2020年10月25日(大安)(※約5000字)
そうして、滞りなく二学期中間試験は終了した。幸いにして、二人とも赤点はない。
中旬の冷え込みから一転して、いくらかの秋らしい温かさを感じる陽気であった。
そんな晴れた週末、先日の水族館へのお誘いは、実施された。
明衣は、長く伸ばした髪をばっさりと落として現れた。
丸髷のために伸ばされていた前髪は、目元が隠れそうほどの長さで、頬の左右に振り分けられている。後ろ髪はうなじより上である。
待ち合わせの場所に来ても、マスクを下げて顔をみせるまでりょうは明衣とは気づかなった。
その髪型を見てりょうは目を丸くし、笑顔というより、少し笑った。
「なによ」
「いや、懐かしいなーと思って」
明衣は少し照れたようにくしゃっと顔に皺を寄せて見せてから、笑んだ。
「やっぱりその方が似合うよ」
「知ってる」
明衣が髪を伸ばすようになったのは中学の演劇クラブに入ってからである。女性役を演じるにあたって、髪は肩先より長いくらいでちょうどいい、というのが理由だった。
りょうはそれを少し残念がったことがあった。『ダチだと思ってたのが、なんかふつーの女子になった感じ』などと言って。
それ以前、二人が遊ぶようになった中学時代、彼女は標準服のスカートよりも長ズボンのほうが似合いそうな、この髪型でいることが多かった。
むろんりょうが短髪を強いるようなことはない。逆に明衣の演劇を優先した容姿づくりに慣れるようになっていった。
それが唐突の短髪の明衣との再会である。りょうは内心、すこし浮かれた。
合流してからの明衣の足取りは年間パスを保持し続けるだけあって実に慣れたものだった。
待ち合わせた駅からの電車の乗り継ぎもスムーズで、入館前に本格派なカレー屋で昼食を済ませた。
館内の巡回も追加のバックヤードツアーも順調であった。
デートコースとしては、完璧に明衣が導いていた。
そして、最後に水族館を出て駅まで歩く途中、一本裏の道に入って小洒落たカフェにまで入った。
そこまで来て、りょうはようやく気付いた。
「これ、もしかしてデートか」
明衣はクリームソーダをもてあそぶ手を止めて、目を丸くした。それから長い前髪を耳にかけながら、思わせぶりに言う。
「あら、今更何をいっているのかしら、この人」
実際、明衣はこの日めかし込んでいた。
りょうはいーっと歯を剥いて見せた。
「むかつくー、そういう事は事前に言ってくれるか。俺なんか、そのつもりで来てないからこんな格好だよ」
りょうの格好は古びたスニーカーにアウトレット品のジャケット、安物のデニムである。
「いいよ、いつも通りのあんたで。私が気張り過ぎてるだけだから」
明衣の服は、流行りのチェック柄のセットアップである。
顔だけ見ても、年頃的に軽く眉を描く程度でよさそうな化粧が、マスクで隠れる唇まできっちり仕上げられている。
蝶々役の舞台化粧とも、学校で教師の目を辛うじてごまかす薄化粧でもない。年頃の少女の本気の化粧である。
「てっきり演劇大会と試験の重圧から解放されたのが嬉しくてしかたないんだとばかり」
「いやー、それもなくはないんだけどもね。実際ご褒美みたいなもんだし」
「ご褒美か、そうだな、ご褒美だもんな」
りょうはそうぼやいてその店の会計を一人で払った。おごりである。
「480円、あざまーす」
「なぜそこでクリームソーダの値段をいうかねーチミは」
「えー、なんかあざといなーと思って」
「そうかー? じゃあ返してもらっていいかな」
「えーやだー」
「ウソに決まってんだろ」
ふざけた節回しで言い合い、笑い合う。
「ついでだから手ぇつないで歩くか」
「やだーカップルっぽーい」
そう言ってふたりはげらげら笑いながら、手を繋いだ。悪ノリ半分に指を交差させ、いわゆる恋人繋ぎをするも、さすがにそれは恥ずかしいと普通のつなぎ方に戻した。
二人は手を取り合ったまま来た時の電車と同じ経路で待ち合わせた駅まで戻った。
そのままホームと電車でお別れ、としようとしたところで、明衣がりょうを引き留めた。
りょうは何かあったのかと思い、一度一緒にホームに降りた。
日は傾いて、電車に沿って吹く風も肌寒い。
明衣はそこで繋いでいた手を握手にかえて、強く握った。
「お、おう?」
りょうはそんな声を漏らすほどに戸惑った。明衣の様子は明らかにおかしかった。
明衣のやや乱れた前髪越しの目は真顔とも緊張ともつかない表情で見開かれ、りょうを見つめた。そして――
「私、あんたが大坪先輩のこと好きなのはわかってる。デートの事も話してくれたし。だけど、私も、あんたの事が好き」
彼女は口走るように強くそう言い切った。
りょうはぎょっとした。
だがその脳裏には、なぜか蝶々を演じていた明衣がよぎった。最後の場面の、真剣で悲痛さのこもったあの面差しである。
あの日のあの舞台上の、あの場面に至るまでの全ての表情が、りょうの見たことのない直向きな顔だった。
いま自分を見る彼女の目は、あの時の顔に似ている。
むろん芝居がかっているという意味ではない。真剣さという意味でだ。
明衣は無言のままのりょうの手を、心細がる子供のように両手でぎゅっと握った。ずっと繋いでいた手はほのかに温かく、添えられたもう一方の手は血の気が引いたように冷たかった。
彼女の目は化粧とはあきらかに違う気配をもって赤らんでいた。泣きそうなのだ。
「
明衣は絞り出すような声でささやいた。
りょうには、それがまるで彼女の心が何かに
りょうは、固い握手を片手ではなく、自分も両手変えた。彼女の温かい手と冷たい手、どちらも
そうして取り合った手を左右にわけ、二人の腕で輪を作る形になる。
二人の間の空間に目をおとして、ぼそりといった。
「ありがとう」
りょうは一瞬自分でも何を口走ったかわからなくて、はたと顔をあげた。
「違うんだ、いや違わない、その、えーと、ちょっと待ってくれ」
「……ううん、ごめん。ごめんね。マジゴメン、ごめん……」
明衣は取り乱して早口に
りょうはここで別の事象に
――このふたり、中学入学からずっと一緒の仲である。
授業で性教育の話があった日などは、月経について体感的な話を
またその前兆として彼女の場合、情緒が乱れやすくなるというのも聞いている。特にマイナス思考が強まるのだそうだ。そしてそれが表出する場面にも、しばしば遭遇してきた――。
その一際激しいものが、今この瞬間生じているのである。
りょうはぐいと彼女をひき寄せて、抱きつつむようにして彼女の背中をさすった。それは、いわば抱き寄せたのに近かった。
「なに謝ってんだ明衣は悪くない。今日一日、むしろへたくそ過ぎる俺の方だろ」
「……うん」
りょうの胸の中で、明衣はゆっくり息をした。その肩も息吹も少し震えていた。
りょうも、彼女につられるように動揺しはじめた心をなだめようと、そのまま一呼吸した。マスクの隙間から香るのか、明衣の髪から甘い匂いがした。
それらを感じながら、りょうはたどたどしく言葉を口から
「まず、俺も、先輩と付き合えるとは、思ってない。俺と先輩では釣り合わない」
これをきいて、明衣は顔をあげた。
マスクが擦れ合うほど、顔を近い。明衣は引き寄せられたときに空になった手を、彼のわき腹より背に回し、ぎゅっと抱いた。正しく、抱擁を交わす形である。
その腕は細いなりにしっかりとして、りょうにはまるで自分にすがって立っているように思えた。
これを受けて、りょうの心はなんともいえない温もりと、罪の意識のようなものを感じた。
「好き、大好き」
明衣は心からの思いをそのままに、そうささやいた。
りょうの首の付け根に押し付けられた明衣の目頭から、何かが鎖骨のくぼみへ伝い流れるのを感じた。さらさらとした温かいものだ。
「そうか、そうだったんだな。今まで気付けなかった。ごめんな」
りょうは明衣をなだめるために背をさすりながら、かろうじてそう応えた。
明衣は背を撫でるりょうの腕の下になった片腕を引き抜いた。その手の先をりょうの伸びかけた襟足の毛の中に滑り込ませる。まるで頭皮をまさぐるように触れる。
何を求めているのか、りょうは直感的に理解した。そして、観念するようにそれに応じた。そうするよりほかになかった。
りょうはそれに導かれるまま、頭を垂れた。明衣は顎をあげて、ふたりの間のマスクがごそごそっと互いだけに聞こえる音を立てて
それは
その口づけは、互いの心の乱れを入れ替えるようだった。
明衣は目を穏やかな眼差しでうっすらと開き、りょうは心の中の動揺の嵐をこらえて、固く閉じていた。
ほどなく明衣はりょうの頭から手を放し、再びこわばる彼の首筋に顔をうずめた。
密着した身体が、互いの体温が高まりを伝え合う。肌寒い日暮れ時を支え合うような温もりだった。
明衣は、彼をほぐそうとチークダンスのように体を揺らした。そのたびに彼女のかかとがこつこつと鳴る。今日の明衣の靴はベロアのパンプスだった。
(この靴も、やけにはしゃいでると思ってた。違うんだよな、きっと俺のためなんだよな)
りょうは徐々にこころの平静を取り戻しながら、その足音にそんなことを思った。
「いつからだ?」
りょうはかろうじてそう聞いた。
「わかんない。たぶん最初からだよ。はじめて一緒にゲームをさそった日より前から」
そう言われて、りょうは苦悩するような面持ちになった。
「俺は、どんだけ鈍感なんだよ」
「ううん、今まで通りでもよかった。けど、怖くなったの」
これには苦笑して、納得したようにうなずいた。
「未來さん……大坪先輩か」
「……うん」
「なあ、髪切ったのも、もしかして俺のためか」
「半分は、そう」
「あとの半分は」
「鈴木杏に憧れて」
りょうは少し笑った。
「好きな役者だとは聞いてたけど、そこまでファンとは思わなかった」
「この前見た一人芝居の動画がかっこよかったんだもん。今夜もチケット取れたら一緒に見に行きたいくらいだった」
「やってるの?」
「うん、真夏の世の夢。野田秀樹潤色の」
「そういえば、駅にポスター出てたなあ」
「うん、水族館から駅挟んで反対側の劇場だもん」
「それなら言えばよかったのに」
「予約の電話で高校生料金の席、並びの席では取れないって言われたから。今日日曜だし。それに、演劇あんまり興味ないでしょ?」
「まあね」
「だから水族館に誘ったの」
「そっか、演劇より俺を選んだのか」
「……うん」
「ありがとな」
「ううん、本当は両方がよかった」
これにりょうは緊張を吐くように大きく息をついて、微笑んだ。
「まったく、明衣らしいなあ」
「そう?」
「ああ、そうだよ。今の状況だってそうさ」
「ん?」
「まったく、何年一緒に遊んでると思ってんだよ」
「どゆこと?」
「おまえさんがどのくらい欲張りかくらい、よく知ってるよ」
りょうは敢えていつもの調子でそういった。
「……そっか。欲張りか。私」
明衣は反省でもするように少し声を低くした。
「うん、めちゃめちゃ欲張り。ほしいものがあると譲らないだろ。ゲームの勝ちとか、人が食おうとしてるアイスとか」
そう言われて、少し笑う。
「そこまででもないし」
「フォールガイズやってる時の明衣はこわいぞー。そこを空けろぉ、って腹から声出てて」
「あは、やめたほうがいいかな」
「いいよ、俺はあれが聞きたくてやってるとこあるし」
「じゃあいいじゃん」
ふたりはくすくすと笑い合った。
そんな他愛もない、ふたりだけに通じる話を抱き合ったまま交わし続けた。
外見的には、甘ったるい恋人たちそのものだった。もう手を繋いだ時のようにそれを恥じらって笑いあうこともない。
明衣の足が慣れない靴に痛み出す前に、と二人は一度駅を出た。そして手近なコーヒー屋に入り、そこでしばらく過ごした。
お互いの感情が温かい飲み物を挟んで平常を取り戻すのを待ったのだ。
だが、明衣はずっと照れた子供のように愛らしく笑んでいた。
りょうはその日、明衣を彼女の家まで送った。日はすっかりと暮れていて、先方の家族からは夕食に誘われた。だが家には上がらず帰った。
明衣との間の空気は、もうかつての友達同士には戻れないような何かを感じていた。
それに家に上がって万が一もっと先に進んでしまったら――その覚悟はなかった。
帰りの電車で、りょうは若干の胃痛をおぼえた。
実感している以上の負担めいた何かが心にかかっているのを、その感触から自覚した。
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