第5話 まずは数字

 人が壊れるのはたった数秒だったはずなのに、元通りにするまでなんと20分間もを回し続けなければならなかったとは、当時の彼には苦汁をなめる時間であり、何物にも代えがたい充足感に包まれていただろう。


 人を、救おうと奮闘努力しているのだから。


 完全に形が戻った。

 だが、今度は逆に回さなければならないことに気付いて、彼はハムスターのようにを回した。

 1990年から202X年に時を戻すまで、30分もかかった。今まで邪魔だと感じていたカレンダー窓が初めて役に立って素直に感心してしまう。スマホで確認する必要がなかったためだ。

 

「おい、おまえ何で?」

 令和の喧騒が宿った直後、白い柵を登りかけた男性を床に叩きつけ、脅迫するように凄む。一方、相手はにべもなく言った。

「自殺? ふん、俺のしようとしたことなんて勝手だろ」

「んだと? 俺がどれほど頑張ったか――」

「うるさい!」


 轟然と和樹をけなした。びくっとふるえ、男を改めて見た。

 どうやら男の身なりを窺うに、長い間路上生活をしてきた痕跡があった。いつから着替えていないのか不明なほど着古きふるした冬用のコートとそこから覗く灰色のトレーナー。

 今日の最高気温は30度を超えると朝刊に書いてあったはずなのに、場違いな服装……。思わず和樹は目を細めてしまった。


 相手は続けた。

「この決断は文字通り命を懸けてたんだ! 生きづらい世の中から逃げ出す唯一の手段を……このフォルムで貫いてほしかったんだよ!

 分かりづらい日本語を巧みに駆使しやがって! お前ら俺を何だと思ってやがる! 

 おまえらの頭は賢いから困らなそうだよなぁ、そんな蔑んだ目で見やがって……クソだこんな国。

 クソったれな国になっちまったよ、ここはよぉ!」


 彼の口から垂れ流される内容に和樹は辟易へきえきした。何を言っているのか意味不明なのだ。

 浮浪者はふん、と鼻を鳴らした。

「その反応……だろうな。だからだよ。

 だからこそ、俺は決断したのさ。こんなクソったれな日本語から逃亡するため、俺は決断したんだ。

 ――なのに、そのどうでもいい正義心で反故ほごにされた――その踏みにじられたショック、お前にはわかるか? 運転手さんよ」

「どうでもいいって」

 その言いかたに憤慨してしまう。お前を戻すために一体どれだけの数を回したと思っているんだ。

「それにだ」

 ギラリと睨みつけ、和樹を驚愕させるような文言をいった。

「おまえもおまえだ。こんな世の中になっちまったのはおまえのせいだろ!」

「――はぁ?」


 心外だ。こいつとは赤の他人。どこかであったっけ――無いな。記憶のひだをいくら舌なめずりしても、何も味がしなかった。


「――あっそ。

 まあいいわ。お前が悪魔に魂を売っちまったとしても、それもどうでもいいこと。ただ一言言ってやる。

 に、そんな見え透いたこと言われたくはねぇ!」


 ふん、と彼は和樹の肩をわざとぶつけて去っていく。やれやれ、今度はどこを死に場所にするかな――と、ポケットからスマホを取り出して我が物顔で歩きスマホをしながら階段を下りて行った。

 一方和樹は呆然としてしまった。こいつはなぜ、そのことを知ってる? そのことを知っていてなぜ死のうとする?


 手を伸ばして聞きたかった。

 どうして? どうして?


「ありがとうございました!」


 渦を巻く思考が再起動する。

 振り返って感謝の言葉を漏らす駅員さんをねぎらった。


「ところでいつ再開になりますかね?」


 普通なら5分もすれば運転再開できるだろう。それでも事前に出発時刻を知ればその分だけ針を進められる。和樹は、ネクタイピンを取り外し、ずれを戻す。

 駅員は落ち着いた声で答えた。


「そうですね……約『XE70pghliZveF_』から『_lcp=CgZc3YIQ』分で、再開できると思います」


 和樹はネクタイピンを落としてしまった。

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