不吉

「ふぅ……」


 簡素な机と、羊毛をこれでもかとたっぷり詰め込んだふかふかのベッド。魔法の勉強に使う分厚い本が数冊しまってある小さな本棚。


 レースのカーテンから差し込むのは、銀色の月明りと優しい春の夜風。


 自家製のカモミールティーに口をつけながら、ほっと一息。


 晩ごはんの後片付けを終えたあたしは、自分の部屋で今日学んだことの復習をしていた。


 家事や畑仕事、動物の世話や庭の手入れ。それ以外の空いた時間で、あたしはヒルデに教えてもらいながら、この世界について学んでいる。


 あたしが今いる『ユグ』と呼ばれる世界。ここに生きる生命は、主に五つの種族で構成されている。


 創造神オーディンの直系の子孫で、強力な神造兵器を持つアース神族。


 アース神族から分派した、不思議な魔法を自在に操るヴァン神族。


 強力な妖精が高度な自我を持った結果生まれた、ルーン魔術に特化したエルフ。


 狂悪狼と呼ばれる巨大な狼ユミルの子孫であり、突出した身体能力を持つ獣人。


 そしてあたしたち、人間。


 これらの種族はそれぞれが独自の領土を持ち、その中で生活しているらしい。


 それ以外にも魔法のこと、ルーン魔術のこと、妖精とか不思議な生き物たちのことなどなど。


 師匠は本当に色々なことを知っていて、あたしはそんな彼女の言葉を聴くたびに心を躍らせ、同時にとある確信を強めていった。


 それは、この世界があまりにも『北欧神話』に酷似しているということ。


 アース神族やヴァン神族なんてものは、あたしが元居た世界に伝わる北欧神話の代表的な登場人物だ。


 だがなによりも決定的だったのは、北欧神話最大の特徴である、世界の中心を貫く巨大なトネリコの樹。


 敬意と畏れを込めて、世界樹や宇宙樹なんて呼び方をされる『ユグドラシル』。


 あたしは窓の外、永遠に広がる草原のはるか先にぼんやりと映る大樹を眺める。


 そう。その樹の名前は、ユグドラシル。


 それがこの世界にも、存在している。


 当然、最初は戸惑った。子供の頃、寂しさを埋めるために通った図書館で何度も読み返し、冒険したその世界に、本当に迷い込んでしまったのだから。


 まるで『タンスの奥に広がるのは一面銀世界だった』みたいなファンタジー映画じゃないか! そうやってものすごく興奮したのを今でもはっきり覚えている。


 でも、あたしの知っている北欧神話とは違う所もいくつかあるのだ。ひとつひとつ言っていくとキリがないが、一番大きな違いは『巨人』がいない、ということだろう。


 北欧神話といえば、目玉となるイベントが神々の黄昏、ラグナロクだ。


 ロキという人物の悪行をきっかけに神と巨人同士が争い、その結果世界が一度滅びる。その戦いをラグナロクと呼び、聖書などとは違って神々諸共世界が滅ぶというのが北欧神話の特徴だろう。


 その他にも、やたらと人間くさい神様たちのお話たちはとっても魅力的だ。少なくとも、あたしはそう思う。


 神様はこの世に一人しかいなくて、しかも不死で全知全能。そんなふざけたものにいつまでも縋りついているクソみたいな場所は、もうこりごりだった。


 だからあたしは、時には横暴さすら感じる神様たちが自由気ままに暴れまわる北欧神話にどんどんのめりこんでいったのだと思う。


 ……少し嫌なことを思い出してしまって、思わずペンを握る指に力が入る。まとわりついてくる記憶を振り払うように、あたしはインクの尽きない羽ペンを滑らせた。


 隣にオード・サガと呼ばれる民話集を広げ、でこぼこの羊皮紙の上に改めてこの世界を簡易的に描いていく。


 雲の上に広がるのは神々とエルフの国。そして地上にはあたしたち人間と獣人、その他の動物や隣人たちが暮らしている。


 地上の生活区分をさらに細かく分けると、ユミルのまつげで出来たとされる巨大な円形の柵。その内側で広大な都市を形成しているのが人間、そして外界の野原に追いやられたのが獣人、という構図らしい。


ここまでをまとめ終わって、あたしは筆を置いた。椅子を前後に揺らしながら、その相違の意味について考えてみる。


 そう、巨人。


 このユグの世界には、巨人がいないらしいのだ。ラグナロクの主役ともいえる巨人が。その代わりなのかどうかは分からないけれど、『獣人』と呼ばれる種族がどうやら繁栄しているらしい。


 らしい、というのは、あたしが実際にこの世界で出会ったのが、師匠と、彼女の家の周りに広がる畑とハーブ園。魅力的な魔法。そして、よだれが出るほど興味を惹かれる不思議な生き物たちだけだから。


 師匠の家の周りには町も人工物も何もなくて、とにかく地平線を遮るものが一切見当たらない。強いて言うなら肉とかハチミツとか、畑で作れない食材の調達に行く森があるくらい。


ヒルデが患者さんの治療のために時たま出向く町までは、人の足で歩いていくと半日はかかると言われた。彼女がそこまでどうやって行っているのかはわからない。気づいたらいなくなっていて、いつの間にか戻ってきているから。


 少し前に移動方法を教えてほしいと頼んだら、なにやら聞いたことのない言葉が次から次へと飛び出てきて……。


 あの時の彼女の話を理解できた範囲でざっくりまとめると、何やら特別な軟膏を使って空を飛んでいるとかなんとか。


 と、とにかく。そんな絶海の孤島みたいな場所にある家だから、人が訪ねてきたことなんてもちろん一度も──



 コンコン。

 


  聞き慣れない、というか、ここで暮らすようになってから初めて聞いた、誰かがドアをノックする音。


 まるで計ったかのようなタイミングで静かに鳴り響いたそれに、思わず立ち上がる。いったい誰だろう。こんな人里離れた場所で、しかも森も寝静まったような遅い時間に。


 もしかして、あたしみたいに迷子になった人……?


 それなら助けてあげないと!


 そう思い、あたしは部屋を飛び出て迷うことなく一階の玄関へと駆けていく。


 突然あたしが動き出したせいで目を覚ましてしまったのか、横で寝ていたサラマンダーも後ろからノソノソとついてきた。


「寝ててもいいよ?」


 そう言うと、ふるふると首を振りながら足元にまとわりついてくる。


「そっか」


 かがんで軽く頭をひと撫ですると、気持ちよさそうに目を細めた。早く名前をつけてあげたいんだけど、中々これというものが浮かばずそのままになってしまっている。明日ヒルデに相談してみよう。



 コンコン。


 

 すると、もう一度ノックが。それは寝ているかもしれないこちらを気遣うような、優しい音だった。


「あ、はーい」


 きっと、悪い人ではないだろう。


 そう思い、ギシギシと階段を鳴らしながら駆け降りてガチャリとドアを開いた。


 それにしても、今夜はやけに静かだ。いつもなら窓から森や川に住む妖精たちがいたずらを仕掛けにやってくる時間なのに。


 なんだか胸がざわめきたって落ち着かない。いつもと違う雰囲気に、知らず身体がこわばる。念のためドアを半開きにして、外の様子を伺いながら訪問者に声をかけた。


「はい、どちら様──」

「アマネちゃん! ダメ!」


 背後からの突然の大声に、思わず身をすくめる。


 それは、初めて聞くヒルデの金切声のような叫びだった。こちらに手を伸ばしながら必死の形相で駆け寄ってくる。


「え、ヒルデ?」


 この時間はいつも地下の研究室にこもってるはずじゃ?


 あまりにも急な出来事に頭と身体が追いつかず、立ちすくんだままそんなことを考えていた、その次の瞬間。


 あたしの身体は、紙切れみたいにドアごと壁まで吹き飛んでいた。

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