破開

 ものすごい衝撃と共に壁に叩きつけられ、ずるずると床に這いつくばる。


「ッ……カハッ……ァ」


 息が、できない。今まで経験したことのない苦痛に肺が押しつぶされる。口の中がすっぱい味がして気持ち悪い。目の前が霞んでチカチカして、まるで自分の身体が自分のものじゃないみたいに感じる。


「─────────!」

「───」

「……───、─────────」

「─────」

「────────────」

「────」


 誰かが怒鳴る声。もう一方の、血が固まりそうなほどに冷めた声。耳がキーンとしてちゃんと聞き取れない。


 あたしを吹き飛ばしたのは、多分冷たいほう。でもそんなこと今はどうでもいい。とにかく、身体中が痛くて動かせない。


 ああ痛い。いたい。イタい。


 手と足の骨が折れてる……? ろっ骨が折れて内臓に突き刺さってるかも……。


 痛い、苦しい、辛い、恐い、寒い。


 誰か……誰か助けて……!


「──────! ──ネちゃん!」


 少しずつ、聴覚が戻ってきたのを感じる。痛みと恐怖で凍り付いたあたしの心を、聴きなれた声がゆっくり溶かしていった。


「ああ、よかった……意識がある……」


 聴覚に続いて徐々に視界も輪郭を取り戻し、色がついていく。そんなあたしの目の前に広がるのは、青白くなったヒルデの顔。大好きなその水色の髪よりも蒼白になっている。ひょっとしたら、あたし以上にパニクっているのかもしれない。


 ヒルデは大人のクセに中身は子供だから。あたしが、しっかりしないと。


「だ……ぃ、じょうぶ……です、よ」


 自分のものとは思えない、とぎれとぎれの掠れた声。


 コヒュー、コヒュー、と気管に空気が流れる音がやけにうるさい。


「待ってて、すぐに治すから!」


 そう言うと、どこからともなく現れた杖をあたしに向けたヒルデが息を吸い、言葉を紡ぐ。


『戻せ。戻せ。常若(とこわか)の国の住人よ──』


 これは……呪文?

 

  杖というのは意識を対象に向けるための道具。


 呪文の詠唱は体内で編んだ魔法を外界に表出させるための道しるべ。


 道しるべとなるものは術者ごとに違うから、同じ効果を持たせた魔法であっても同様の呪文が用いられることは決してない。


 これもヒルデから学んだこと。


『──この者が食すは金の蜜。この者が授かるは銀の枝』


 彼女の詠唱と同時に、見慣れた杖からあたたかい光が溢れ出してきて、ゆっくりとあたしの中に流れ込んでくる。


 すると傷ついていたあたしの身体がみるみるうちに修復されていき、呼吸が、視界が、音が、温もりが、少しずつ戻ってきた。


 それは、まるで時間が逆行したかのような感覚。


「……どういうつもりだ」


 それを、邪魔する人が居る。


「この子を助けます」

人間マンナズごときに、魔法ノルンを使うか」

「当たり前です」


 師匠とあたしを見下ろす、背の高い男。


 まっ白な外套に、炎のように燃える紅蓮の長髪。そして整ってはいるが人形みたいに無機質な顔立ち。そこにある瞳は、髪色とは対照的に寒々しい印象を与える。


 こいつが、あたしを……?


魔法ノルンとは、我々天上の民のためのものだ。下界なんぞで暮らすうちにそんなことも忘れたのか」

魔法まほうとは、この世に生きる全ての生命で等しく分かち合うべきものです。誰かが独占していいものでは決してありません」

「相変わらずだな。

「……あなたも、変わりませんね」


 ヒルデは男の方をちらりとも見ずに、あたしの治療に集中している……ように見える。


 でも実際は、この男を警戒している。今まで一度も見たことのないヒルデの険しい顔つきと張りつめた声音が、それを物語っていた。


「まあそれくらいの時間はやろう。こちらとしても、お前とは友好的でありたい」

「感謝します」

「それを直したら、すぐに発つぞ」


 ──え?


「……ど、どういう……」


 どういうことですか。


 声にならないあたしの問いかけを、師匠は何も言わず笑顔でかわす。


 ……違う。そうじゃない。


「まだか」

「せっかちですね。もう少し待ってくださいよ」


 そうじゃない。そうじゃないんです、ヒルデ。


「……よし、おわり♪」


 しわくちゃになった折り紙を無理やり元通りにしたみたいな、くしゃくしゃの彼女の笑顔。


 ああ。

 この顔を。

 あたしは、知ってる。


「どうしてそんな顔!」


 すっかり元通りになったあたしの身体。その身体が、あたしの意思を離れてヒルデに掴みかかる。


「どこに行くつもりなんですか!」

「ア、アマネちゃん……」


 いつもの時間、いつもの場所。買い物に行くと、そう言って出ていったあの人は二度と戻ってこなかった。


 思い出したくもない、忌々しい記憶。ひとつを思い出すと芋づる式に他の嫌な出来事までフラッシュバックしてくる。


 あっちの世界では、生きていてもいいことなんてなにひとつなかった。身勝手な親のせいで周囲の大人たちには有りもしないことを言われ、同級生にはそしられなじられ。


 だから、ここでなら。


 なんにも無いここでなら、新しくやり直せる。ゼロから作り直せるって、そう思っていたのに……!


「置いてかないで! どこにもいかないで!」

「……ごめん、ごめんね」


 笑顔を崩さず、涙も流さず。子供の様にすがるあたしの手を柔らかく包み込むヒルデの手。


「あ……明日! ううん! えーっと、来月くらいには! きっと帰ってくるから!」


 あたしよりも小さなその手は、微かに震えていた。


 決して長い付き合いではないけれど、あたしの師匠は嘘をついてる。それくらいは、不出来な弟子でもわかるよ。


「……おまえか」


 だからあたしは、あたしの大切なものを奪おうとする敵を睨みつける。


 白い外套の、さっきからずっと無表情の男。


 こいつだ。こいつが来てから一瞬でおかしくなった。


 恐怖に代わって徐々に湧き上がってくる怒りと憎しみが、理性をドロドロに溶かしてあたしを突き動かす。30センチ以上はありそうな圧倒的体格差も、その腰に下げられた剣みたいなものだって関係ない。


「師匠をどうする気だ!」


 無言。


「……なんとか言えよ!」


 激情に任せて声を荒げても、あっちはあたしのことを見ようともしない。その金色の瞳に映るのは、ヒルデの姿だけ。


 ──ああ、そうか。そういうことか。


 クラスメイトだった連中と一緒の目だ。こいつの中で、あたしは細切れになったそこのドアと同じなんだ。あたしなんて視界に入れる価値もないって、そういうことなんだ。



 ……ふざけるな。



 ふざけるなふざけるなふざけるな!


「おまえがあああああああああ!」

「ダ、ダメよアマネちゃん!」


 ついさっき治してもらったばかりの身体を無理やり動かし、一直線に駆け出す。師匠の言葉も聞かず、拳を振り上げ殴りかかる。


 ケンカなんて今まで一度もしたことはない。ましてや誰かを殴った経験もない。


 それでも、この人だけは絶対に守らないといけない。


 だって、この人だけがあたしを!


「えっ?」


 その瞬間、視界がぐるりと一回転した。数秒遅れて、またしてもあたしは強烈な痛みに襲われる。


「うっ……ぐぅ……」

「やめて! お願い!」


 気付けば、あたしは足をすくわれ床に這いつくばっていた。


 首元には、鈍く冷たい感触が。


「やめて! ちゃんと戻るから! 言うこと聞くから! その子だけには手を出さないで!」


 ぐらつく意識を師匠の叫びで必死に繋ぎとめ、身体に力をこめる。たとえ手足が千切れても首を斬られても構わない!


 そうして立ち上がろうと足に力を込めた、次の瞬間。


 がれきの山が爆ぜた。


「グアアアアアアアアアア!」


 サラマンダーが咆哮をあげながら、あたしを守るように男に向かって飛び掛かっていた。炎を鎧のようにまとうその姿はまるで灼熱の弾丸。人間では絶対にかわせない速度で、あっという間に男との距離を詰めていく。


「煩わしい」


 あたしの喉元にあったはずの剣先が、いつの間にかなくなっていた。


「あ」



 ぼと、びちゃびちゃ、ぼと。



 一瞬の出来事だった


 それは、肉片が床に落ちる音。


 それは、ついさっきまであたしの横で寝息をたてていたあの子。


 あたしが師匠に拾われる前。お腹を減らしながら寒空の下で寄り添って眠ったあの子。


 いつもあたしの料理を手伝ってくれて、四六時中あたしの後ろについて回っていたあの子。


「あ、あぁ」


 名前すら、つけてあげられなかった。


「ああああぁあぁあああぁあああぁぁあああぁああ」

 

 

 ──カチリ。



 身体の内で、錆びた錠前が開く音がした。

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