の卒業生への花束を抱えてしまっていた。


 りょうはざっと音楽室を見渡して、10年生のアルトの一人を指した。

 その子は部内で最も小柄な生徒だった。

 『蝶々夫人』の舞台上で『坊や』役、すなわち蝶々の幼い息子役を担った生徒である。

「その子に持っててもらって、渡す時だけ自分で持って」

「うん」


 そういうことで、我が子の役を演じた後輩に花束をひとまずゆだねた。

「え、私目隠ししたほうがいいですかね」

 蝶々夫人最後の場面、坊や役の彼女は目隠しをされていた。――母親の自決を子供に見せない、という演出のためである。


 これに明衣はくすっと笑った。

 そして別れのシーンの再現のように大げさに抱擁するふりをして、花束の片方をあずける。


 音楽室の扉が間宮先生の手で開かれ、拍手とともに卒業生たちを迎え入れる。

 恥ずかしそうに1人目が入ってきた。それに続いて颯爽と、あるいは驚いたような顔で続き、涙を浮かべて入ってくる先輩もいる。


 セレモニーとして、在校生部員と卒業生部員が向き合って一列に並び合う。

 そして並んだ両端から、合図もなく駆け寄るようにして花束と色紙を手渡す。


 りょうが浦木先輩に花束を差し出すと、向こうからは襟元に組み付くような熱いハグが来た。

 2年間、部員としてずっと一緒だった人との別れである。

「いままでありがとうございました」

「Nコン、がんばれよ」

 その力強い腕の感触にりょうは胸が熱くなるのを感じながら「はい」と応じる。

 そして花束は受け取られ、改めて固く握手を交わした。


 その横で、それぞれの部員達が言葉やしぐさを交わし合う。

 その中にあって、明衣は2人の先輩方に寄り添われて、3人で談笑している。

 いつしか他の部員達も卒業生を囲んでいる。興奮から握手や抱擁が交わされている。

 ――covid-19など忘れたような状態である。


 その間、顧問の間宮先生といくらかのOBOGは、廊下に出ていた。

 ――中の様子を伺おうとしている父兄らに話しかけて、時間稼ぎをしているのだ。

 部員達がこうなることは毎年のことで、想像に難くない。だが今年はこの有様が外に漏れれば、責任問題になる。


 頃合いを見計らって、音楽室内のOBOG達が部員達の間に割り入って回る。

「親御さんが待ってる。べたべたしてるとこをSNSに上げられると面倒だから」

 そう囁かれて各部員は冷静になり、さっと半歩ずつ離れ合った。


 ほど良いところで、卒業生の保護者らが戸口の開けたところに通される。

 そのあたりから携帯電話やデジカメが撮影音を発てた。

 そのカメラの音が落ち着くと、卒業生たちは親に引かれるようにして戸口にさがった。


 何人かの卒業生はそのまま出て行った。

 ――保護者も卒業生も早々の帰宅を指示されているため、そう長居もできないのである。

 そのようにして、花束を抱いた彼ら彼女たちはまるで花のつむじ風のように去って行った。

 それを見送って、残った部員たちはほっと息をついた。


 静けさの中で、誰からともなく通常のマスクから歌唱用のマスクに付け替えはじめる。

 顧問の間宮先生も校門まで見送りに出ているために姿がない。

 音楽室と教官室の鍵は現部長、バスの津田が合鍵を預かっている。


 ピアノに長けたOGの一人がグランドピアノの椅子に腰かけ、顧問の代わりに津田が指揮の位置に立った。

 そうしてOBOGの補佐を受け、10年生と11年生だけでの自主練習がはじまる。


 卒業式は、合唱部にとってはあくまでもセレモニーなのだ。

 本当の別れの日は、定期演奏会の当日である。

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