第4話 能力の限界

 この時計の本性に気が付いていつしか2年が経っていた。新入社員としてのレッテルは既に剥がれ、今や課長として昇進を果たしている。対して、生活は悲惨なものになりつつあった。


 ある日の平日。

 ベッドから窓を覗く和樹は、部屋に注ぐ日射量を見て既に昼を回っているのだろうと思った。


 和樹の心はなにも動じない。むしろ余裕すらあった。

 古ぼけた腕時計に手を伸ばし、毎日する奇跡の行為を平然とやった。


 針を回せば“いつも通り”3時間以上遅くに起きても、“いつも通り”の時刻に家を出ればいい。始発電車に乗り遅れても、“いつも通り”いじれば余裕綽々と寛ぐことができる――これが平日のモーニングルーティンなのだ。


 周囲から見ればこの自堕落な生活自体、もはや「重役出勤」と揶揄やゆされてしまうだろうが、それを言われた彼は不貞腐れるどころかこう思うだけだろう。


 ――だから何?

 彼のプライドはほぼ消失していた。


 この時計に眠る底知れない魅力、利便性、そして何より代償がない――正式には能力を用いる時、代償がないと“彼が思っているだけ”なのだが――ということが、とうにこの時計はりを手放せなくなっていたのだ。


 流行? 一昔前のデザイン?――そんなのはどうでもいい。


 いつしか彼の行動は手放したくない、という風に腕時計を愛で、目的もなく秒針を弄ぶことが増えていく。

 やがて通勤電車を避けるように針を弄り、戻すことが当然だと思い始めた。

 さらに、人を助ける正義感めいた使命を持つことを、『この時計に選ばれた偉大なる人物』としてはもっともだ――と考えるようになっていく。


 そのような彼が、確信犯的思考を駆り立てて朝の優先席から立った。

 眼前で杖をついた年配の男性を押しのけ、調布駅で始発電車を降りる。ホームに降り立ち、乗換えて別の上り電車に移ろうとした――矢先、


(――あ)


 彼の正面から向かって左側、下り方面の電車が来ようとしている。種別は京王ライナー。この駅を理不尽に通過する車両だ。なのに、その男性はホームギリギリに立って、今か今かと立ちすくんでいる。

 年上らしい男性は彼のすぐ隣だった。

 彼のすぐ隣で、自殺しようとしている――。


 すぐに腕時計に手をかけた。遅かった。

 まるで一流の軽業師を目撃したようだった。


 柵を乗り越え、飛び降りる残像。

 一瞬おいて、ブレーキをかける音。

 何かにぶつかり、く音。

 そして――何かが車輪に挟まって引きずり、やがて停止する音……。


 尾を引くような音叉と喧騒、そして制止の三重奏トリオがむなしく通り過ぎ、いつしか救世主としての指先すら止める、凄惨な現場となった。


 アナウンスが流れ、人払いを始める声が鼓膜にぶつかるようになって、彼の正義心を揺さぶった。


 ――何をボケっとしてる! まだ助かるだろ!


 空中分解した赤黒い物体、そこから搾り出た赤い飛沫をぬぐって、左腕を掴んだ。を回し、2分だけ時を戻す。


 だが、ここで事件が起きた。

 周囲は針にしたがってスローモーションのように戻っていくのに対し、現在最も助けたい存在は一向に元に戻らない。


 見知らぬ彼を轢いた、桃と銀の細長い凶器が退いたにもかかわらず、中肉中背だった男性はそのまま――この時計には限界がある。そのことを初めて悟ったのだ。

 けれども、彼はあきらめない。どうしても救いたい、その思いが無駄な行為を加速する。30分、1時間、6時間と時を戻し、彼は焦燥感に駆られる。


≪――彼を救いたいかい?≫

 ――え?


 幻聴が聞こえた。


≪どうしても、君は彼を救いたいんだね?≫

 声の主はどうやら時計からのようだ。質問もせず、針を回しながら和樹は言い切った。

「人を救うのは当然だろ!」


 謎の声は嘲笑った。そして、


≪――そう。なら針を回し続ければいいさ。……ね≫


 72時間が経ち、やがて1年の時が戻るほどに針を弄った時、頃合いを見計らったがごとく、彼の身体が元に戻ろうと動き出した。達成感が彼の身体を駆け巡った。

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