第二片 対価

すっとこどっこい

「失敗したあああぁぁぁ! 主導権取られたあああああぁぁぁぁぁ!」


 それは壊れた目覚まし時計のような、けたたましい叫びだった。


 まるで身体に溜まっていた疲労ごと横からぶん殴られたような、そんな衝撃を受ける。


「ち、遅刻!?」


 どうやら高校に通っていた時の習慣がまだ抜けていないみたいだ。せっかくこの世界に来ることができたのに、身体は向こうのことをまだ憶えている。


 それが、とてつもなく嫌だった。


 太陽の光に目を細めながら、いつも通り朝の習慣をこなそうと立ち上がる。まずは着替え。それから顔を洗って、歯を磨いて。鶏舎で産みたてほやほやの卵を回収してヤギの乳を搾って、ヒルデとあの子の分も一緒に朝ごはんを……。


(あ、あれ……?)


 見えない違和感が、触手みたいに身体をぐるぐる巻きにしている。


(あ……)


 違う。


 締め付けられた身体が、そう叫んだ。


 違う、違う、違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!


「ヒ、ヒルデ! ヒルデ!? ヒルデどこ!?」

 

 うざったいくらいに絡みついてくる幸せなうそを振りほどき、慌てて周囲を見渡す。


 そこは、ただの焼け野原だった。

 

 畑も庭園も動物たちの小屋も、全てが燃やし尽くされていた。赤い屋根に蓋をされた大好きな家は骨組みだけを残して無残な裸体となり果て、全壊だけはするまいと耐え抜いたその骨格が逆に本来の姿を想起させる。


「あ、あぁ……」


 その光景を見て、昨夜の出来事が一瞬でフラッシュバックする。


 理不尽な痛みと、強烈な怒り。謎の火災。知らない男に連れ去られたヒルデ。


 そして──


「お、おぇぇ……」

 

 近くの草むらに、駆けこむ暇もなかった。


 サラマンダー。あの子だった肉の塊。細切れにされたあの子が床に落ち、まだあたたかい血液が飛び散る音。強烈に生物の死を意識させる、外界に飛び出た臓物のにおい。

 

 地獄のような光景が、嗅覚や聴覚まで含めて生々しく脳内で再生される。


「はぁ……はぁ……、うぅ!?」


 それは容赦なく、続けざまに襲ってくる。


「あっ……ぐぅ、お、おぇ……」


何度も、何度もえづく。まるで胃が握りつぶされているのような感覚。


 そうして内容物を全て吐き出し、最後には黄色い泡立った粘液しか出てこなくなったところで、ようやく治まった。


「はぁ……はぁ……っ、はぁ……」

 

 なんとか息を整えながら、自分の姿を確認する。裸足の足元は自分の吐しゃ物でびしょびしょに汚れ、昨晩食べたクリームシチューの成れの果てが泥みたいに膝まで飛び散っていた。よく見れば、パジャマの他の部分も所々焼け焦げてボロボロだ。


「……最悪だ」


 口に残った胃液と共にそう吐き捨てた。他に、今の状況を表す言葉が見つからない。

 

 誰もいない。知り合いも、今のあたしを守ってくれる人も。見渡す限りの草原には人工物が一切見当たらず、人影なんてあるわけがない。


(さ、さむい……)


 そんなあたしにさらに追い打ちをかけるように、森から漂ってくる冷気が体温を奪っていく。春先とはいえ、日本とは違い深夜から早朝にかけてはそれこそ冬のように冷える。だというのに、今のあたしには所々に穴の開いた布切れしか着るものがない。


「…………ヒルダぁ」


 

 本当に絶望したとき、人というのは涙すら出ないらしい。燃え落ちたがれきの真ん中で立ち尽くし、どこに行ってしまったのかもわからない唯一の知人の名を呼ぶ以外に、できることがない。

 

 これから、どうすればいい? 


 もちろんヒルダのことは探しに行きたい。でも手掛かりがひとつもない。ヒルダを連れ去ったあいつの居場所も、そもそも名前すらわからない。


「ちょっと」


 いやその前に、ここにいても凍え死ぬか飢え死ぬだけだ。歩き続けていればきっと……たぶん、どこかに町があるはず。もう今はその可能性に賭けるしか──


「ちょっとってば!!」

「うわあ!?」


 頭上に広がる曇天を切り裂くような鋭い怒声に、崩れ落ちそうだったあたしは思わず飛び上がってしまった。


(い、いったいなにごと……?)


 声の発生源を探そうと周囲をぐるりと見渡すが、やはり誰もいない。もしかして、目に見えない妖精かなにか? ひょっとしたらこの家にシルキーが憑りついていた……?


「どこ見てんのよ! ここよ! こ・こ!」


 たぶん、胸のあたり。そこからキンキンうるさい金切り声がする。


 というかこの耳障りな声、なんだか聞き覚えがあるような……。


「もぉ~! どんくさいやつね!」


 いよいよ声の主も堪忍袋の緒が切れたのか、突然あたしの首がぐいぐいと引っ張られた。思いっきり右へ、次は左へ。


 そのたびに細い鎖のようなものが、肉にめり込んで首が締まる。


「ちょっ、くるし……」


 謎の物体に首を締めあげられながらも、なんとか声を上げる。だが相手にはまったく聞こえていないのか、その暴れっぷりにどんどん拍車がかかっていく。


 酸欠で頭がクラクラしてきた。足元がおぼつかず、さっき自分が吐いたものを何度も踏みつけてしまったけれどそれを気にする余裕もない。


「こンの……いい加減に、しろぉ!」


 いよいよこちらも命の危険を感じ、首に食い込む鎖を両手で引っ掴む。それはネックレスのようにあたしの首周りをぐるりと囲んでいて、紐みたいに細いくせにいくら力をこめても引きちぎることができない。


「っておおおおおい!? ばかばかばかなにしてんの! ちぎれる! ちぎれるぅぅぅ!」

「それ……は! こっちの! セリフ……だってぇのぉ!」


 なにをしてるかだって? それこそこっちが聞きたい。どこの誰だか知らないが、このままだと真面目にあたしの首が切断されかねないのだ。


「って、え?」


 腕の力を抜き、はたと考え込む。


 あたしはてっきり、見知らぬ誰かがこの首輪を魔法で動かしているのだとばっかり思っていたのだけれど。


 今、あたしが無理やりに引きちぎろうとしているこの鎖。それを受けてちぎれるからやめろという謎の声。


 それは、つまり?


「もしかして、これがしゃべってる……?」

「はぁ、はぁ……。ええそうよ。やっと気づいたわね、このすっとこどっこい」


(す、すっとこどっこいって、なんだか久しぶりに聞いたなぁ)


  酸素の足りない頭では、それが精いっぱいのリアクションだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る