過去と赤い雫 2
社交的で仕事熱心な父親は、家では王様のように振る舞っていた。
昔は無茶をしたという父は弱肉強食を信条とし、自分より弱い存在や価値観が違う人間に存在価値はないと考えているようだった。
子供にかける言葉はしつけのため。妻にかける言葉は助言で忠告で、愚か者を諫めるため。父の言葉はあの家において正義で、それ以外は悪だった。
――お前のせいで、母さんはもう子供が産めなくなったというのに。
――唯一の子供が陰気で根暗な失敗作か。
――おれはこれまで精一杯働いて、人とかかわってうまくやってきたというのに。どんな間違いで子供がこうなるんだ。
自分に従って当然のはずの家族が気に入らない真似をすると、殴りつけた。数少ない私物を壊し、捨てた。大切にしているものほど、目の前で破壊した。
口は悪いけどいいやつだから。たまに口より先に手が出るけど、根は悪いやつじゃないから。父を昔から知る友人はよくそう言う。
あの家は父に支配されていた。
ある日の夜、客が来た。近所の住人ではない突然の来訪者は、強盗だった。
そのとき子供は、強風が吹き荒れているから玄関内に入れていた植木鉢に植えられた植物を眺めていた。
家に押し入ってきた強盗は応対に出た母親を突き飛ばし、刃物を取り出して子供を人質に取ろうとして――間に割って入ってきた母親に、子供に向けたナイフが突き刺さった。
騒ぎを聞きつけて自室から飛び出してきた父が、床に倒れた妻を見て、叫んだ。
「なんでそんなやつを助けた!」
その言葉が頭にこびりついて、消えない。
アスタが街の食堂で食事していると、近くの席から声が聞こえてきた。
「あの錬金術師、最近領主の屋敷に出入りしていたようだが」
「リンドグレン家の令嬢に依頼されたらしい」
「いくら領主が錬金術師に出資しているからといって、緊急事態でもないのによくもまあ、あんな不穏な子供を呼びつける気になるものだな」
「子供といってももう十五、六だったか。あのときの事件から、もう八年か」
俺たちも年を取るはずだ、と男性客は笑う。
「強盗押し入り事件、その生き残りの子供、か」
「そう。あの人殺しの」
続けられた言葉に、アスタは食べていたものが喉につまるかと思った。そこから展開した話は、食べていたトマトシチューがまずくなる内容だった。
血の海の中で発見された子供。
子供の前で倒れていた父親の首には、その家にあったペンが刺さっていた。
争いになり、父親は強盗を倒した。生き残った父親を殺したのは、真っ赤に染まった服を着た子供ではないかと言われている。
父親はあまり笑わない内向的な子供のことを、自分に似ていない陰気な子供だ、生まれつき異常なのかもしれない、と友人たちに話していたという。
子供は年のわりに博識で利発だった。強盗に襲われて倒れているときに急所を狙えば、子供の力でも人を殺せることを、知っていたかもしれない。
「人を殺したことがある者なら、死者の蘇生くらいやってのけるかもな。倫理観なんてないだろうから」
その言葉に、動かなくなった人の形をしたホムンクルスを埋めたことを思い出した。
「案外そんな子供だから、あの館に住んでいた錬金術師は自分の研究のために引き取ったのかもしれん」
「自分と似た異端者だから後継者にしようとした、か」
笑い声が上がる。客たちの会話に耳を塞ぎたくなって、アスタは残りを無理やり食べきって、食堂を出て行った。
しばらく歩いても、動悸は治まらなかった。頭がぐらぐらし、どこを歩いているかよくわからなくなる。
――ヨルンさんが人を殺した。
そんなはずはないと思いつつ、いつも黒い服を着ていることを思い出す。そういうことなのだろうか。だから、他者とかかわるのを避けていたのだろうか。
考えはまとまらず、答えは出なかった。
数日後。街を歩いていたアスタは、カティヤと行き会いお茶に誘われた。
久しぶりに訪れた領主の屋敷の応接間は、秋らしいインテリアに彩られていた。茶菓子は栗やベリー系の果実を使ったもので、手がかかっていそうな甘味が綺麗に皿に並べられている。
「それで、どうかしたの?」
紅茶を傾けながらしばらく世間話をした後に、カティヤはそう問いかけてきた。
「別になにも……」
「そう見えないから訊いているのよ」
この間、ヒスキにも気落ちしているのを当てられたことを思い出した。率先して顔に出しているつもりはないのに、そんなにわかりやすいのだろうか。
アスタは溜息を一つ吐いて、先日ヨルンの過去の不穏な噂を聞いてしまった、という話を打ち明けた。
カティヤは紅茶を飲んで頷いた。
「私も聞いたことがあるわ。強盗と両親が倒れている血の海の中で、たった一人生き残った男の子。もしかしたらその子が争っていた大人にとどめを刺したのかもしれない、という話でしょう」
「えっ、でも……」
だったらなぜ、そのことをおくびにも出さずにヨルンに接しているのだろう。
「街外れに住んでいて言い返して来ない錬金術師なんて、勝手な憶測で話の種にされる格好の的よね」
街に出てきた頃にアスタが聞いた声を思い出した。街の住人たちからの、錬金術師の少年に対する酷い言い草。自分たちから遠い存在ならなにを言ってもいいかのような、相手を人間扱いしていないかのような言葉。
アスタもかつては集団から外れた存在だった。根も葉もないことを言われる事態に、覚えがないわけではない。
「それに例えその状況で殺していたとしても、正当防衛よ」
「……家族を殺していたとしても?」
「その家族に虐げられていて、これが閉じた家族の輪から逃げ出せる最初で最後の機会だと思ったとしたら?」
考えたこともなかった。
物事なんて、どの角度から見るかで印象は変わってくる。事件の生き残りの子供を世間話の種にするような街の住人からの評が、真実とは限らない。
「領主やその家族も、あることないこと言われているわよ。自分たちよりいい暮らしをしている人は、どこかで悪さをしているものだと思いたいんでしょ。有名税ね」
慣れているとばかりにカティヤはさらりと語った。
「それで、アスタは真偽が定かでない噂と、自分を作ってくれた錬金術師と、どちらを信じるの?」
曇っていた心の中は、晴れていた。
「わたしは……ヨルンさんを信じたいです」
心に浮かんだ答えを口にする。
「なら、本人に直接訊いてみたら?」
「でも、掘り返されたくないことだったら……」
「それならそれで、触れられたくない過去なのだとわかるわ。でも、アスタが訊いたら教えてくれるんじゃないかしら」
手かつけられていなかったベリーのタルトに、カティヤはフォークを突き刺した。
「ヨルンはもう、街外れの館に閉じこもっているだけの錬金術師じゃないわ。そうなったのは、アスタとかかわるようになったからよ」
「は、はい……わたし、ヨルンさんに訊いてみます」
こぶしを握り締めて、アスタは宣言した。
その日の夜、夕食を食べに居間にやってきたヨルンに、アスタは向き合った。
「そうか。最近元気がない気がしたのはその噂を聞いたからか」
「すみません……」
「謝らなくていい。それで、僕が人を殺していたらどう思う?」
「やむにやまれぬ事情があったのかと」
「君のように、人は善性のものだと信じられたらいいんだがな」
自嘲するように、ヨルンはそうつぶやいた。
違う。カティヤの受け売りに過ぎない。アスタが前向きな考えしかできないような思考回路だったら、ここ数日ここまで悩むこともなかっただろう。
だけど噂に惑わされたとしても、悪い予想をしてしまったとしても、それ以上にヨルンを信じたいと願った。だからこうしてヨルンの前の席に座っている。
「どんな話だとしても、聞いてくれるか?」
「……はい」
アスタが頷くのを見て、黒衣の錬金術師は幼い日のことを語り出した。
倒れた母にヨルンは手を伸ばしたが、床に伏したまま身体を起こすことはなかった。刺された脇腹から血が広がっていき、服と床を赤く染めていく。
すぐ近くでけたたましい物音が聞こえる。なにかが割れたような音。なにか叫ぶ声。その内容が頭に入って来なかった。
大声がして、そちらを見上げた。父が強盗から奪った刃物を奪い、侵入者の腹に突き刺していた。強盗は倒れ、父は刺さった刃物を引き抜いた。倒れた男はもう動かない。
最後、父はヨルンを見た。明かりに照らされて、瞳が不穏に光った気がした。
――殺される。
そう直感した。
刃物を手にした父が、ゆっくりと近づいて来る。いつもと同じ大きな足音に、液体を踏んだ音が混じる。
――ああ。これで終わりか。
母親の器官を駄目にしたのだから。父親に疎まれているのだから。だから父の手によって殺される。無に帰る。
夜が明けたら父は死に物狂いで強盗を倒したと供述するのだろう。妻と子供は犠牲になったが自分は二人の死を悼んでこれからも生きていくと宣言し、街の住人にたたえられるのだろう。
――きっと間違いだったんだ。すべてが。生まれてきたことが。
死を覚悟したところで、父の身体が傾いだ。
父はふらついた後、首から血が噴き出して、家の壁や天井に赤いしぶきを飛ばした。倒れた父の首には、玄関の棚の上に置いてあったペンが刺さっていた。
悪夢のような光景の中、ヨルンは動けずにいた。
翌日。強盗に押し入られた家で、夫婦も強盗も死んだことが発覚した。血の海の中で座り込んでいた子供一人が生き残った。子供の服は真っ赤に染まっていた。
住人は子供を憐れみつつも、噂する。もしかしたらあの子供が、最後に生き残った父親を殺したのではないか、と。
自警団に保護されたヨルンは、凄惨な状況が起きた理由を問われた。
「親と強盗が争って両者とも致命傷を与えられた、か。坊主が大人だったら、お前がやったんじゃないかと締め上げているところだったな」
悪気などない様子で、さも当然のように自警団員はそう口にした。
自警団が調べたところ、ヨルンを引き取ってくれる親戚や縁者はこの街にはいない様子だった。祖父母は亡くなっていて、両親に身寄りはなかった。
「孤児院行きかね」
「だが本当にこの子が人を殺したとしたら、集団に混ぜるのは危険では」
「父親は知り合いが多いようだが、こんな事件の生き残りを引き取るとは思えん」
子供が口を閉ざしている前で自警団員たちがあれこれ言っていると、取り調べをしていた部屋に入ってくる者がいた。
「事件のことは聞いた。わしがその子供を引き取ろう」
白髪交じりの長い髪に髭、外に出かけるのには不向きそうな着古した長衣を着た世捨て人のような雰囲気の男は、街外れの館に住む錬金術師のクレルヴォ・サウレンと名乗った。
自警団員たちは彼のことを訝しげに見ていたが、厄介な子供の引き取り手としては歓迎するらしく、必要な書類を持ってきて差し出した。
それに記名しようとして、クレルヴォの手が止まった。居心地悪そうに椅子に座ったままのヨルンを見て、問いかけた。
「一緒に来るか?」
ぎょろついた目が見下ろしてくる。
「僕が父さんを殺したって言ってる人もいる。人殺しを引き取るの?」
「おぬしのような子供が人を殺すとしたら、殺されそうになったときだけだろうさ」
人殺しだろうとそうでなかろうと関係ないと、言われた気がした。目頭が熱くなる。両親が死んだと知ったときでさえ泣けなかったのに、凍りついていた心が溶けていくかように、涙が頬をつたった。
「辛かったな」
顔を伏せて目元を覆うヨルンの頭に、錬金術師はしわが寄った手を被せた。
クレルヴォについて行き、街外れの館を目指した。荷物は後で取りに行けばいいと言われた。その頃には自警団の捜査も終わっているだろう、とも。
これまで歩いたことのない道を進みながら、ぽつぽつと話をした。
「僕は、生まれてきたのが間違いなんだ。だから」
「この世に完璧で正しい人間なんておりゃせん。一番愚かなのは自分だけが正しいと過信している者、次に愚かなのはその正しさを押しつけてくる者だ」
これまで周囲から口さがなく言われていたことが、別の色合いを帯びた気がした。
「大丈夫。おぬしは生きておる。言いたいやつには言わせておけ。最後にものを言うのは知識と頭脳、それをどう使うかだ」
そう言って笑う錬金術師を前にして、これまで凝り固まっていた価値観が崩れるのを感じた。
「僕が語る過去が真実かどうかは、君には判断できないわけだが」
八年前の話を終えて、ヨルンはそう結んだ。街で流れている噂を信じるのも自由だと言われた気がした。
「作り話をするなら、もっと自分に都合がいい話をしますよ」
それどころか、この世界のことも館の錬金術師のこともなにも知らなかったアスタに嘘八百を教え込むことだってできただろうに、ヨルンはそうしなかった。
口数が少なく不愛想な少年は、言葉巧みに自分を取り繕おうとしたことはなかった。だからこそ真実味があった。
「ヨルンさんはこういうときに嘘が吐ける人じゃありません」
「そう思うか」
「はい。話してくれてありがとうございました」
礼を言ってアスタは微笑んだ。
すっきりした顔で夕食の配膳をしたアスタは、ヨルンにも勧めて食べ始めた。
同情するでもなく、過去についてそれ以上追及するでもなく。意思を持つホムンクルスは、街の住人とは違う思考回路をしているのかもしれない。
――いや、違うか。
アスタだけが特別なわけではない。カティヤやヒスキも、街外れの館に住む錬金術師の噂の一つや二つ聞いたことはあるだろうが、それを持ち出してヨルンを貶めたり、自分が優位に立とうとしたことはなかった。
これまでずっと、ヨルンは他人に対して壁を作り、扉を閉ざしていた。だがこの街に住む者全員との付き合いを、煩わしい、時間の無駄でしかない、と切り捨てなくてもいいのかもしれない。
春に作ったホムンクルスと暮らし出して半年ほど経った秋の夜に、ヨルンはそう思い始めていた。
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